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診断結果は「異常なし」――乙女たちの心は「異常事態」(中編①)

ベイエリアにそびえ立つ、超高層ホテル『Ciel Bleu』。


その最上階にあるラウンジの奥、一般客が決して立ち入ることのできないVIP専用の完全個室。

重厚な防音扉が閉ざされた瞬間、下界の喧騒は嘘のように消え失せた。

あるのは、足元に広がる宝石箱をひっくり返したような夜景と、静かに流れるジャズ、そして――逃げ場のない、二人きりの沈黙だけ。


「……あの、カレンさん。ここ、俺なんかが入っていい場所なんですか?」


ハルトは喉の渇きを覚えながら、落ち着かない様子で周囲を見渡した。

革張りのソファ、クリスタルのグラス、そして目の前に座る、夜景よりもなお鮮烈な輝きを放つ女性。


「いいのよ。今日は私の“我儘”に付き合ってもらってるんだから」


おおとりカレンは、ゆったりと脚を組み替えた。

ドレスのスリットから覗く白い肌が、落とされた照明の中で艶めかしく光る。彼女はハルトの隣――パーソナルスペースを容易に侵犯する距離――に滑り込むと、琥珀色の液体が揺れるグラスを彼に手渡した。


「乾杯しましょうか。……私たちの、静かな夜に」


カレンの声は甘く、しかしどこか試すような響きを含んでいた。

彼女が纏う空気は、先ほどまでの「強引なエージェント」のものではない。一人の成熟した「女」としての引力が、ハルトの理性をじわりと圧迫し始めていた。


グラスを傾け、氷がカランと音を立てる。

その涼やかな音が消えるのを待って、カレンは不意に、それでいて鋭利なナイフを突きつけるような問いを投げかけた。


「ねえ、ハルトさん。……単刀直入に聞くわ」


彼女はハルトの瞳を、その長いまつ毛の奥から覗き込んだ。


「あなたは、どうして『鍵の巫女』のために戦うの? 義務感から? それとも、ヒーローごっこをするための自己満足?」


それは、ただの雑談ではなかった。

これまで数多の男たちを見てきた彼女による、魂の選別スクリーニング

建前で飾った言葉など、彼女の前では無意味だ。

ハルトは少し視線を落とし、グラスの中の氷を見つめた。

脳裏に浮かぶのは、誰かの命令でも、世界の平和でもない。

ただ、あの日の旧校舎で、震えながらもしがみついてきた少女の体温だけ。


「……輪廻が、生きたいって願ったからです」


迷いのない、即答だった。


「彼女は戦う力を持たない。魔界にとっては、ただの『鍵』かもしれない。でも……彼女自身が、生きていたいと泣いたんです。俺ができるのは、彼女の命を守ることだけですから」


その言葉を聞いた瞬間、カレンは息を呑んだ。


(……やっぱり)


彼は、自分を飾らない。

「世界平和のため」などという大きな主語に逃げず、たった一人の少女の「生」という、あまりにも重く、個人的な理由を背負っている。


「……その結果、自分が死ぬことになっても?」


カレンの問いは、さらに深く突き刺さる。

ハルトの体を蝕む灰化。

戦えば戦うほど、症状は進行する。

破滅へのカウントダウンは、常に聞こえているはずだ。


ハルトは苦笑した。それは英雄の笑みではなく、等身大の青年の、弱さを認めた顔だった。


「死にたくはないですよ、正直。……怖いし、痛いのは嫌だし」


彼は左手首に巻かれたブレスレットーーレメゲトンに無意識に触れた。


「だから、死なないように、精一杯足掻いて、頑張るつもりです。……彼女を守り、自分も生きます」


カレンの胸の奥で、今まで感じたことのない感情のさざ波が広がった。

それは「興味」という軽い言葉では片付けられない、もっと根源的な渇望。


(……ああ。この人は、危ういくらいに真っ直ぐだわ)


彼女は微かに目を細め、自嘲気味に笑った。


「ふふ……。面白い人ね、あなたは」


カレンはグラスをテーブルに置き、ハルトに向き直った。その瞳には、もはや演技の色はない。


「私に言い寄ってくる男なんて、対魔機関にも、外の世界にも山ほどいるわ。名家の御曹司、腕利きの戦士、甘い言葉を吐く野心家たち。……でもね、みんな口だけよ」


彼女の手が、そっとハルトの頬に触れた。冷たい指先が、ハルトの熱を感じ取る。


「『君のためなら死ねる』『一生守り抜く』……人は、口ではなんとでも言える。自分を犠牲にするなんて、安全圏からなら誰だって綺麗な詩を歌えるわ。でも、いざその時が来れば、誰もが我が身を守る。……それが人間よ」


カレンの顔が近づく。吐息が触れ合う距離。


「でも、あなたは違う。有言実行。実際に魔導騎士の力を使い、呪いを受け入れながら、本当にあの子を守り抜いている。……その手で」


カレンは、ハルトの手を両手で包み込んだ。

彼女の掌から伝わるのは、誘惑だけではない。彼女自身が抱えてきた「孤独」と、それを埋めてくれるかもしれない「希望」への熱だった。


「……私は、あなたみたいな人を探していたの。地位も、名誉も、強さという飾りもいらない。ただ、言葉と行動が一致する、信じられる男を」


カレンの瞳が潤み、黄金色の輝きを増す。

それは、対魔機関のエース『鳳カレン』が初めて見せる、一人の女性としての素顔だった。


「ねえ、ハルトさん。……私と、付き合ってくれない?」


「えっ……!?」


時が止まった。

あまりにも唐突で、しかしあまりにも真摯な告白。

目の前にいるのは、誰もが憧れる完璧な女性。美しく、強く、そして今、自分だけを求めてくれている。


(……もし、彼女の手を取れば)


ハルトの脳裏に、甘美な誘惑がよぎる。

カレンと付き合えば、彼女は間違いなく自分を支えてくれるだろう。

またいつ現れるかもわからない『グリードキー』の重圧も、灰化の恐怖も、彼女という年上の魅力溢れる美女がいれば、どれほど楽になるか。

孤独な戦いから解放され、大人の余裕に包まれる安らぎ。それは、疲弊したハルトの心にとって、抗いがたいほど魅力的な「救い」に見えた。


「私なら、あなたを一人で死なせたりしない。その背負っているもの、私と半分こにしましょう? ……悪い話じゃないと思うけど」


カレンが、答えを促すように微笑む。

その笑顔は、ハルトの理性を溶かすのに十分すぎるほど魅力的だった。


「カレン、さん……俺……」


ハルトの心が揺れる。

「楽になりたい」という本能が、首を縦に振れと叫ぶ。


――その瞬間だった。

ふと、窓の外の夜景に、ある少女の横顔が重なった。


(……ハルト!)


あの日、自分のために泣いてくれた少女。

不器用で、弱くて、それでも必死に自分の手を握り返してくれた輪廻。

彼女の笑顔。不安そうな瞳。そして、自分を信じてくれた温もり。


(……なんで、今。輪廻の顔が……)


自分でも理解できなかった。

カレンの方が強い。カレンの方が頼れる。

それでも、ハルトの魂の奥底に打ち込まれた「楔」は、輪廻という存在だった。

守ると決めた。

その誓いは、ただの義務だったのか?

いや、違う。

自分は、あの弱くて儚い少女が、明日も笑っていてほしいと――心から願ってしまったのだ。


「……ごめんなさい、カレンさん」


ハルトの口から出た言葉は、震えてはいなかった。

それは、逃げではなく、一つの「覚悟」を決めた男の声だった。


「お付き合い、できません」


「……理由は?」


カレンの声色が変わる。怒りではない。静かな確認だ。


「まだ会ったばかりだし……それに、俺は」


ハルトはカレンの手を、ゆっくりと、しかし拒絶の意思を込めて離した。


「今はまだ……彼女の隣にいたいんです。輪廻を置いて、自分だけが楽な道を選ぶことは、できません」


(俺……輪廻のこと……)


その先にある言葉は、まだ形にならなかった。

好き、というには責任が重すぎる。愛、というにはまだ幼い。

だが、今の自分を支えているのが「彼女を守る」という意志であることだけは、疑いようのない事実だった。


個室に沈黙が落ちる。

カレンは離された自分の手を見つめ、そして――ふっと、美しく微笑んだ。


「……ふふ。やっぱりね」


そこには、振られた惨めさは微塵もなかった。

むしろ、難攻不落の要塞を前にしたエージェントのような、恍惚とした響きがあった。


「そう簡単に頷くような軽い男なら、私がここまで惹かれるはずないわよね」


カレンは立ち上がり、ハルトの耳元で囁いた。


「いいわ。今日のところは引き下がる。……でも、覚えておいて。私は欲しいものは必ず手に入れる主義なの」


彼女の指先が、ハルトの胸元の上をなぞる。


「その『誠実さ』ごと、いつか私が奪ってあげる。……覚悟しておきなさい?」


それは宣戦布告。

振られたことで終わるどころか、鳳カレンという「本気の狩人」を目覚めさせてしまった瞬間だった。


その頃、個室のドアのすぐ外。

観葉植物になりきっていた響花と輪廻は、高性能集音マイクを通して全てを聞いていた。


「(……振った!! ハルトが、あの人を振りましたよぉぉ!!)」


輪廻が声にならない悲鳴を上げ、その場にへたり込んだ。目には安堵の涙が浮かんでいる。

自分の名前が出てきたこと。自分を選んでくれたこと。その事実に、心臓が破裂しそうだった。


「(しっ! 声が大きいわよ輪廻ちゃん! ……ふん、まあ、及第点ね)」


響花は腕組みをしつつ、口元の緩みを必死に抑えていた。

正直、カレンの提案には心が揺さぶられるほどのメリットがあった。それを蹴ってまで、「今の関係」を選んだハルト。


「(あいつにしては、骨があるじゃない。……今夜はご褒美に、特上のステーキでも焼いてやるわ)」


「(はいっ……! 私、デザート作ります!)」


二人が安堵の吐息を漏らしたその時。

個室のドアノブが、ガチャリと回った。


「……さて。外の『可愛いネズミちゃん』たちにも、挨拶しておこうかしら?」


カレンの楽しげな声が響く。

戦いは終わっていない。むしろ、泥沼の四角関係は、ここからが本番だった。

そして――。

ハルトの影の中で、**『グリードキー』**だけが、この場の誰よりも深く、ご満悦に歪んでいた。


『……迷イ、未練……。人ノ感情、……甘イ』

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