最強の来訪者、あるいは生への渇望(後編)
ハルトの目の前には、コンクリートのアスファルトを豆腐のように引き裂いて現れた、巨大な狼型の魔獣。
赤く爛々と輝く双眸は、明確な殺意と食欲を湛えて、ハルトの背後にいる――守るべき少女を捉えている。
(……上等だ。俺の日常に土足で踏み込んだ代償、きっちり請求させてもらう)
ハルトは懐へ手を伸ばした。
指先に触れたのは、冷たく、そしてズシリと重い金属の感触。
取り出したのは、鈍い銀光を放つ古の遺物――『銀の鍵』。
ハルトの右手に握られているのは、身の丈ほどもある巨大な魔導剣**『レメゲトン』**。
今はまだ眠っているその柄の深奥にある「鍵穴」へ、ハルトは銀の鍵をあてがった。
吸い込まれるように、鍵が飲み込まれていく。
「装着」
静かな呟きは、しかし世界を書き換える言霊となって響いた。
ガチリ、ガゴォォォォォォッ……!!
それはまるで、千年の時を経て封印された城門の錠を無理やりこじ開けるような、重厚かつ不吉な金属音。
音の発生源は、剣ではない。魂の奥底だ。
ドクン、と心臓が早鐘を打つ。
次の瞬間、足元のアスファルトが同心円状にひび割れ、そこから地獄の窯が開いたかのような、螺旋を描く「灰色の篝火」が噴き上がった。
「な、なによこれ……!?」
背後で響く早紀の悲鳴に近い声。だが、ハルトはもう振り返らない。
噴き上がるのは熱い炎ではない。すべてを燃やし尽くした後に残る、冷徹な「灰」の奔流だ。
舞い散る灰が、重力に逆らって体に吸着していく。
皮膚を覆い、筋肉を補強し、骨格を鋼鉄へと変質させる。
ガシャン、ガギン、ズガァァァン!!
鋼鉄が打ち付けられる音が連続して響く。
それは変身というよりは、拘束具の装着に近い。
灰は瞬時にして硬化し、戦火を幾度も潜り抜けたかのような、傷だらけで、しかし何よりも硬い「燻し銀の甲冑」**へと姿を変えた。
魔導騎士ゴエティア。ここに顕現せり。
変身を終えたハルトの手には、主の呼び声に応じ、真の姿を現した一振りの凶悪な武器が握られていた。魔導剣『レメゲトン』。
先ほどまでの無機質な鉄塊とは違う。
騎士の身の丈ほどもあるその巨大な刀身は、周囲の光をすべて吸い込むような、底なしの不吉な**「漆黒」**に染まっていた。
刃渡りなどという概念はない。それはただの、切れ味鋭い「墓標」だ。
灰銀の鎧の鈍い輝きと、漆黒の大剣の闇。
そのコントラストは、正義の味方というよりも、戦場に舞い降りた死神としての神々しさを放っている。
「ハ、ハルト……? アンタ、その姿……それにその大きな剣は一体……」
記憶の中にある「自慢の息子」の面影など、そこには微塵もない。早紀は、母としての冷静さを失い、呆然と立ち尽くした。
野菜が苦手で、人と喧嘩をしないような優しい息子が。今、魔を屠るための「絶対的な暴力」そのものとなって、目の前に立っているのだから。
(母さんに見られてしまったな……あとで怒られるかも)
兜の下で、俺は自嘲気味に笑う。だが、その苦笑いさえも、今は鉄の仮面に隠されている。
「グルアアアアアッ!!」
狼型魔獣が咆哮した。
目の前の存在が放つ、圧倒的な「死」の気配。本能が逃走を命じているはずなのに、魔獣としての破壊衝動がそれを上回る。
奴は全身の筋肉をバネのようにしならせ、コンクリートを爆砕しながら肉薄した。速い。
一般人の動体視力では、黒い残像にしか見えないだろう。だが、ゴエティアの視界において、それは止まって見えた。
魔獣の鋭利な爪が、首元を狙って振り下ろされる。
ガキィィィィィンッ!!
耳をつんざく激しい金属音が響き、火花が散る。
ゴエティアは回避すらしなかった。漆黒の巨大な刀身を盾のように扱い、魔獣の爪を正面から受け止めたのだ。
「グゥッ……!?」
魔獣が驚愕に目を見開く。鋼鉄さえも紙のように切り裂くはずの爪が、その黒い剣には傷一つつけることすらできていない。
それどころか、灰銀の装甲が微細に振動し、衝撃を波紋のように逃がしている。
「……軽いな」
兜の奥から響くハルトの声は、加工され、地獄の底から響くような低音となっていた。
「俺の日常を壊すには、覚悟も質量も足りてないぞ」
ゴエティアは一気にレメゲトンを振り抜いた。技術などいらない。ただ、その圧倒的な「重量」を叩きつけるだけ。
ドォォォォンッ!!
「ギャウンッ!?」
剣の腹で弾き飛ばされた魔獣が、ピンボールのようにカフェの看板を粉砕し、アスファルトの上を転がる。
だが、さすがは魔獣。空中で強引に体勢を立て直し、四肢の爪を地面に突き立ててブレーキをかけた。
「グルルル……ッ!!」
魔獣の全身から、赤黒い瘴気が噴き出す。単純な力比べでは勝てないと悟ったのか、奴は速度に特化した動きへと切り替えた。
残像を残して左右に高速移動し、ゴエティアの死角へと回り込む。
「遅い」
ゴエティアは振り返りもしない。ただ、感覚が捉えた「殺気」の発生源へ向けて、遠心力に任せて大剣を旋回させた。
ヒュオオオオオッ……!!
空気を切り裂く重低音が、死の旋律となって響く。
魔獣が背後から飛びかかり、その牙を首筋に突き立てようとした、その刹那。漆黒の刃が、奴の思考速度を超えて到達した。
ズガァァァァァァンッ!!
「ガハッ……!?」
大剣の腹が、魔獣の脇腹を完璧に捉えた。斬るのではない。叩き潰す(クラッシュ)。
骨が砕ける生々しい音と共に、トラックほどの巨体が、隣の雑居ビルの壁面までブチ抜いて叩きつけられた。
瓦礫の山に埋もれた魔獣が、痙攣しながら血を吐く。
「ツ、ツヨイ……イイ……!?」
理解できない、という恐怖が魔獣の瞳に浮かぶ。なぜ、人間ごときがこれほどの力を。
魔獣は死を悟り、最後の足掻きに出た。
全身の鱗を逆立て、生命力のすべてを燃やして特攻を仕掛けようとする。その姿は哀れで、そして醜悪だった。
「……楽にしてやる」
ゴエティアはレメゲトンを正眼に構えた。感情の昂りはない。あるのは、事務的な「処理」を行う執行者の冷徹さだけ。
ゴエティアの意志に応じ、足元のマンホールが熱で歪み始める。
漆黒の刀身が、周囲の空気を、熱を、そして命の輝きさえも吸い込み、燃やし尽くす。
ボッ、ボボッ……。
刀身に纏わりつくのは、赤や青の炎ではない。色彩を失った、「灰の炎」。
「灰に還れ。――アッシュ・トウ・アッシュ!!」
ゴエティアは一歩踏み込み、大上段から大剣を振り下ろした。
放たれたのは、斬撃ではない。灰色の奔流だ。
触れたものすべてを分子レベルで崩壊させ、エントロピーの極致である「灰」へと強制帰還させる、絶対的な理。
「オオオオオオオッ……!!」
魔獣の咆哮は、一瞬で光の中に飲み込まれた。断末魔さえ残さない。
鱗も、牙も、呪われた魂さえもが、その名の通り一瞬にしてサラサラと崩れ落ちる「灰」へと変わり、夕暮れの風に霧散していった。
後には、静寂と、焦げ付いたアスファルトの臭いだけが残された。
「……ふぅ」
ハルトは短く息を吐き、鎧を解除した。灰銀の鎧が粒子となって霧散し、シャツ姿のハルトが姿を現す。
全身の筋肉が悲鳴を上げている。倦怠感が、鉛のように重くのしかかる。
「ハ、ハルト……」
震える声。恐る恐る振り返ると、そこには腰を抜かしそうになりながらも、必死に立っている母・早紀の姿があった。
彼女はいつもの厳しい外交員の顔を作ろうとしていたが、その瞳の奥にある動揺は隠せていない。その手は、バッグの持ち手を白くなるほど強く握りしめていた。
「ハルト。アンタ、いつの間にあんな力を……。あれは、人間の力じゃないわよ」
母さんの声には、恐怖と、それ以上の悲しみが滲んでいた。普通の幸せを願って育てた息子が、あんな殺戮兵器を身に纏っていたのだ。当然の反応だろう。
ハルトは努めて明るく、いつもの「馬鹿息子」の顔で笑ってみせた。
「……ごめん、母さん。驚かせたよね。でも、これが今の俺なんだ。……これが、今の俺なんだ」
「ハルト……」
早紀は深い、本当に深いため息をついた。そしてゆっくりとハルトに歩み寄り、俺の肩をパンパンと叩いた。埃を払うように、あるいは、そこに息子が実在することを確かめるように。
「……まったく。アンタの父親もそうだったけど、草薙家の男はどうしてこう、損な役回りばかり選ぶのかしらね」
「遺伝、かな?」
「でしょうね。……まあいいわ。その力で、あの子――輪廻ちゃんを、悲しませるんじゃないよ」
早紀の目には、もう恐怖はなかった。あるのは、覚悟を決めた男を見る、厳しくも温かい眼差しだけだった。
魔の脅威は去った。
早紀は、迎えに来たタクシーに乗り込む直前、窓をウィーンと下ろしてハルトを睨んだ。
「いい、ハルト。今回の件、私はしっかり『査定』したわ。減点要素満載だけど、まあ特約付きで更新してあげる」
「そりゃどうも。保険料が上がらないことを祈るよ」
「……で、最後にもう一つ。あの子たち、輪廻ちゃんと響花ちゃん。アンタ、どっちを選ぶつもり?」
「えっ?」
ハルトは思考停止した。どっちって、何を?
「もう、この朴念仁! 将来のパートナーの話をしてるのよ! どっちを選ぶかって聞いてるの!」
「パートナー? ああ、戦いのコンビのことか? いや、二人とも大事な仲間だし、どっちか一人なんて選べるわけ……」
「……はぁ~~~~(クソデカ溜息)。」
早紀は天を仰いだ。その顔には「この子の恋愛偏差値、マイナス5億」と書いてあった。
「本当にアンタ、肝心なところで抜けてるわね……。まあいいわ、また来るから。二人を泣かせたら承知しないわよ! 特に輪廻ちゃんは、私が目を光らせてるんだからね!」
そう言い捨てて、タクシーは爆音を残して去っていった。残されたハルトは、ポカンと口を開けて見送るしかなかった。
「……なんだよ、パートナーって。戦闘の前衛後衛の話じゃないのか?」
「……ハルト様」
隣で、今のやり取りをすべて聞いていた輪廻が、そっとハルトの袖を掴んだ。その手は小さく震えていた。
彼女は先ほど早紀から聞いた話を思い出していた。ハルトが、かつて救えなかった父親の背中を追っていること。
「死なせたくない」という想いが、彼を突き動かす原動力であること。
そして今、目の前で繰り広げられた戦い。彼は、あんなにも恐ろしい、身を削るような力を振るってまで、自分を守ってくれた。
「化け物」と呼ばれるかもしれない恐怖を飲み込んで、ただ、私のために。
(ハルト様……。貴方は、私のためにそこまで……)
輪廻の胸の奥で、何かが熱く、激しく弾けた。それは感謝や尊敬といった言葉では括れない、もっとドロドロとしていて、それでいてどうしようもなく甘美な感情。
(私、今まで以上に……貴方のことが好きになってしまいました……。もう、引き返せないくらいに)
輪廻は、上目遣いでハルトを見つめた。夕焼けに照らされた彼女の頬は、熟れた林檎のように真っ赤に染まっていた。
「……? 輪廻、顔赤いぞ? さっきの戦闘で熱でも貰ったか? それとも瓦礫が当たった?」
ハルトは心配になって、彼女の額に手を伸ばそうとする。相変わらずの鈍感さ。でも、その無骨な掌の温かさこそが、今の輪廻には何よりも愛おしかった。
「な、なんでもありません! ……ただ、ハルト様が無事で、本当によかった……」
「お、おう。心配かけたな」
「ちょっと、そこの二人!! 盛り上がってるところ悪いけど、こっちは死ぬかと思ったんだからね!!」
背後から、怒鳴り声と共にドタドタと駆け寄ってくる足音がした。
振り返ると、そこには髪を振り乱し、肩で激しく息を切らした響花が立っていた。どうやら戦闘の最中、パニックになった一般人や野次馬を安全な場所まで誘導し、事後処理の段取りまで一手に引き受けてくれていたらしい。
「あ、響花。お疲れ、助かったよ」
「お疲れじゃないわよ! 突然あんなバカでかい魔獣が出てくるし、ハルトは勝手に飛び出して暴れ回るし……! もう、後片付けと口止めの工作、どれだけ大変だと思ってるのよ!」
響花は額の汗を乱暴に拭うと、二人の間に割って入った。そして、ハルトの袖を掴んでいる輪廻をジロリと睨む。
「……で、なに? さっきの早紀さんの言葉、私もバッチリ聞こえてたわよ。『どっちを選ぶのか』って。ねえハルト、アンタまさか、この子に丸め込まれて変な契約結んでないでしょね!?」
「契約? だからさっきから何の……」
「もう、本当に鈍感なんだから……っ! 輪廻ちゃん、あなたもよ! どさくさに紛れてハルトに密着しすぎ! さあ離れた離れた!」
「響花さん、意地悪ですよ! 私だって、ハルト様を心配していただけなのに……!」
夕暮れの街角。怒り狂う響花と、涙目で食い下がる輪廻。そして、その真ん中で「腹減ったなぁ」と空を見上げる俺。
「あー、もういいわ! 説教は後! ほら、帰るわよ! 私、誘導で喉カラカラなの!」
「あ、はい! ハルト様、帰りましょう! 今夜のお夕飯は、ハルト様の好きなハンバーグです! 腕によりをかけて作りますから!」
「えっ、ハンバーグ!? 私も食べるわよ! 毒味役が必要でしょ!」
「もうっ、響花さんの分はありませんよ!」
二人の騒がしいやり取りを子守唄代わりに、三人はゆっくりとアパートへの道を歩き出す。
長く伸びた三人の影が、夕焼けの舗装路で重なり合い、混ざり合っていく。
(……まあ、母さんには心配かけたけど。この騒がしい日常こそが、俺が命懸けで守りたい『保険』なんだろうな)
三人の夜は、これからもっと賑やかになりそうだ。




