貪欲なる盾、揺れる三心(中編②)
「……喰ワセロ。
魔ノ息吹ヲ、全テ俺ノ中デ――咀嚼シテヤル」
声は、もはや人の喉を通っていなかった。
漆黒の重装甲に身を包んだハルト――
否、『ゴエティア・グリード』と呼ぶべき存在から発せられた音は、
奈落の底で幾重にも反響した怨嗟を、そのまま地上へ引き摺り出したかのような重低音だった。
空気が震え、
展望台の床に走る霜が、悲鳴を上げるように砕け散る。
アイラは一歩、無意識に後退していた。
(……何だ、これは)
魔導騎士。
確かに暴走している。
だが――これは、彼女が知る「制御を失った強者」ではない。
目の前に立つそれは、
剣を使う存在ですらなかった。
ゴエティア・グリードの左手には、
かつて“魔導剣”と呼ばれた武器の面影を一切残さない異形が握られている。
大盾――
いや、捕食器官。
異形の大盾『グラトニー』。
盾の中央には、
グリードキーと同一の悍ましい「口」が縦に裂け、
無数の牙を剥き出しにして、飢餓の音を鳴らしていた。
ガチ、ガチ、ガチ……。
金属でも、生物でもない。
だが確かに、“噛む”という行為だけは完璧に理解している音。
その奥から垂れ下がる舌が、
粘液を滴らせながら蠢くたび、
床に落ちた雫が白い蒸気を上げて消滅した。
触れただけで、魔力が溶かされている。
「……魔導騎士が暴走したか」
アイラは唾を飲み込み、
それでも氷将としての矜持を失わぬよう、声を張った。
「所詮は力を持て余した獣。
私の敵ではないわ」
――自分に言い聞かせるための言葉だった。
銀髪が逆立ち、
彼女の周囲に浮かぶ魔法陣が、かつてない密度で展開される。
極低温。
一点集中。
全霊を注いだ必殺。
「砕け散りなさい!」
次の瞬間。
空中の水分子が悲鳴を上げ、
超巨大な氷の槍が生成される。
それはもはや“魔法”ではない。
自然災害に等しい、圧倒的質量と冷気。
小規模なビル程度なら、
直撃一発で粉砕できる威力。
氷将としての、
誇りと自信の結晶だった。
だが。
ゴエティア・グリードは、
避けなかった。
恐怖も、警戒も、
回避という概念すら持たぬかのように。
ただ静かに、
左手の『グラトニー』を前に突き出す。
「――咀嚼セヨ」
その一言で、
世界が歪んだ。
バキィィィィン!!
衝突音が、
雷鳴のように展望台を揺らす。
だが砕け散ったのは――
氷の槍の方だった。
グラトニーの口が大きく開き、
迫り来る氷塊と魔力を、
まるで柔らかな肉塊でも味わうかのように吸い込む。
牙が噛み合い、
舌が絡み、
咀嚼音が響く。
ギチ、ギチ、ギチ……。
氷は悲鳴を上げる暇もなく、
魔力ごと粉砕され、
盾の奥へと消滅した。
「な……っ!?」
アイラの喉から、
理解不能を示す音が漏れる。
「私の……魔法が……
喰われた……?」
あり得ない。
無効化ではない。
相殺でもない。
摂取。
消化。
魔力そのものが、
彼の“栄養”に変えられている。
その理解に至った瞬間――
彼女は、ようやく悟った。
(……私は、敵ですらない)
「次は――俺の番だ」
ゴエティア・グリードが、
そう“言った”。
言葉の形をしてはいたが、
そこに意思疎通を求める響きはない。
宣告。
あるいは、捕食前の確認。
次の瞬間、
黒い残像が展望台を裂いた。
重装甲とは思えない速度。
いや、重量を無視した動き。
空間そのものを踏み潰すような踏み込み。
アイラが防壁を張るよりも早く、
『グラトニー』による盾打撃が、腹部を直撃する。
「ガハッ……!!」
内臓が、上下逆に叩き潰される感覚。
魔人として鍛え上げられた肉体でなければ、
即死していた。
吹き飛ぶアイラ。
だが――
それで終わりではない。
盾の中央から、
ぬらり、と。
巨大な舌が伸びた。
鞭のようにしなり、
空間を叩き、
逃げ場という逃げ場を封殺する。
ビシィィッ――!
ビシィィッ――!
肉が弾ける音。
打たれるたびに、
魔力が引き剥がされ、
盾へと吸い込まれていく。
「ぐっ……! がっ……!
や、やめなさい……!
離せ……この……っ!」
必死に凍結魔法を放とうとするアイラ。
だが指先から溢れた魔力は、
至近距離に迫ったグラトニーの牙によって、
一瞬で――食い千切られた。
噛み砕かれ、
嚥下され、
存在しなかったことにされる。
魔力。
魔導。
超常の力。
それらすべてを、
『グラトニー』は拒まない。
拒まないからこそ、
すべてを糧に変える。
ゴエティア・グリードは、
アイラの首を片手で掴み上げた。
抵抗は、
意味をなさない。
至近距離で晒される、
盾の「口」。
牙と牙がガチガチと鳴り、
暗黒の喉奥から、
存在を否定する咆哮が溢れ出す。
「……マダ、タリナイ」
低く、
深く。
「貴様ノ魔。
貴様ノ魂。
全テ――寄越セ」
それは戦闘ではなかった。
蹂躙。
捕食。
選別。
氷将と呼ばれた誇り高き女魔人は、
もはや戦士ですらない。
ただの――
**「食料」**として。
暴食の騎士の前で、
震えていた。




