終焉圏、鍵は嗤う(前編①)
魔界の最深部。そこは光さえも絶望に塗りつぶされた、永遠の夜が支配する領域。黒曜石で築かれた王宮の玉座には、魔界の絶対的な調停者であり、破壊の権化――魔人王バエルが鎮座していた。
彼の放つ魔圧は、周囲の空間そのものを物理的に歪ませ、並の魔人であればその場に立ち止まることすら許されない。その玉座の前で、一人の男が深く頭を下げ、片膝を突いていた。
「……一度の不覚が、貴様の価値をどれほど貶めたか分かっているのか。マルファスよ」
地響きのような低音が、謁見の間に重くのしかかる。
マルファスは、アガレスの鎧ではなく、寸分の狂いもなく仕立てられた漆黒の三つ揃いのスーツを纏っている。生地の光沢、銀のタイピン、磨き抜かれた靴――その隙のない装いは、魔界の王に仕える最高位の「執事」としての矜持そのものだった。
「……深く、深くお詫び申し上げます、バエル様。まさか『ゴエティア』と『アスタロト』が手を組むなどという不測の事態……。我が人生において、ただ一度の汚点でございます」
マルファスの声は冷静を装っていたが、屈辱に震える唇までは隠しきれない。かつての敗北――それは彼にとって、単なる戦闘の敗北ではなく、存在意義そのものを否定されたに等しい屈辱であった。
「言い訳など聞いておらぬ。貴様の価値は、勝利という結果でのみ証明される。次が最後だ」
バエルの黄金の瞳が、虚空の先、人間界を射抜く。
「人間界にはすでに、氷将アイラを潜伏させてある。マルファスよ、貴様も向かえ。アイラと合流し、今度こそ確実にゴエティアを、そしてアスタロトを抹殺せよ。……失敗は、魂の消滅を意味すると思え」
「御意のままに、我が主よ。……今度こそ、ゴエティアに最高の絶望という名の『おもてなし』を捧げましょう」
マルファスは優雅に一礼し、影の中に溶けるようにして消えていった。彼の心に燃え盛る執念の炎が、魔界の冷気を一瞬だけ赤く染めた。
一方、人間界の黄昏時は、魔界のそれとは対極的に穏やかだった。
大学の講義が終わり、茜色に染まる通学路を、ハルトは輪廻と共に歩いていた。
響花とカレンはそれぞれ別件の緊急任務に駆り出されており、図らずも訪れた数時間だけの「二人きり」の時間。
「ハルト、今日は何が食べたい? 商店街のお肉屋さんが、今日は特売日だって教えてくれたの」
「ハルト様」という敬称を脱ぎ捨て、自然に自分を「ハルト」と呼び捨てにするようになった彼女の横顔。その無防備で親愛に満ちた言葉に、ハルトは不意に心臓を強く突かれたような感覚を覚え、咄嗟に視線を右往左往させた。
(……なんだ、これ。おかしいだろ、俺)
以前までの彼女は、ただ守るべき対象であり、どこか庇護欲をそそる「妹」のような存在だった。だが、今のハルトの目に映る彼女は、決定的に違っていた。
歩くたびに微かに揺れる、夜を切り取ったかのように艶やかな黒髪。
白磁のような肌に映える、柔らかそうで、それでいて意志を感じさせる形の良い唇。
そして、普段の幼さや献身的な態度の裏側に、ふとした瞬間に漂う、抗いがたいほど「女」としての色気。
「ハルト? 顔、赤いよ? ……どこか具合が悪いの?」
輪廻が心配そうに顔を覗き込んできた。彼女の大きな瞳に、赤面した自分の無様な姿が映っている。鼻を掠めるのは、石鹸のような、彼女特有の甘く清らかな香り。
「……あ、いや。何でもない。……そうだな、ハンバーグがいい。輪廻の作るやつ、美味しいし」
「ふふ、嬉しい。じゃあ、気合いを入れて作っちゃうね。挽肉、一番良いところを選んできちゃった」
幸せそうに、少しだけ自慢げに笑う彼女。その姿に、ハルトの胸の鼓動はさらに速度を上げていく。
それは、世界を救うための使命感や、レメゲトンがもたらす昂揚感とは全く別種の――一人の青年として、一人の女性に惹かれていく、甘く切ない、そして痛いほどの動悸だった。
(……俺は、この日常を、この笑顔を……本当に守り切れるんだろうか)
そんな一抹の不安を振り払うように、ハルトは彼女が持つ重い買い物袋を、強引に自分の手に預けた。
夕飯の食材がぎっしりと詰まった袋の重みは、等身大の幸せの象徴のようだった。
二人が家路を急ぎ、古びた大型立体駐車場の入り口前を通りかかった、その瞬間。
コンクリートの深淵、照明の届かない「死の領域」から、場違いなほど優雅で冷徹な、金属の擦れる音が響いた。
「……ご無沙汰しております。あのご無体な共闘で敗れて以来でございましたか。ゴエティア」
闇を切り裂いて、一人の男がゆっくりと駐車場から歩み出てきた。
執事のように洗練された所作で深く頭を下げるその姿。だが、彼が纏う空気は人のものではない。その足元から噴き出す禍々しい瘴気が、駐車場の分厚い路面に蜘蛛の巣のような亀裂を走らせていく。
「マルファス……! 生きていたのか!」
「アガレスの能力は再生です。どんな致命的なダメージを受けようと、我が核たる『ウァッサゴ』がある限り、私は何度でも蘇ります。……お忘れなきよう」
マルファスはゆっくりと顔を上げた。その整った顔立ちには、狂気的なまでの殺意と執着が張り付いている。
「ちょうどいい。……鍵の巫女共々、最高の絶望をプレゼントしましょう」
「……っ、輪廻に手を出すな!」
ハルトが叫び、反射的に彼女を自分の背後へ庇った。だが、その直感はさらなる「最悪」の到来を告げる。
頭上――駐車場の入り口の庇の上から、骨の髄まで凍結させるような、極寒の魔力波動が降り注いだ。
「――逃げ場はないわよ、ゴエティア」
一瞬にして周囲のアスファルトが白く結晶化し、ハルトと輪廻を取り囲むように、高さ数メートルに及ぶ氷の壁がそびえ立つ。
氷の霧を払いながら姿を現したのは、月の光を浴びて青白く輝く、長い銀髪の女。
魔界から送り込まれ、人間界の闇に潜伏していた氷将アイラ。
前方に、復活した最強の魔導騎士。
背後と左右に、脱出を許さない極寒の氷壁。
そして上空から、慈悲なき氷将の冷徹な眼差し。
ハルトは気づく。自分たちが、指一本動かす隙さえ計算し尽くされた「完璧な処刑場」の中にいることを。
守るべき輪廻は、あまりの寒気と恐怖に震え、ハルトの服の裾を強く握りしめている。
鎧の装着の予備動作すら許さない二重の包囲。ハルトの運命は、かつてない絶望の臨界点へと叩き落とされた。
「さあ……処刑の時間です、ゴエティア」
マルファスの冷たい声が、凍てつく空気の中で静かに響いた。




