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終焉圏、鍵は嗤う(後編③)

魔導騎士ゴエティア・グリードは、返り血と強酸性の粘液を滴らせながら、ゆっくりと、泥濘むような足取りで標的へと向き直った。


その赤黒く発光する禍々しい双眸が捉えたのは、ただ一人。


夜風の中で身を震わせ、祈るように両手を組んで立ち尽くす少女――輪廻の姿だった。


(怖い……っ)


輪廻の足は、極限の恐怖で竦んでいた。


眼前にいるのは、もはや彼女が愛する青年ではない。高位の魔人二人を赤子のように蹂躙し、空間ごと噛み砕いた理外の化け物だ。大楯『グラトニー』の中央で裂けた巨大なあぎとからは、次の「極上の魔力」を求める飢えに満ちた獣の吐息が漏れ出ている。一歩近づくごとに、死の冷気が輪廻の肌を粟立たせた。


それでも、輪廻は逃げなかった。


逃げられるはずがなかった。


(あの鎧の中にいるのは……ハルトだから。私を守るために、自分の命を削って……あんな姿になってまで、戦ってくれたんだから……!)


「ハルト……」


震える唇から紡がれたその名は、今のゴエティア・グリードには届かない。


左腕の異形の大楯が、ゆっくりと、無慈悲に振り上げられる。輪廻の華奢な身体など、一息で噛み砕けるその絶望的な距離の間に――


ガキィィィィィィンッッ!!!


一閃の赤い火花が、夜の闇を切り裂いて割り込んだ。


「――そこまでだ、草薙!」


烈火の如き紅蓮のオーラを纏い、黒銀の魔導剣『ラプラス』を正眼に構えた魔導騎士アスタロト――レイジが、強欲と少女の間に立ちはだかった。その背中は、輪廻を庇うように大きく、そして揺るぎない決意に満ちていた。


『ドケ、魔導騎士。邪魔ダ』


地獄の底で擦り切れたような、金属質の悍ましい声。それはハルトの口を借りて発せられた、グリードキーそのものの意志だった。


「目を覚ませ! この子は、お前が自分の命を削ってまで守りたかった存在じゃないのか! お前、グリードキーに魂まで喰わせるつもりかッ!」


レイジの怒号は、しかし空虚に響く。


言葉など通じる相手ではないことは、相対した瞬間に理解できた。ゴエティア・グリードの全身から、先ほどまでとは比較にならないほど高密度な、ドス黒い魔力の奔流が爆発した。大気が不快な悲鳴を上げ、周囲の瓦礫が重圧に耐えかねて粉々に砕け散る。


『黙レ』


刹那、ゴエティア・グリードが踏み込んだ。


巨躯からは到底想像もつかない、音速すら置き去りにする瞬速の突進。


(速い……ッ!?)


レイジが息を呑む間もなく、大楯グラトニーが視界を完全に埋め尽くした。それは防御のための盾ではない。全てを粉砕し、噛み砕くための巨大な「質量兵器」によるシールドバッシュ。


死の気配を悟ったレイジは、己の魔導回路を極限までオーバークロックさせた。


「ラプラス!」


《Future Sight: GREMORY(未来視:グレモリー)》


レイジの脳裏に、コンマ数秒先の未来がフラッシュバックする。


右下段からのしゃくり上げるような大楯の一撃。それに巻き込まれ、アスタロトの装甲ごと自身の右半身が「喰いちぎられる」という凄惨な未来。


レイジは瞬時にラプラスの刀身を捻り、未来で大楯が到達するであろう「一点」へと滑り込ませた。


ギィィィィィィィィィンッッ!!!


激突。火花が滝のように激しく散り、アスタロトの足元のアスファルトが、隕石の直撃を受けたかのように同心円状に砕け散った。


「が、はァァァッ……!?」


未来視によって直撃こそ免れ、致命傷は避けた。だが、グリードの放つ「強欲」の重圧は、未来を知っている程度で殺しきれるものではなかった。


ラプラスを通じて両腕に伝わる衝撃は、骨を軋ませ、内臓を激しく揺さぶる。大楯に並んだ牙が、刀身をすり抜けてアスタロトの装甲をガリガリと削り取っていく。


『アハハハハハハッ!!』


グリードは哄笑しながら、一切の淀みなく二撃目、三撃目を叩き込んできた。


力任せの大振りではない。獲物を確実に仕留めるための、洗練された獣の連撃。


ガキンッ! ズガンッ!! ギャリィィィンッ!!!


一撃防ぐごとに、アスタロトの赤黒い装甲に致命的な亀裂が走る。


レイジは《グレモリー》を連続発動し、必死に剣を合わせるが、圧倒的なフィジカルの差はどうにもならない。防戦一方となり、ジリジリと後退を余儀なくされていく。


(くそっ……なんて馬鹿げた力だ! これが、グリードキー力だというのか……!?)


『グラァァァッ!!』


グリードが大楯を水平に薙ぎ払う。アスタロトはラプラスの腹で受け止めたが、そのあまりの衝撃に身体ごと宙へ弾き飛ばされた。


「レイジさんッ!!」


輪廻の悲鳴が上がる。


吹き飛ばされ、瓦礫に背中を打ち付けたアスタロトへ向けて、グリードがグラトニーの大口を開けた。アガレスを飲み込んだ空間断裂――『ワールド・エンド』の予備動作。


(ここで、終わるのか……!)


レイジが奥歯を噛み締めた、その時だった。


「ハルト! 目を覚まして……お願い、ハルトォォォッ!!」


戦場に響き渡る、少女の悲痛な叫び。


それは魔力も持たない、ただの物理的な音波の振動に過ぎない。


しかし、それは輪廻の心からの願いであり、ハルトという青年の魂に直接届く、唯一無二の祈りだった。


ピタリ、と。


振り上げられた大楯グラトニーの顎が、アスタロトを飲み込む寸前の空中で静止した。


『……?』


グリードの動きが、糸を切られた操り人形のように不自然に止まる。


装甲の隙間から吹き出していた赤黒い魔力の蒸気が、バチバチと火花を散らしながら激しく明滅し始めた。


『ガ……、アッ……、……輪……廻……』


「強欲」の獣の喉から、苦悶に満ちた少年の声が漏れ出した。


内なる精神世界。


果てしない泥の底、何も見えず、何も聞こえない絶望の深淵に沈んでいたハルトの意識。自分が誰で、何のために戦っていたのかすら忘れかけていた彼の心に、光の糸のように一本の声が降り注いでいた。


(……輪廻……? ああ、そうだ。俺は……彼女を、守らなきゃいけないのに……!)


ハルトの凄まじい意志の力が、グリードキーの支配に内側から抗い始める。


現実世界では、黒い装甲のあちこちが内側からの魔力反発によってひび割れ、グリードが己の頭を抱えて苦しみもだえていた。


「ーーこれで貸し一つだ!」


レイジは、この千載一遇の機を逃さなかった。


弾き飛ばされた体勢から即座に立ち上がり、ラプラスを一度、鞘の役割を果たす魔導デバイスへと収める。


それは最大の破壊力を生み出すための、抜刀術の予備動作。


全身の魔力回路を全開にし、己の命すらも削りかねない紅蓮の魔力を、ただ一点の刀身へと集束させていく。装甲から鮮血のようなエネルギーが吹き上がり、レイジの瞳が鋭く光った。


「死ぬなよ!――ブラッド・レクイエム(血の鎮魂歌)!!」


爆発的な踏み込みと共に放たれたのは、先ほどアガレスの攻撃を弾いた時よりもさらに鋭く、極限まで洗練された三日月状の紅い一閃だった。


それは、ゴエティア・グリードという怪物を「斬り殺す」ための剣ではない。


ハルトの肉体の奥深く、魂の根幹にまで食い込んでいるグリードキーの強制装着状態を、外科手術のように「切り離す」ための、精密かつ神速の一撃。


紅い閃光が、ゴエティア・グリードの胸元――グリードキーが寄生する心臓部を正確に貫いた。


カァァァァァァァァッ!!!


目も眩むような光の奔流が溢れ出す。


紅い斬撃が呪縛の鎖を断ち切った瞬間、ハルトを覆っていた異形なる黒い装甲が、まるでガラス細工が割れるかのようにパリンッ!と軽快な音を立てて砕け散った。


魔導騎士の装甲が光の粒子となって朝霧のように霧散していく。


その中から力なく崩れ落ちてきたのは、全身を返り血と自らの血で真っ赤に染め、ボロボロになったハルトの姿だった。


「ハルト!」


輪廻が瓦礫を蹴立てて駆け寄る。


膝から崩れ落ちそうになったハルトの身体を、彼女は小さな両腕でしっかりと抱きとめた。冷え切ったハルトの身体に、輪廻の体温と、ポロポロとこぼれ落ちる彼女の涙の温かさが伝わっていく。


「よかった……っ、本当に……よかった……っ」


輪廻は声を上げて泣きじゃくりながら、ハルトの背中にしがみついた。


カシャ、と音を立てて、レイジもまたアスタロトの鎧を解除した。


彼もまた、未来視の反動と絶望的な防戦による疲労で立っているのがやっとの状態だった。荒い息をつき、額の汗を拭いながら、抱き合う二人の元へとゆっくり歩み寄る。


「……ふん。ようやく元に戻ったか。……本当に、世話の焼ける奴だ」


レイジは憎まれ口を叩きながらも、その口元には安堵の苦笑いが浮かんでいた。張り詰めていた肩の力が抜け、彼は剣を杖代わりにしてその場に座り込む。


ハルトは朦朧とする意識の中で、自分を強く抱きしめてくれる輪廻の温もりと、少し離れた場所から不器用に見守ってくれているレイジの視線を感じ取った。


「……輪廻、ごめん。怖がらせて」


かすれた声で謝りながら、ハルトは血に汚れた手で、そっと輪廻の涙に濡れた頬に触れた。


命の限界を超えた精神的な脱力感が一気に押し寄せ、視界がぐらぐらと揺れている。


それでも、彼は力を振り絞ってレイジの方を見上げた。


「……西園寺。……助かった」


「勘違いするな。僕はただ、僕の目的のために動いただけだ。お前がここでバケモノに成り下がったら、寝覚めが悪いからな」


そっぽを向くレイジに、ハルトは力なく笑った。


「……二人とも、……ありがとう」


激闘の果て。


破壊の限りを尽くされ、クレーターだらけになった巨大な駐車場に残されたのは、傷つきながらも生き延び、寄り添う三人の影だけだった。


東の空が、微かに白み始めている。


夜明け前の冷たくも清々しい風が吹き抜け、世界を終わらせようとしたアガレスの消えた灰の跡を、過去の悪夢と共に静かに撫でていった。


長く、凄惨な一日が、ようやく終わりを告げようとしていた。

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