診断結果は「異常なし」――乙女たちの心は「異常事態」(前編①)
展望台での激闘から数日。
響花に連れられ、ハルトと輪廻は対魔機関S.A.I.D.の地方支部に来ていた。
目的は暴走した原因、不気味な鍵が、ハルトの体にもたらす影響を調べるためだ。白い沈黙が支配する医療エリアへと足を踏み入れた。だが、その静寂は、診察室に入ったところで無残にも打ち砕かれることになる。
「ハルトくん! ダメよ、そんな暗い顔をしてちゃ。大胸筋を張って! もっと細胞の一つ一つにポジティブな酸素を行き渡らせなさいな!」
「み、ミラ先生……あの、まだ問診の最中で……」
ハルトは、ミラから放たれる男性のような生命力の奔流に気圧され、診察台の上でのけぞった。その視線の先では、ミラの逞しい大腿四頭筋が、歩くたびに白衣を力強く押し返している。
「あら、いいのよ。私の広背筋が『この子のバイタル、ちょっと迷い箸してるわよ』って教えてくれたんだから。いい、ハルトくん。結論から言うわね」
ミラはハルトの目の前で、艶やかにコーティングされた指をパチンと鳴らした。
「身体機能、魔導騎士としての力の伝導率、精神安定指数――すべてにおいて、あなたは『異常なし』。むしろ、以前より基礎代謝も筋密度も上がっているわ。まさに黄金な状態よ!」
「異常……なし、ですか」
ハルトは安堵よりも先に、言いようのない違和感を覚えた。あの戦いの最中、自身を支配した悍ましいまでの飢餓感。世界を咀嚼したいと願ったあの衝動が、身体に何の痕跡も残していないはずがない。
「そう。でもね、それが一番の『不気味』なのよ。不気味な鍵ーーグリードキーという存在は、依然として私の僧帽筋をもってしても解析不能。それはあなたの血肉に混ざりながら、今はただ『静かに眠っている』だけ。あなたの意志で制御できている、という結論しか出せないわ。……今は、ね」
ミラは豪快に笑い、ハルトの肩をパチンと叩いた。その衝撃でハルトの身体が数センチ浮き上がる。
「解析不能って……そんなの、何の解決にもなってないじゃない!」
響花が耐えかねたように声を荒らげ、ミラの手元にある端末を奪い取るようにして覗き込んだ。彼女の指先は、納得のいかない苛立ちで小刻みに震えている。
「もし次、またあの鍵が勝手に暴走したら? ハルトの心が、あの『口』に内側から喰い破られてしまったら、誰が責任を取るのよ!」
「響花ちゃん。落ち着きなさいな、三角筋をリラックスさせて。血管が浮いちゃってるわよ」
ミラは響花の肩にそっと手を置き、その荒い呼吸を鎮めるように微笑んだ。
「解析できないものを『危険』と断定して封印するのも、今の機関のルールではできないの。今のハルトくんは、筋肉の数値上は完璧なヒーロー。だからこそ、私たちは『様子を見る』しかないのよ」
「……っ」
響花は唇を噛み、沈黙した。エージェントとして理解できないものほど恐ろしいものはない。そして隣では、輪廻が自身の胸元をぎゅっと掴み、真っ白な顔でハルトを見つめていた。
「……よかった。ハルトが、どこも悪くないって分かって……本当によかった……」
絞り出すような輪廻の声。しかし、その瞳の奥には、ハルトが「自分たちの手の届かない、未知の何か」に侵食されていることへの、根源的な恐怖が揺らめいていた。
嵐のようなミラの診察を終え、一行が診察室を後にした時だった。
無機質な白壁が続く、静まり返った廊下の先。そこには、建物の空気さえも一変させるような「華」を纏った女性が、壁に背を預けて待っていた。
対魔機関のタクティカルな制服を、その豊満な身体のラインを強調するように着こなし、腰には数々の修羅場を潜り抜けてきたであろう特殊魔導兵装が鈍く光っている。
流れるような金髪に、すべてを見透かすような勝気な瞳が、そこにあった。
「草薙ハルトさんですよね?」
ハルトたちの前で立ち止まった彼女は、迷いのない、自信と余裕に満ちた笑みを浮かべた。その瞬間、輪廻の肩がびくりと跳ね、響花の瞳に鋭い警戒の火が灯る。
「……どちら様かしら。ハルトに何か用?」
響花が一歩前に出た。その声は低く、明確な拒絶の意が込められていた。しかし、金髪の女性はその圧力を柳に風と受け流し、ハルトにだけその熱い視線を固定する。
「失礼。私、特務実戦班の鳳カレンです。ハルトさんの戦闘記録、本部のデータセンターで何度もシミュレートさせてもらったわ。あの魔導騎士アガレスと対峙した時の逃げない姿……正直、実物の方がずっと……魅力的ね」
カレンはハルトの距離を詰め、その吐息が届くほどの距離で見つめ上げた。
「あの燻し銀の甲冑で戦う姿、正直、一目惚れしちゃいそうだったわ。いいえ、もうしちゃったかしら?」
直球。あまりにも迷いのない、プロのエージェントとしての評価を装った、女としての熱烈なアプローチ。
「あ、ありがとうございます……?」
戸惑うハルトの横で、輪廻の思考は真っ白になっていた。
(ハルトに……一目惚れ……?)
戦う術をもたない自分は踏み込めない、命のやり取りをする戦場の領域。そこで培われた「戦う者」同士の共鳴を武器に、この完璧な美貌を持つ女性は、自分たちの居場所へ土足で踏み込んできたのだ。
輪廻は、自身の胸を締め付けるような疎外感と、はっきりとした「負け」の予感に震えた。
「それでね、ハルトさん。よかったら、今度食事でもどうかしら? 作戦会議じゃなくて……個人的な、プライベートの興味としてね」
鳳カレンはハルトの瞳をまっすぐに見つめ、最新型のスマートフォンを迷いなく差し出した。その場の空気が、物理的に凍りつく。
「……あの、ごめんなさいね。もしかして、お付き合いされてる方がいらしたかしら?」
カレンは、ハルトを左右から守るように固める響花と輪廻を交互に見た。
輪廻は答えられなかった。否定すれば、目の前のこの美しく力強い女性にハルトを奪われる。だが、自分が「恋人です」と言う資格を、今の自分は持っていない。
「彼、今は経過観察中なのよ。外部の、それも実戦班の人間が個人的に接触するのは規約違反じゃないの?」
響花が冷徹な仮面を被って介入する。彼女の声には刃があった。だが、カレンはそれを楽しむように、ふっと口角を上げた。
「あら、オフの時間は個人の自由よ。規約よりも自分の直感を信じるタイプなの、私。それとも、一級エージェントさんはそんなに彼を独占しておきたいのかしら? 私なら、もっと自由にさせてあげられるけど」
「なっ……!?」
カレンは響花の動揺を鼻で笑うと、ハルトの手に自身のスマートフォンを握らせた。
「連絡先、交換。……いいわよね、ハルトさん?」
「あ、は、はい……」
ハルトは鳳カレンの迷いのないペースに完全に飲まれ、交換に応じてしまった。
その様子を見ていた輪廻の胸に、今まで感じたことのない、泥のように重く黒い「焦り」が渦巻いた。
(守られるだけじゃ……隣にいるだけじゃ、ダメなんだ。私が……私がちゃんとしなきゃ、ハルトは、私の知らない遠い世界へ行ってしまう……!)




