診断結果は「異常なし」――乙女たちの心は「異常事態」(後編①)
クマ型魔獣の影が、月光を遮った。
巨体。腐臭。滴る粘液。
その鉤爪は、鉄骨をも抉る異様な質量を孕んでいる。
振り下ろされる。
カレンは咄嗟に剣を構えたが、理解していた。
間に合わない。
(避けられない)
死の予感は、驚くほど静かだった。
時間が、引き延ばされる。
爪の先端についた黒い体液。
そこに映る、自分の顔。
恐怖に歪んだ、自分の瞳。
(……こんな、終わり方ーー)
その瞬間。
夜の帷に、真紅が裂けた。
一本ではない。
閃光でもない。
それは空間そのものを縫い留める、幾何学的な“斬撃の織物”。
「点」ではなく「面」。
山の斜面を覆う、巨大な真紅の檻。
空気が遅れて裂ける音を立てる。
「ガ……ア……?」
三体のクマ型魔獣が、理解するよりも早く停止した。
次の瞬間。
均一に、無数の肉塊へと解体。
落下する暇もない。
重力が意味を失ったかのように、肉片はその場で崩れ落ちる。
背後の巨大猪が、首を上げる間もなく断裂。
樹に巻きついていたアオダイショウが、輪切りにされる。
切断面があまりにも滑らかで、血が噴き出すのに一拍遅れる。
真紅の残光が、ゆっくりと消えていく。
静寂。
そして――
カレンの視界に、一人の騎士が降り立った。
真紅の鎧。
黒刀の大剣。
月光を浴びて、血のように輝く。
(……うそ)
胸が強く跳ねる。
「……ハ、ハルトくん?」
声が震えたのは、恐怖のせいではない。
あの日、断られたはずの青年。
距離を置かれても仕方がないのに。
なのに。
どうして今、この瞬間に。
ハルトは肩越しに振り返る。
兜の奥の視線が、まっすぐ彼女を捉える。
そこにあるのは、気まずさでも、哀れみでもない。
ただ――
“守る”という、熱。
「アストラ・フェンリルは仲間の……大切な人の危機を察知するんです」
大切な人。
その言葉が、胸の奥に沈む。
重く。熱く。
(大切……? 私が?)
横に佇む黒曜石の魔獣。
アストラ・フェンリルの双眸が、闇を威圧する。
その威光は神話級。
カレンは理解する。
自分たちは、守られたのだ。
10秒経過。
真紅の装甲が蒸気を上げ、蒸し銀へと戻る。
「……っ、時間切れか。やっぱり負荷がキツいな」
膝がわずかに揺れる。
(無理してる……)
カレンの胸が締め付けられる。
だが――
地面が蠢いた。
黒い粘液が、肉塊から滲み出す。
「嘘……」
響花が息を呑む。
断面から触手が伸びる。
肉片が磁石のように引き合う。
猪の頭にクマの腕。
蛇の胴体がそれを繋ぐ。
歪で、悪意の塊。
(終わってない……!)
再生。
増殖。
死を餌にする魔物。
カレンの足が震える。
(さっきの攻撃で、あれだけの力を使ったのに……)
ハルトの背中を見る。
細い。
鎧越しでも分かる、まだ未完成の体。
なのに。
『小僧、奴に斬撃は効かぬ。灰の嵐を喰らわせよ』
レメゲトンの声が、ハルトの脳内に響く。
ハルトが頷く。
「わかった。レメゲトン、フェンリル、やるぞ!」
迷いがない。
恐怖がないわけじゃない。
だが、それを越える何かがある。
(どうして……そんなに戦えるの)
カレンは理解する。
彼は強いから立っているのではない。
守りたいものがあるから、立っている。
魔導剣、魔導獣、騎士。三つの力が共鳴する。
灰色の炎が、装甲の隙間から噴き出す。
フェンリルが咆哮。
空気が震える。
山の木々が揺れる。
魔力が収束する。
カレンの鼓動が、同じリズムで高鳴る。
(お願い……)
フェンリルが光の獣へと変貌。
ハルトがその背に飛び乗る。
「駆けろッ、フェンリル!!」
跳躍。
それは移動ではない。
空間の断裂。
視界が線になる。
大気が焼ける。
レメゲトンへ魔力が集中。
銀光。
灰の嵐が発生する。
寄生体が咆哮。
触手が伸びる。
迎撃の体勢。
間に合わない。
ゴエティアがレメゲトンを振り抜く。
「三位一体! アッシュ・トウ・アッシュ――灰燼騎禍!!」
爆発ではない。
崩壊。
存在が、粒子に還元される。
細胞が、概念が、魔力回路が。
すべてが分解。
再生が始まる前に、再生の“可能性”を削る。
悲鳴が消える。
形が消える。
数秒。
嵐が止む。
そこには、静かな斜面。
何もない。
月光だけがある。
ハルトが膝をつく。
呼吸が荒い。
鎧が解除される。
(……勝った)
響花が駆け寄る。
カレンは動けない。
足が震えている。
違う。
恐怖じゃない。
胸が熱い。
喉が渇く。
(私を助けに来てくれた)
しかも。
“大切な人”と呼んだ。
断られたはず。
なのにーー。
どうして、こんなに嬉しいの。
どうして、こんなに――
(私だけを、見てほしい)
その瞬間。
カレンは気づく。
これは感謝ではない。
恋でもない。
もっと、濃い。
強い。
重い。
(私を守るのは、あなたでいて)
誰にも譲れない。
その資格を。
輪廻にも、響花にも、他の誰にも。
(ハルトくんは……私の)
自分でも怖い感情。
独占欲。
それが、静かに芽吹いた。
月光の下。
鳳カレンの瞳は、妖艶な光を宿していた。




