貪欲なる盾、揺れる三心(前編)
「今度こそ……今度こそ、あの朴念仁に引導を渡してやるんだから!」
都内のマンションの一室。響花は鏡の前で、何度目か分からない服装のチェックを行っていた。普段の動きやすさ重視のジャケットではない。都会の夜景に馴染むよう、落ち着いた、それでいて身体のラインをさりげなく強調するニットとタイトスカート。
彼女がここまで必死になるのには理由がある。ハルトの母・早紀の「どっちを選ぶの?」という爆弾発言以来、ハルトを巡る空気は一変していた。特に、隣室の「同居人」――魔人と人のハーフである少女、輪廻の存在だ。
「あの子……ずるいのよ。あんな捨てられた子犬みたいな目でハルトを見つめて……。男なんて、ああいう『守ってあげなきゃ』って雰囲気に弱いに決まってるじゃない!」
響花にとって、ハルトは単なる幼馴染ではない。危なっかしい彼をずっと見てきたからこそ芽生えた、「私が隣にいなきゃ」という自負と意地。それが今、激しく脅かされている。
折しも、季節は恋人たちが浮き足立つバレンタイン。響花は震える指でハルトに電話をした。
「ハルト、来週の土曜……その、夜景の綺麗な展望台で特異点の事後調査があるの。一人じゃ心細いから、付き合いなさいよ。……あ、あくまで仕事なんだからね!」
「調査? まあ、それならいいけど……」
電話越しに聞こえるハルトの気の抜けた返事に、響花はガッツポーズを取った。
(勝った! 二人きりになれば、こっちのものよ!)
しかし、勝利の余韻は一瞬で霧散した。
「夜景の調査、ですか……? あの、ハルト様……」
ハルトの背後から、鈴を転がすような、しかし自信なさげな声が響いた。エプロン姿で、不安そうに指を絡ませている輪廻の姿が、脳裏に浮かんだ。
「その……夜間の屋外は冷えます。ハルト様は『ゴエティア』の反動でお体が冷えやすいので……もしご迷惑でなければ、私も温かい飲み物を持って、お供してもよろしいでしょうか……?」
その声は、計算など微塵も感じさせない、純粋な献身そのものだった。
「ん? ああ、そうだな。輪廻がいてくれると助かるよ。ありがとな」
ハルトの返事を聞いて、響花はギリリと奥歯を噛み締めた。
(……っ! この天然たらしがぁぁぁっ!!)
響花の「二人きり計画」は、開始のホイッスルが鳴る前に、いつもの「騒がしい三人」へと書き換えられた。
決戦の前日。アパートの壁一枚を隔てた二つのキッチンでは、対照的な熱気が立ち込めていた。
【響花の部屋:化学実験の領域】
「料理は苦手……。ええ、認めましょう。でも、チョコレートは別よ。これは化学の配合そのものなんだから!」
白衣を羽織った響花は、電子天秤でカカオバターのパーセンテージを0.01グラム単位で測定していた。テンパリングの温度管理も、S.A.I.D.から持ち出した超精密温度計を使用する。
彼女が目指すのは、甘さに逃げない「大人のビターチョコ」。都会の夜、洗練された知識層が好む最高級の味だ。
「甘ったるいだけのチョコなんて、子供の遊びよ。ハルトには、私の知性と、この計算し尽くされた苦味が一番似合うの……!」
【ハルトと輪廻の部屋:無力ゆえの真心】
一方、輪廻のキッチンでは、静謐な祈りのような空気が流れていた。
「こんな風習があるなんて知りませんでした……。でも、ハルト様が喜んでくださるなら……」
輪廻は、慣れない手つきでチョコレートを湯煎にかけていた。魔人の血を引きながら、魔力を一切使えない彼女にとって、ハルトを支える術は限られている。戦場では彼に守られるだけの自分。その無力さが、彼女の心をいつも小さく締め付けていた。
だからこそ、このチョコレートだけは、自分に流れる人間としての「想い」だけで作り上げたかった。
「私には、ハルト様のように戦う力も、響花さんのように戦いのサポートも出来ません。……でも、ハルト様を想う気持ちだけは、誰にも負けたくないんです」
不器用な手つきでチョコを練り、型に流し込む。彼女がチョコを見つめる瞳には、ハルトが初めて自分を救ってくれた時の光景が映っていた。溢れそうになる涙をこらえ、彼女はただひたすらに、彼への感謝と恋心をその一粒に封じ込めていく。
「不格好かもしれません。でも、私の精一杯を……ハルト様に伝えたいのです」
当日。港を見下ろす地上300メートルの展望台は、溢れんばかりのカップルたちで埋め尽くされていた。煌めく宝石をぶちまけたような夜景。その一角で、奇妙な三角関係が展開されていた。
「綺麗ね、ハルト。……ほら、あそこに見えるのが、この間あんたが戦ったカフェよ」
響花は、意を決してハルトの左腕に自分の体を寄せた。心臓がうるさいほど鳴っているが、努めて冷静な「同僚」を装う。
「……あ、あんまり離れないでよね。人混みで逸れたら、探すのが面倒なんだから」
「ええ、本当に……。こんな綺麗な景色、夢みたいです……」
反対側。輪廻は、ハルトの右袖を、指先でつまむようにして遠慮がちに掴んでいた。魔力を持たぬ彼女にとって、この眩い光の海は少しだけ遠い世界の出来事のようにも思えた。
「……ハルト様。私、貴方の隣にいると、自分が魔人のハーフだということを、少しだけ忘れられるんです。……温かいです」
輪廻はハルトを見上げ、壊れ物を扱うようにそっと寄り添った。その瞳は潤んでおり、捨てられた子猫がようやく安心できる場所を見つけたような、切ない安堵に満ちていた。
「……お前ら、今日はえらくくっついてくるな。寒いのか?」
ハルトは、左腕から伝わる響花の緊張した硬さと、右腕から伝わる輪廻の儚げな温もりに、どう反応していいか分からず硬直していた。
その光景を、ガラス越しに広がる闇が、静かに見つめていた。
三人の喧騒から十数メートル離れた、人混みの影。
そこには、バレンタインの甘い雰囲気をすべて腐敗させるような、悍ましい気配が潜んでいた。
カチ、カチ、カチ……。
石床を叩く、硬質な、それでいて「生き物」が這いずるような不快な音。
ハルトの足元、伸びた影の境界線に、それはいた。
一振りの、古びた**「鍵」**。
だが、それは道具の姿をした「魔」そのものだった。
持ち手の部分は、まるで獲物を丸呑みにしようとする「口」の形状に変貌している。そこには、赤々とした生々しい歯茎と、一本ずつが独立した意志を持っているかのような鋭い牙が生え揃っていた。
「……ジュルリ……ッ」
口の中心から、湿った、長い舌がヌルリと突き出す。
その舌は、空中に漂うハルトの「灰の魔力」の残滓を味わうように、執拗に空気を舐めとっていた。
鍵の胴体部分には、内側から燃え盛るような、どす黒いオレンジ色の光が不規則に拍動している。
この鍵は、ハルトが持つ清廉な「銀の鍵」とは対極に位置する存在。
『強欲の鍵』。
魔を喰らい、力を喰らい、果ては持ち主の理性を喰らい尽くす、暴走の権化だ。
鍵は、ハルトの無防備な背中を見つめ、牙をガチギチと激しく鳴らした。
「(……モット……モット喰ワセロ……。魔、魔、魔、魔……喰イタイ!)」
カップルたちの笑い声、展望台に流れる甘いBGM。そのすべてを掻き消すような、不気味な渇望の声。
鍵は、ハルトが最も心を許し、隙を見せた瞬間を狙っていた。
二人が差し出す「愛の結晶」に、その毒牙が触れようとした時――幸せなバレンタインの夜は、どす黒い絶望へと裏返る。
ハルトの影の中で、グリードキーは不敵に笑った。
灰銀の騎士を、最も残酷な形で「喰らう」ための準備は、既に整っていた。




