貪欲なる盾、揺れる三心(後編①)
――咀嚼シテヤル。
貴様ノ魔モ、誇リモ、全テ、俺ノ糧ニ……。
漆黒の獣と化したハルトが、大盾を突き出す。
盾の中央に裂けた「口」が歪み、牙が鳴り、粘液を滴らせる舌が空を舐めた。
それは力の象徴ではない。
飢えそのものだった。
アイラの首筋へ迫る異形の盾。
あと一瞬で、氷将という存在そのものが喰われる。
――その時。
「ハルト様……っ!!」
張り裂けるような声が、展望台に響いた。
輪廻だった。
戦う力も、防ぐ術もない彼女は、
暴力の奔流に押し潰されそうになりながらも、
それでも前に出ていた。
足は震え、
呼吸は浅く、
恐怖は、確かにそこにあった。
だが――
その瞳に宿るものは、怯えではない。
確信だった。
「やめてください……!」
声は、必死だった。
それでも、逃げなかった。
「それは……それは、ハルト様じゃありません……!」
輪廻は、知っている。
誰よりも近くで、彼を見てきた。
迷い、傷つき、それでも立ち上がる姿を。
力を振るうたびに、誰かを守ろうとする姿を。
「私の知っているハルト様は……!」
喉が痛む。
声が掠れる。
それでも、叫ばずにはいられなかった。
「ハルト様は、そんな人じゃない!
そんな力に……負けないで……!」
それは否定ではない。
断言だった。
「……お願い……戻ってきて……!」
次の瞬間、
輪廻の心から、言葉が迸った。
「ハルトは……そんな人じゃない……!!」
その言葉が。
強欲の炎に包まれたハルトの内側で、
確かに――何かに触れた。
(……違う……?)
意識の奥で、
微かな違和感が生まれる。
喰え。
奪え。
満たせ。
それだけで埋め尽くされていたはずの思考に、
異物が混じる。
――否定。
『……』
グリードキーが、低く唸った。
だが、輪廻の声は止まらない。
「戻ってきて……ハルト……!」
涙が零れ落ちる。
それでも、視線は逸らさない。
「私は……あなたが戻ってくるって、信じてます……!」
その瞬間。
『今じゃ!』
熟練の騎士のように鋭く、だが確かな意志を持つレメゲトンの思念が、
ハルトの魂に直接叩き込まれた。
『小僧、まだ終わっていないぞ!』
それは命令ではない。
呼応だった。
ハルトの影が、静かに揺れる。
黒が、黒を呼び、
輪郭を持ち始める。
「――アストラ・フェンリル!!」
叫びと同時に、
影が爆ぜた。
月明かりを拒む漆黒の魔獣。
契約により結ばれた、もう一つの“意志”。
アストラ・フェンリルは、迷わない。
跳躍。
狙うは、ハルトの左腕に噛みつく《グラトニー》。
ガチィィィン!!
凶音が、展望台を震わせる。
「グ、アアアアアッ!?」
強欲の圧が、揺らぐ。
フェンリルの牙が、
ハルトの内側に食い込んでいた《グリードキー》を捉えた。
――引き剥がす。
それは、力任せではない。
正しい位置へ戻すための行為だった。
「ギ、ギ……アアア……ッ!!」
叫びが、獣のものから、人のものへと変わっていく。
鍵が外れた瞬間。
どす黒い橙色の炎が、音もなく霧散した。
漆黒の重装甲が崩れ、
異形の盾は形を失い――
燻し銀の鎧が、
静かに、あるべき姿へと戻っていく。
「はぁ……はぁ……っ……」
ハルトが、膝をついた。
「……俺は……」
震える声。
「……戻れた、のか……?」
その言葉を聞いた瞬間、
輪廻は走り出していた。
「ハルト!!」
迷いはない。
恐怖も、今は意味を持たない。
彼女は、強く抱きしめる。
「……よかった……」
嗚咽混じりの声。
「本当に……戻ってきてくれて……」
「心配……かけたな……」
ハルトの右手に残る、微かな甘い香り。
輪廻が作ったチョコレートの匂い。
それは、
強欲の名残を上書きするように、
静かに、確かに、現実を取り戻していった。
輪廻は、しばらくその場から動けなかった。
怖かったはずなのに、
震えていたはずなのに、
今、胸を満たしているのは――確かな安堵だった。
(……帰ってきた)
言葉にしなくても、分かった。
あの狂気も、冷たい炎も、彼を覆っていた闇も――
全部、もうここにはない。
目の前に立つその人は、
傷だらけで、息も荒くて、決して“無事”とは言えないのに。
それでも輪廻には、はっきりと分かった。
(私の、ハルトだ)
強いからじゃない。
誰かを守れるからでもない。
ましてや、戦えるからなんかじゃない。
――戻ってきてくれた。
その事実だけで、
胸の奥に溜め込んでいた不安も、恐怖も、
音もなく、崩れ落ちていった。
(私は……信じてただけ)
彼が、そんな力に負けない人だって。
どんな闇に飲み込まれても、
必ず、自分の足で戻ってくる人だって。
輪廻は、そっと息を吸い込む。
泣いてしまいそうになるのを、必死で堪えながら。
――私のヒーローが、帰ってきたんだ。
それだけで、よかった。




