硝子の学舎、灰色の残火(前編)
地方都市にある国立大学。
抜けるような青空が、やけに遠く感じられる昼下がりだった。
若者たちの笑い声、スニーカーがアスファルトを叩く乾いた音、どこかから流れてくる軽音サークルの練習曲。
生命力に満ちたキャンパスの中心を――明らかに“場違い”な空気を纏った三人が歩いていた。
「……ちょっと、ハルト」
銀髪のショートカットが、初夏の風に揺れる。
日下部響花は、刃物のように鋭い声でそう言った。
「大学は遊び場じゃないのよ。もう少し、背筋を伸ばしなさい」
タイトなジーンズに、エージェント用のホルスターを巧妙に隠したレザージャケット。
褐色の肌に映えるその装いは、周囲の男子学生の視線を無遠慮に集めていた。
――あまりにも、目立つ。
だが彼女の立ち姿には、華やかさとは別の“圧”があった。
それは戦場を知る者だけが纏う、張り詰めた空気。
「分かってるよ。でもさ……」
ハルトは苦笑しながら、教科書で膨らんだリュックの肩紐を直す。
「響花こそ、その格好。どう考えても目立ちすぎだって」
「うるさいわね。私は仕事で来てるの」
ぴしり、と言葉を切り捨ててから、響花はふっと目を細める。
「……それより」
視線が、ハルトの左側へと向けられた。
「そこの泥棒猫」
ハルトの袖を、ぎゅっと掴んだまま離さない少女。
神楽輪廻は、静かに、しかし真っ直ぐに響花を見返した。
「大学見学なんて名目でついてきて。ハルトの邪魔をするんじゃないわよ」
「……邪魔なんて、していません」
輪廻の声は細い。
けれど、その奥には譲れない何かが宿っていた。
「私はただ……ハルト様の日常を、この目で見ておきたかっただけです」
彼女にとって、ハルトのアパートの外はすべて“敵地”だった。
知らない匂い。知らない視線。知らない音。
それでも――。
この広いキャンパスで、ハルトが笑い、学び、生きている。
その姿を見ることは、輪廻にとって「生きたい」という欲望そのものだった。
(……でも)
輪廻は、そっと隣を歩く響花を盗み見る。
勝てない。
言葉を交わさなくても分かる。
ハルトと響花の歩幅は、驚くほど自然に揃っている。
段差があれば、ハルトが無意識に手を差し出し。
響花はそれを当然のように叩き落とす。
その一挙手一投足が、十数年という時間の積み重ねを雄弁に物語っていた。
――信頼。
それは、恋よりも強く、絆よりも重い。
ハルトの初恋の相手、日下部響花。
その事実は、輪廻の胸の奥に、鉛のような嫉妬を静かに沈めていった。
⸻
「――でさ、ここの講義室、冬はマジで寒いんだよ」
昼休み。
木陰のベンチで、ハルトは大学を案内していた。
「へぇ。あんたがちゃんと講義に出てるなんて驚きね」
響花は肩をすくめ、からかうように笑う。
「どうせ一番後ろで寝てるんでしょ?」
「してないって!」
その笑顔は、エージェントとしての冷徹な仮面が剥がれ落ちたものだった。
ハルトだけに向けられる、年相応の“女の子”の顔。
ハルトは、無意識のうちにその横顔を見つめていた。
(やっぱり……すげぇな)
前線で戦いながら、未熟な自分を気にかけ続けてくれる人。
幼い頃、いじめられていた自分を助けてくれた、あの背中。
憧れは、今も心の奥深くに根を張っている。
その隣で、輪廻は膝の上で手を強く握りしめていた。
自分は、守られるだけの存在。
彼の寿命を削り、世界を歪める疫病神。
「ハルト様……」
「ん? どうした、輪廻さん」
「……いえ。なんでもありません」
小さく首を振り、彼女は微笑む。
「ハルト様は、この場所が……お好きなのですね」
その微笑みは、あまりにも悲しげで。
ハルトの心臓が、不意に跳ねた。
響花への憧れとも違う。
使命感とも違う。
もっと深く、もっと原始的な何かが、胸の奥を揺さぶった。
(俺……今、何考えて……)
話題を変えようとした、その瞬間だった。
「――っ!! 伏せなさい、二人とも!!」
響花の叫び。
次の瞬間、世界が壊れた。
空が――割れた。
次元の境界が歪み、ドス黒い魔力が噴き出す。
「ギギギ……ギガァァァッ!!」
三つの首を持つ、巨狼の魔獣。
魔界からの刺客。
悲鳴。
混乱。
さっきまでの平穏は、跡形もなく消え去った。
ハルトは反射的に、ブレスレット――レメゲトンに手をかける。
「装着――」
「待ちなさい、ハルト!!」
響花が、その手を強く掴んだ。
「正気!? ここにどれだけ人がいると思ってるの!」
声は叱責だった。
だが、その奥には恐怖が滲んでいる。
「その鎧を纏えば、正体は一発でバレる。大学生活も、家族への言い訳も……全部、終わるのよ!」
「でも、倒さないと……!」
「私がやるわ」
迷いはなかった。
「あんたは、その子を連れて隠れてなさい」
レザージャケットを脱ぎ捨て、愛銃を引き抜く。
「いい、ハルト」
振り返らずに、言った。
「あんたの『日常』は――私が守る」
その言葉は、祈りだった。
銃声が響く。
対魔銀の弾丸が、魔獣の肉を抉る。
人間離れした速度。
研ぎ澄まされた体術。
だが――。
「っ……!」
巨大な爪が、響花の肩を裂いた。
鮮血。
転がる身体。
「響花!!」
絶望が、ハルトの喉を焼いた。
⸻
「来ないで……ハルト……っ!」
分かっていた。
ここで彼が変身すれば、戻れない。
だからこそ――自分が傷ついてでも、彼を守る。
ハルトの指が、震える。
(変身したら……終わる。でも……)
輪廻の涙が、地面に落ちた。
(また……守られて……)
三つの顎が、響花に迫る。
その瞬間――。
「――クソ食らえだ、そんな日常!!」
叫びが、世界を裂いた。
守りたいものは、もう一つしかなかった。
「じじい!! 力を貸せ!!」
『カッカッカ!! ようやく腹を括ったか、小僧!』
銀色の鍵が、核へと突き立てられる。
「装着ッ!!!」
灰色の炎が、キャンパスを飲み込んだ。




