診断結果は「異常なし」――乙女たちの心は「異常事態」(前編②)
オレンジ色の夕焼けが、アパートのリビングを斜めに染めていた。
一日の終わり。魔獣の出現もなく、ようやく訪れたはずの束の間の平穏。
――その空気を、無遠慮に切り裂く通知音が鳴り響いた。
「……は?」
キッチンでコーヒーを淹れていた響花の喉から、低く乾いた声が漏れる。
彼女の視線の先にあるのは、ローテーブルの上に無造作に置かれたハルトのスマホだった。画面いっぱいに表示されているのは、今日、対魔機関の廊下で強引に連絡先を交換した女――鳳カレンからのメッセージ。
『ハルトさん、明日の19時。ベイエリアのレストラン『Ciel Bleu』で待ってるわ。 仕事の話は一切なし。完全プライベートの“デート”よ。 ……もちろん、断る選択肢はないわよね?』
「……デート?」
その単語を、響花は未知の新型爆弾の型番でも確認するかのように、慎重に、そして忌々しげに噛み砕いた。
「仕事終わりの夕方に呼び出して、“プライベート”を強調して、最後に断れない圧をかける……。どこまで計算ずくなのよ、あの女狐」
室温が、物理的な空調設定を無視して確実に一段階下がった。
彼女もまた、最前線で修羅場を潜る対魔機関のエージェントだ。だからこそ分かる。これは単なる誘いではない。ハルトという「獲物」を、自分のテリトリーへ引きずり込むための完璧なタクティカル・アプローチだ。
「……ハルト」
背後から、震える声が響く。輪廻だった。
先日、ハルトとの絆を深め、ようやく「様」を外して呼べるようになった彼女。その呼び名に込めたばかりの小さな勇気が、今、音を立てて崩れようとしていた。
「ハルト、本当に行くの……? あの、鳳カレンっていうエージェントの人と……」
夕方の柔らかい光に照らされた輪廻の瞳が、不安で激しく揺れる。
『デート』。その二文字は、今の輪廻にとってあまりにも遠く、そしてあまりにも残酷な響きを持っていた。ハルトと同じ世界で、背中を預け合って戦う資格を持つ女からの、宣戦布告。
シャワーから上がり、タオルで髪を拭きながらリビングに戻ってきたハルトは、二人の異様な空気に気づき、きょとんとする。
「ん? どうしたんだ、二人とも」
「……これ。鳳カレンからのアサルト・メッセージよ」
響花が無言でスマホを突き出す。ハルトはメッセージを読み、少し困ったように、しかし明確な拒否感を見せずに頭を掻いた。
「あー……。なんか、強引なんだよな、あの人。でも、対魔機関の人だし……」
「……断る理由も、ないと?」
響花が冷徹なトーンで遮る。
ハルトに悪気はない。だが、その「断る理由がない」という言葉こそが、二人の少女の心を最も深く抉った。「自分たちは、彼を繋ぎ止めるための明確な『理由』にすらなれていない」という事実を突きつけられたからだ。
「わかったわ。行きなさい。……ただし」
響花の瞳が、エージェントとしての鋭い光を帯びる。
「私と輪廻も、明日はベイエリアに同行させてもらうわよ。これは『私情』じゃない。ハルト、あんたの身体に眠るグリードキーの経過観察……そう、『任務』よ。任務に私情を挟まないでちょうだい」
その夜、響花は自室で装備の点検を行っていた。
対魔エージェントとしての標準装備に加え、彼女が独自にカスタマイズした監視用小型ドローン、指向性集音マイク、そして暗視機能付きのタクティカル・グラス。
「鳳カレン……。戦闘能力S、交渉術A、そして……」
画面に映し出されたカレンのプロファイルを見つめ、響花は悔しげに唇を噛む。
エージェントとして自分は優秀だという自負がある。だが、カレンのような「大人」の余裕、そしてハルトに対して迷いなく踏み込んでいくその厚顔無恥なまでの積極性は、今の自分には逆立ちしても真似できないものだった。
(私は、あいつの隣にいるのが当たり前だと思ってた。……でも、それだけじゃダメなの?)
一方、輪廻は自室で膝を抱えていた。
ハルトと呼び捨てで呼び合えるようになった夜、世界が少しだけ変わった気がした。なのに、現れた「ライバル」はあまりにも巨大で、あまりにも眩しい。
(ハルト……。私、何もできないよ。響花さんみたいに戦えないし、カレンさんみたいに誘えない……。ただ、怖いよ。ハルトがどこか遠くへ行っちゃうのが)
力を持たない無力感。
ただ守られるだけの存在であることへの劣等感。
そのドロドロとした負の感情が、輪廻の胸の中で小さな「渦」を作っていく。
翌日、19時。
港の見える高級レストラン『Ciel Bleu』のテラス席。
海風が心地よく吹き抜け、テーブルのキャンドルが揺れるロマンチックな空間に、ハルトは緊張した面持ちで座っていた。
そこへ、夜の闇すらも味方につけるような、鮮烈な「赤」が現れた。
「お待たせ、ハルトさん。……あら、今日の服、すごく似合ってるじゃない」
鳳カレン。
今日の彼女は、いつもの戦闘服ではない。胸元が大胆に開いたドレスに、黒いジャケットを羽織った大人の装い。流れるような金髪が夜風に揺れ、自信に満ちた笑みを浮かべている。
「……あ、ありがとうございます、カレンさん」
「堅苦しいのはナシよ。今夜は任務じゃないんだから」
カレンは艶然と微笑むと、当然のようにハルトの「隣」の席に腰を下ろした。
近い。高級な香水の香りと、彼女の体温がダイレクトに伝わってくる距離。カレンはハルトの腕に自分の身体を密着させながら、彼方に見える光の海を指差した。
その様子を、数メートル離れた植え込みの陰から監視する二つの影。
清掃員に変装した響花と、不自然に大きな観葉植物を抱えた輪廻だ。
「(……信じられない! あの女、着席からわずか3秒で密着したわよ!)」
響花は望遠鏡を覗き込み、
カレンがハルトに身を寄せるたび、その間合いの近さまでが生々しく伝わってくるのを感じていた。
「(響花さん……ハルト、顔が赤くなってます……あんなに、あんなに近くで……!)」
輪廻が涙目で訴える。彼女の位置からは、カレンの豊かなラインがハルトの腕に押し付けられているのが丸見えだった。
「(落ち着きなさい、輪廻ちゃん。……でも、これ以上は『有害事象』と判断するわ。プランB発動よ!)」
響花が操作する超小型ドローンが、給仕されるワイングラスをかすめるように急旋回した。驚いたカレンが身を引くかと思いきや。
「――あら、可愛いお邪魔虫ね」
カレンは視線すら動かさず、空いた左手で飛んできたドローンを指先一つで弾き飛ばした。そして、植え込みの陰にいる二人に聞こえるような声で囁く。
「ねえ、ハルトさん。あっちの連中は放っておいて、もっと邪魔の入らない『個室』へ行きましょうか。……今日のあなたは、私がいただくわね」
カレンはハルトの手を引き、強引に立たせる。
エージェントとしての格の違い。大人の余裕。それを見せつけられ、響花と輪廻は顔面蒼白になる。
連れ去られていくハルトの背中を見送る、響花と輪廻。
その胸には、言いようのない惨めさと、張り裂けそうな嫉妬が渦巻いていた。
――悔しい。奪われたくない。私だけを見て。
そのドロドロとした負の感情が極限に達した時。
ハルトの足元、街灯に照らされた影が、不自然に蠢いた。
『……イイ。トテモイイ……』
影の中から、あのグリードキーの「口」が裂けるように開き、音のない哄笑を上げた。
カレンの自信に満ちた支配欲。
響花のプライドを懸けた執着。
輪廻の純粋ゆえに深い独占欲。
それら全てが、ハルトという器を通じて流れ込み、眠れる強欲の鍵をどす黒く輝かせていく。
『喰ワセロ……。愛モ、恋モ、嫉妬モ……全テ、俺ノ糧ニ……』
デートという名の戦場の裏側で、もっとも危険な「捕食者」が、少女たちの情念を最高のご馳走として味わう準備を整えていた。




