終焉圏、鍵は嗤う(中編②)
立ち込める黒煙を、ゆっくりと何かが切り裂いた。
……ギィン。
金属が擦れ合う、不吉な音。
炎に揺らぐ空気の向こう側から、ひとつの影が歩み出る。
「……素晴らしい」
低く、愉悦を含んだ声。
「まさか私を、ここまで“削る”とは」
現れたのは――アガレス。
漆黒の装甲は各所が赤熱し、胸部には深々と刻まれた斬撃痕。
左肩は砕け、そこから溶けた金属が滴っている。
誰の目にも、深手だった。
だが。
その騎士は、膝をつかない。
むしろ、傷口から立ち上る蒸気すら誇らしげに、
悠然と歩みを進める。
瞳の奥に宿るのは、折れぬ闘志と、
冷酷な確信。
勝者の余裕。
「くっ……倒せなかったか……」
ハルトの喉から、血を含んだ声が漏れる。
ゴエティア・ブーストの蒼炎はすでに消え、
紅蓮の装甲は色を失い、
燻し銀へと戻りつつあった。
時間切れ。
対して、アガレスは。
ゆっくりと特大剣ウァッサゴを逆手に持ち替えた。
「ですが……その代償は高くつきますよ」
黒金の装甲から、どす黒い魔力が滲み出す。
それは煙ではない。
液体のような、粘りつく“罪”そのもの。
磁石に吸い寄せられる鉄屑のように、
その禍々しい力がウァッサゴへと集束する。
刀身が脈打つ。
空間が軋む。
重力が、歪む。
足元の瓦礫が浮き上がり、
そのまま粉砕された。
輪廻が、息を呑む。
「……やめて」
その呟きは、
誰にも届かない。
「死になさい――」
アガレスが吼える。
「贖罪重撃!!」
ウァッサゴが地面へ叩き込まれた瞬間。
世界が、沈んだ。
ハルトの足元の重力が、
数千倍へと膨れ上がる。
空気が固体になる。
膝が砕ける。
骨が悲鳴を上げる。
「が、あぁぁぁぁぁぁっ!!!」
防御不能。
ゴエティアの装甲は、
まるで紙屑のように潰れ、
ひしゃげ、砕け散った。
地面が爆ぜる。
放射状に広がる重力斬撃が、
コンクリートを粉砕し、
クレーターを穿つ。
ハルトの身体は、
圧殺されたまま後方へと弾き飛ばされた。
柱へ叩きつけられる。
骨が折れる音。
呼吸が止まる。
血が、霧のように舞った。
静寂。
ほんの数秒の、絶対的な静寂。
「……ハルト?」
輪廻の声は、震えていた。
瓦礫の中に横たわる彼の姿は、
あまりにも無惨だった。
レメゲトンを握っていた右腕は、
不自然な方向へ曲がっている。
骨が皮膚を突き破り、
白く覗いていた。
砕けた装甲の隙間から、
鮮血がとめどなく溢れ、
冷たい地面を赤く染めていく。
呼吸は、浅い。
いや――
ほとんど、ない。
「……いや……」
輪廻の視界が滲む。
耳鳴りがする。
心臓が痛い。
(嫌だ)
(嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ)
彼女の脳裏に、次々と浮かぶ記憶。
不器用に笑う顔。
戦うときの真剣な横顔。
自分を守ろうとした背中。
あの背中が、
今は動かない。
「起きて……」
足が震え、前に出ない。
それでも、叫ぶ。
「ハルト!!」
返事はない。
代わりに、アガレスの足音が響く。
コツ……コツ……
ゆっくりと、
処刑人のように近づいてくる。
「……終わりですね」
冷たい宣告。
輪廻の喉が詰まる。
(失う)
(また、失うの?)
かつて守れなかった家族の記憶が、
フラッシュバックする。
あの時も、
こうして手が届かなかった。
もう、嫌だ。
もう、耐えられない。
「いやあああああああああああああああっ!!!」
絶望が、秋空を裂いた。
その時だ。
――ドクン。
瓦礫の中。
ハルトの影が、
わずかに揺れた。
『……ククク』
脳髄を直接掴まれるような声。
『ヤット、スキガデキタ』
冷たい。
粘つく。
甘美な悪意。
ハルトの意識の奥底で、
何かが笑っている。
(だめだ……やめろ……)
身体は動かない。
だが、“何か”が動く。
影の中で蠢くグリードキーが、
主の死を拒絶するかのように、
ドス黒い波動を放った。
地面が腐る。
空気が淀む。
アガレスが、足を止めた。
「……ほう?」
『コノ時ヲ、マッテイタゾ』
グリードキーが、脈動する。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
その鼓動は、
ハルトの心臓と重なり、
そして――上書きする。
グリードキーが、ひとりでに浮かび上がった。
金属の顎がゆっくりと開き、
内側の歯列がギチリと噛み合う。
その中心で、長い舌のような赤黒い肉が蠢いた。
滴る粘液が地面を焼く。
瞬間。
グリードキーが一直線に飛翔した。
狙うのは――レメゲトン。
ハルトの手から滑り落ちかけた魔導剣の柄へ。
――強制接続。
グシャッ。
刺さったのではない。
喰らいついた。
鍵の牙が柄を貫き、
肉のように装甲へ食い込む。
レメゲトンが、絶叫した。
キィィィィィィィン!!
刀身を走る銀灰の魔力回路が、
一瞬で黒濁する。
赤い光が逆流する。
グリードキーの舌が、
刀身へと伸び、
刃を舐め上げる。
そのたびに、
鋼が脈打つ。
脈動。
膨張。
変形。
「……何をしている」
アガレスが、初めて警戒を滲ませる。
レメゲトンの刃が歪む。
真っ直ぐだった刀身が、まるで骨のように捻れ、
横へと広がり始めた。
刃が裂ける。
内部から黒い肉塊が溢れ出る。
金属と肉が混ざり合い、
再構築される。
ギギギギギ……
骨が組み替わるような音。
刃は、もはや刃ではない。
巨大な板状へと変貌し、
その中央に――
“口”が開いた。
鋭利な牙が、びっしりと並ぶ。
黒鉄の大楯。
その中心には、
獣の顎。
奥には蠢く肉。
長い舌が、
だらりと垂れ、
粘液を滴らせる。
地面に落ちた雫が、
ジュ、と煙を上げる。
魔導剣レメゲトンは――
黒鉄が肉のように蠢き、牙を生やし、捕食のためだけに存在する大楯へと変貌した。
ゴエティアの装甲もまた、
同時に侵食される。
燻し銀の鎧が、
黒く染まる。
関節部が肥大化し、
肩装甲が裂け、
棘が伸びる。
兜の双眸が、
赤く点灯。
そこに宿る光は、
理性ではない。
飢餓。
彼の名は、ゴエティア・グリード。
大楯の口が、嗤う。
『クククッ……ボロボロジャナイカ、小僧』
右腕に触れる。
パキ、と小さな音。
だがそれは折れる音ではない。
戻る音だ。
砕けた骨が、
時間を巻き戻すように、正しい位置へ整列する。
ヒビが消え、断面が滑らかに繋がる。
皮膚の下で、光が走る。
裂けていた筋繊維が、糸を引くように結び直される。
血管が再接続。
神経が繋がる。
わずか数秒。
拳を握る。
正常。
「……なんということだ」
アガレスが、驚愕する。
『サテ……腹ガ、減ッタ。喰ワセロ』
ゴエティアから低い声。
ハルトの声ではない。
視線が、輪廻へ向く。
赤い瞳が、彼女を映す。
輪廻の背筋が凍る。
(違う)
(あれはハルトじゃない)
目の前に立っているのは、愛した人の姿をした、
“別の何か”。
ゴエティア・グリードは、
ただ、一歩。
踏み出した。
その足跡の下で、地面が腐食する。
楯の口が、ゆっくりと開く。
狙うのは。
敵か。
それとも――。
ここから始まるのは戦闘ではない。
捕食だ。




