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焦燥の残響、あるいは銀髪の初恋

対魔特務機関『S.A.I.D.』のとある地方支部。山あいにひっそりと佇むその施設の一室で、一級エージェント・日下部響花は、端末に表示された高エネルギー反応を凝視し、戦慄していた。


「……信じられない。これ、『レメゲトン』の固有魔力波じゃない……」


組織が、そして魔界の勢力さえもが数百年探し求め、歴史の闇に消えたはずの伝説の魔導剣。


それが、よりにもよって自分が守りたかった幼馴染――草薙ハルトの住むボロアパートから放たれている。


「どうして……どうしてあんたなのよ、ハルト」


響花は乱暴に椅子を蹴り、立ち上がった。


ハルトは、彼女にとって唯一の「帰る場所」だった。


泣き虫だった少年の頃からずっと彼女の背中を追いかけ、無邪気に「響花ちゃん、大好きだ!」と笑っていたあの日。


ハルトは特別なーー大切の人だ。


けれど、彼女はその想いを伝えたことはない。


ハルトがかつて自分に向けていた「気持ち」にも、そして今、自分が彼に抱いている「独占欲」にも、彼女は無意識に蓋をしてきた。


彼をこの血生臭い世界に引きずり込まないためにエージェントになったのに、運命の悪戯は、最悪の形で彼に「力」を与えてしまった。


さらに、報告書にはもう一つの不穏な事実。ハルトが、生体鍵『神楽輪廻』を匿っている。


隠しカメラが捉えた、ハルトに寄り添う漆黒の髪の少女。


その姿を見た瞬間、響花の胸の奥で、経験したことのない鋭い痛みが奔った。


「なによ……この泥棒猫。ハルトの隣で、そんな儚そうな顔して……!」


彼女は愛銃をホルスターに叩き込み、荒々しくバイクへと跨った。


その頃、ハルトのアパートには、壊れそうなほど穏やかな時間が流れていた。


「ハルト様、熱いので気をつけてくださいね」


「ああ、ありがとう。……おっ、美味い。輪廻さん、料理の才能あるんじゃないか?」


ハルトはちゃぶ台を挟み、輪廻が作った粥を口に運ぶ。


昨日、魔獣の刃に貫かれた脇腹は今も疼くが、彼女が一生懸命に作ってくれたという事実が、不思議とその痛みを和らげていた。


輪廻にとって、この時間は奇跡の連続だった。


追われる日々の中で、誰かのために何かをし、それを喜んでもらえる。


ハルトという存在は、彼女にとって単なる「護衛」を超えた、大切なーー特別な存在になっていた。


ハルト自身、その自覚はない。輪廻を守ることは「騎士」としての使命だと言い聞かせている。


だが、彼女の微笑みに触れるたび、胸の奥が熱くなる理由を、彼はまだ言語化できずにいた。


だが、その甘やかな空気は、重厚な排気音によって切り裂かれる。


――ブォォンッ……ドゥゥゥン!


アパートの前に、一台の大型バイクが乱暴に停まる。


エンジンの咆哮が止むと同時に、重い軍靴の音が階段を駆け上がってきた。


「ハルト!! 居るんでしょ、開けなさい!」


心臓を揺さぶるような怒鳴り声。ハルトの肩が跳ねる。


「げ……響花!?」


解錠されるよりも早く、ドアが荒々しく開け放たれた。


逆光の中に立つのは、銀髪を鋭く光らせた日下部響花。


「……ハルト。元気そうじゃない」


「響花……お前、なんでここに。仕事中だろ」


二人の間に流れる、部外者を拒絶するような「共有された歴史」の空気。


呼び捨てで呼び合うその親密さに、背後の輪廻の胸が、針で刺されたようにチリリと痛んだ。


響花の鋭い視線が、輪廻を射抜く。


「……なるほど。これが例の『鍵』ね。……随分と上手にハルトの懐に入り込んだみたいじゃない」


「なっ、響花、いきなり来て何言って……!」


「黙ってなさいハルト!」


響花は一歩踏み込み、ハルトの左手首を強引に掴み上げた。


「これ……本物なのね。組織が血眼になって探していた遺物が、まさかあんたの手首にあるなんて。ハルト、あんた自分が何を手にしたか分かってるの? それはあんたが持っていいもんじゃない。組織に引き渡してもらうわ」


「断る。これは……俺が偶然拾ったものかもしれないけど、今は俺の体の一部だ。これがないと、守れないものがあるんだ」


「守る? その女のこと?」


響花の言葉が、冷たい刃となって輪廻を切り刻む。


「ハルト、目を覚ましなさい。そいつは人間じゃない。魔獣を呼び寄せる災厄そのものなのよ。そんな不幸を撒き散らす存在のために、あんたが命を懸ける必要なんてない!」


「不幸とか、そんな言い方するな! 輪廻さんは、ただ生きたいだけなんだ!」


ハルトの瞳に宿る、揺るぎない決意。


それを見た響花の顔が、怒りを通り越し、泣き出しそうな子供のように歪んだ。


「……あんた、そんなことのために、死ぬつもり? 私が……私が今まで、あんたをこの世界から遠ざけるために、どれだけ必死だったか、あんたは何も分かってない……っ!」


響花の叫びは、一人の女としての悲鳴だった。


ハルトにとって、響花は今も友達以上の存在。誰よりも信頼する幼馴染。


ハルトの『一番』が自分であることを、彼女は薄々感づきながらも、それを特権として甘受していた。


けれど、そのハルトの『一番』の座が、得体の知れない少女に奪われようとしている恐怖に、彼女は耐えられなかった。


輪廻は、ただ震える手で自分の服の裾を握りしめていた。


自分には決して太刀打ちできない、長い年月をかけて育まれた『絆』。


(あの方は……ハルト様の、幼馴染……? どうして、あんなに愛しそうな、苦しそうな目で、ハルト様を見るの……?)


初めて覚えた嫉妬は、輪廻の心に深く根を張っていく。


「……ハルト、最終通知よ。その剣を渡しなさい。そして、その女を組織に引き渡して。そうすれば、あんたの安全は私が保証してあげる。……あんたの隣は、この女じゃ務まらないわよ」


最後の一言は、縋るような、消え入りそうな囁きだった。


ハルトは一瞬、目を伏せた。だが、その唇から漏れたのは、響花の心を粉砕する言葉だった。


「……ごめん、響花。それはできない」


「…………そう。なら、勝手にしなさい」


響花は吐き捨てるように言い、くるりと背を向けた。


ドアの近くで、彼女は立ち止まる。振り返る勇気さえないまま、凍てつく声を残した。


「ハルトにこれ以上、迷惑かけないで。……あんたが隣にいるだけで、彼は灰になっていくのよ。……分かってるの? 泥棒猫」


バタンッ!!


激しい音が部屋を揺らし、バイクのエンジン音が遠ざかっていく。


静まり返った部屋。


ハルトは深くため息をつき、膝をついた。


「……ごめん、輪廻さん。怖い思いさせたな。アイツ、あんなんだけど、本当は優しい奴なんだ」


「……ハルト様は、響花さんのことが、お好きなんですか?」


不意の問いかけに、ハルトは一瞬、言葉に詰まった。夕日が差し込む部屋で、彼は手首のブレスレットを見つめた。


「‥‥いや、昔は、さ。……あいつは俺の‥‥ずっと憧れで……でも、今の俺が守らなきゃいけないのは、君なんだ」


「……そうですか」


ハルトにとって響花は「特別な存在」であり、今の自分は「守るべき対象」に過ぎないのかもしれない。


けれど、輪廻の心には、響花への嫉妬と同じくらい、ハルトへの思いが溢れていた。


(あの人は、ハルト様を大切に思っている‥‥私は、あなたから命を奪い続ける、ただの鍵……)


響花の言った「灰になっていく」という言葉。


彼女は気づいていた。粥を食べるハルトの指先が、時折、命の気配を失うように白く硬直していることに。


初めて覚えた嫉妬は、己の罪深さを突きつける痛みへと変わった。

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