聖戦は、ベッドサイドで(中編②)
深夜零時の病室は、まるで世界の果てに取り残された聖域のようだった。
窓から差し込む青白い月光が、無機質なシーツの上に複雑な陰影を描き、一定のリズムで刻まれる心電図の電子音が、かろうじてここが現実であることを証明している。
「……ふっ、あ……」
不意に、重なっていた唇が離れた。
わずか数秒、あるいは数分。時間感覚を喪失した密会のなかで、二人の間を結んでいた熱烈な接触が解かれる。熱を帯びた呼気が、夜の冷たい空気が混ざり合い、微かな白濁となって消えていく。
ハルトは依然として深い昏睡の淵に沈んだままだ。しかし、その呼吸は先ほどまでの苦しげな喘ぎから一転し、深い安らぎを得たかのように穏やかなものへと変わっていた。
「…………っ」
輪廻は、自分でも驚くほど名残惜しそうに、離れていくハルトの顔を見つめていた。
震える指先が、自分の唇にそっと触れる。そこにはまだ、彼の体温、乾燥した感触、そして鉄錆と薬の匂いが混じったような「命の残り香」が鮮烈に焼き付いていた。
(私……本当に、しちゃったんだ……)
心臓の鼓動が耳の奥で鐘のように乱打され、全身の血液が沸騰したように熱い。
二人が出会ってから、まだ一年も経っていない。世間一般から見れば、それはあまりにも短い月日だろう。
けれど、死線を幾度も共に潜り抜け、互いの血と涙を拭い合ってきた二人にとって、その時間は十数年の平穏な歳月を凌駕するほど、濃密で過酷な重みを持っていた。
「鍵の巫女」という呪わしい宿命。物心ついた頃から、己の命を「鍵」として狙う魔人たちの影に怯え、安息の地などどこにもなかった孤独な幼少期。
世界そのものから拒絶されているような絶望のなかにいた自分を、その強靭な腕で、光の射す場所へと無理やり引きずり出してくれたのが、他ならぬハルトだった。
先ほどのファーストキスは、不可抗力に近い事故だったのかもしれない。
けれど、輪廻にとってそれは、神に捧げる祈りよりも重い、魂に刻み込まれた不可逆の「誓い」だった。
(ただ、好きなだけじゃない……。もう、それだけじゃ足りない)
「初恋」という可憐で瑞々しい言葉では、この胸の奥底で渦巻く黒い情念を言い表せない。
彼がいなければ、自分はとっくに死んでいた。彼がいなければ、自分の心はとうに壊れていた。
ならば、自分の命も、心も、この肌の温もりさえも、すべては彼の所有物であるべきなのだ。彼以外の男が隣に立つことなど、想像するだけで内臓が裏返るような拒絶感が走る。
彼以外には考えられない。彼がいない世界など、もはやくたびれたモノクロの残骸に過ぎないのだから。
「ハルト……っ」
抑えきれない情愛が、輪廻の細い身体を突き動かした。
彼女は、まるで強力な磁石に引き寄せられる砂鉄のように、ベッドの上で無防備に横たわるハルトの胸に顔を埋めた。
魔導騎士として、絶望的な死闘を積み重ねてきた証。
パジャマ越しでもはっきりと分かる、鋼のように厚く逞しい胸板。かつては自分を庇って傷ついた背中を眺めることしかできなかったが、今はその熱源に直接触れている。
ドクン、ドクン、と。
耳を押し当てれば、ハルトの力強い心音が、輪廻の脳髄に直接響いてくる。
自分の早鐘のような鼓動と、彼のゆったりとした生命の音が重なり、混じり合い、境界線が曖昧になっていく。そのあまりにも雄々しい「男」としての圧倒的な質量と存在感に、輪廻はめまいがするほどの幸福感に包まれた。
「……っ……はぁ……」
熱い吐息を彼の胸に吹きかける。
普段の彼女なら、こんな大胆な真似は死んでもできなかっただろう。控えめで、健気で、常に一歩引いて彼の戦いを見守る「鍵の巫女」としての自分。
けれど、今この瞬間だけは違う。
深い眠りに落ちているのをいいことに、彼女のなかの「女」が牙を剥いていた。
(誰にも……絶対に、渡さない。ハルトは私の……私のもの。私だけの騎士様……)
ハルトの胸に頬を強く擦り寄せ、輪廻はうっとりと瞳を閉じる。
銀髪のライバルに啖呵を切った時の強気とも違う。そこにあるのは、獲物を巣穴に持ち帰った獣のような、昏く深い独占欲。
一人の愛しい男を根こそぎ独占したいと願う、狂おしい「女」の貌がそこにあった。
しかし、その背徳的ですらある静寂は、背後から響いた 「知的で艶やかな声」 によって、ガラス細工のように無残に砕け散ることになる。
「――あら。情熱的ね、輪廻さん。少し見ない間に、随分と『女』の味を覚えたじゃない」
「っ!?!?!?」
心臓が跳ね上がった。
輪廻は弾かれたようにハルトの胸から顔を上げ、恐怖と羞恥に震えながら声のした方へと振り返る。
そこは、月光さえも届かない病室の隅。重厚なカーテンが深い影を落とし、闇が最も濃く溜まっている場所だった。
カツ、カツ、と。
硬い床を叩く、計算され尽くした知的なリズム。
闇が割れるようにして、一人の女性がゆっくりと姿を現した。
「カ、カレンさん……!? どうして、ここに……っ」
そこに立っていたのは、鳳カレン。
今日の彼女は、いつもの厳しい任務用の装いではない。
薄手のシルクのキャミソールの上に、サイズ違いのように大きな、柔らかな素材のカーディガンを羽織っている。肩から滑り落ちそうなほどラフに着崩されたその姿は、一見すればリラックスしたプライベートな装いだ。
しかし、露わになった白い肩先や、ショートパンツから伸びる長い脚、そして計算された着崩し加減は、隠しきれない大人の色香と、見る者を圧倒するような「できる女」の余裕をこれでもかと醸し出していた。
「どうして? 決まっているでしょう。有能なエージェントというものは、常に『最優先事項』の状況を、リアルタイムで把握しておくものよ」
カレンは迷いのない、優雅な足取りで歩み寄り、月光のスポットライトを浴びる位置へと踏み込んだ。
金髪を指先で弄ぶ彼女の仕草は、残酷なまでに完璧で、輪廻の未熟な色香など一瞬で霞ませるほどのオーラを放っている。
「私は、誰よりも先にここに来ていたの。ええ、響花が来るよりも、ずっと前からね。……もちろん、あなたがここへ入ってきて、小鳥のような可愛らしい愛を囁きながら、無防備なハルトさんの唇を奪うところも、すべて『観測』させてもらったわ」
輪廻の顔から、一気に血の気が引いていくのが分かった。
つまり、彼女はすべてを見ていたのだ。
響花と女同士の醜い火花を散らした場面も。その後の、自分を制御できなくなった震えるような独白も。
そして、事故を装いながらも、その実、心の底から溺れるように重ねたあのキスのすべてを。
「……っ、全部、見て……いたんですか?」
輪廻の声が、情けなく裏返る。
カレンはフッと口角を上げると、まるで出来の悪い部下の報告書をチェックするような、それでいて残酷なまでに挑発的な口調で告げた。
「一秒たりとも逃さず、ね。データとして記録しておきたいくらい、素敵なキスだったわよ、輪廻さん。……でも、あんなのはただの『事故』という名の甘え。本当の愛の示し方、主導権の握り方というものを、私が教えてあげるわ」
カレンの気配は、完全に消えていた。
一流のエージェントである響花さえも察知できなかった。彼女は、ラフな格好をしながらも、その場にいる誰よりも鋭い牙を隠し、この部屋のすべてを掌握していたのだ。
「さて……。ハルトさんの『唇』という、一番価値のある初陣をあんな形で奪われてしまったのは、私のプランニングミス(計算違い)だったけれど。……でも、私の最終的な勝利に狂いはないわ」
カレンの手が、迷いなくハルトの頬へと伸びる。
その指先は驚くほど白く、そして一度掴んだ獲物は死んでも離さないという、冷徹なまでの強い意志に満ちていた。
「さあ、輪廻さん。そこを退いてくれるかしら? お遊びの時間は終わり。ここからは、**私とハルトさんだけの、濃密でプライベートな『業務時間』**よ」
病室の空気は、輪廻の暴走する情念と、カレンの圧倒的な支配欲が衝突し、火花を散らしていた。
昏睡するハルトを挟んで、少女と女、鍵の巫女とエージェント――相容れない二人の視線が、深夜の闇を真っ赤に焼き尽くそうとしていた。




