最強の来訪者、あるいは生への渇望(前編)
魔導騎士アガレスとの死闘から数日。
あの後、魔導剣ウァッサゴが忽然と姿を消したこと以外、平穏な日々を過ごしている。
崩壊したS.A.I.D.地方支部とは対照的に、ハルトの住む安アパート『ひだまり荘』には、奇跡的にも穏やかな朝が訪れていた。
その音は、平和な朝の静寂を切り裂く死神の鎌だった。
築30年のボロアパート『ひだまり荘』。
窓から差し込む朝日は、昨日までの魔導騎士との激闘を忘れさせるほどに温かい。
空気中に舞う塵さえも、今日の安寧を祝福する紙吹雪に見えるほど、そこには穏やかな時間が流れていた。
「ハルト様、卵焼きは甘めとしょっぱめ、どちらがよろしいですか?」
キッチンで菜箸を振るう輪廻が、小首をかしげて微笑む。
エプロンから伸びる眩いほどに白い腕と、出汁の湯気の向こうに見える家庭的な幸福感。
(ああ、平和だ……。このまま時間が結晶化して止まればいいのに……)
そんな脳内お花畑な俺の幻想を、テーブルの上で狂ったように震えるスマートフォンが現実へと引き戻した。
ブブブ、ブブブブッ……。
ディスプレイに表示された文字を見た瞬間、俺の心臓は停止し、直後に限界を超えてオーバークロック(激動)した。
『 母 』
「……ッ!? な、なんで……今……っ!!」
「ハルト様!? なんですか、その心臓を直接握りつぶされたような顔は!」
輪廻の制止も耳に入らない。俺は震える指で通話ボタンをスワイプした。
スマホが氷の塊のように冷たく感じる。喉は砂漠のように乾き、唾を飲み込む音さえ爆音のSEのように脳内に響く。
「……も、もしもし? 母さん? どうしたの、こんな朝早くに……」
『あらハルト、おはよう。生きてる?』
受話器越しに響くのは、わが母・草薙早紀。
俺を産み育て、そして俺の精神的ヒエラルキーの頂点に君臨する「絶対君主」の声だ。
その声は不気味なほどに明るく、そして保険の契約を勝ち取る直前のトップ外交員特有の、獲物を逃さない「査定モード」の冷徹な響きを含んでいた。
『今ね、近くの駅に着いたの。改札を出たところよ』
「……は?」
思考が停止する。脳内の処理系が「Error 404」を吐き出し、視界がチカチカする。
『アンタの住所なら暗記してるわ。あと30分で着くから。掃除は? 洗濯物は? 不純異性交遊は? ……まあ、いいわ。すぐ行くから。じゃあね』
プツン。ツー、ツー、ツー……。
無機質な切断音が、俺への死亡宣告として脳内で無限リフレインする。
俺はスマホを握りしめたまま、真っ白に燃え尽きた灰のように畳に崩れ落ちた。
「……終わった。俺の人生、ここで満期終了だ」
「ど、どうしたんですかハルト様!? 顔色が土壁……いえ、もはや死色を通り越して透明になってますよ!」
輪廻が慌てて駆け寄り、俺の背中をさする。その温もりが、今は逆に辛い。
「輪廻……逃げろ。今すぐ、この部屋から逃げるんだ……!」
「えっ……?」
「草薙早紀……。地元で伝説の成約率を誇る保険外交員にして、俺を女手一つで育て上げた『鉄の女』だ。……俺、母さんに輪廻のこと、一言も言ってないんだよ……!」
母にとって、俺は愛する息子であると同時に、決して『事故』を起こしてはならない最重要物件。
(み、未成年の女子と同棲……。しかも相手は人類の敵であるはずの魔人のハーフ……。こんなのバレたら、俺の人生という名の契約は強制解約、社会的な死どころか、物理的にこの世から消去される……!!)
「わ、私、ハルト様のお母様に嫌われてしまうのでしょうか……! 何処の魔人の骨かわからない娘が息子をたぶらかしていると……!」
輪廻が涙目になりながら、お玉を握りしめてガタガタと震え出した。
「嫌われるどころじゃない、俺たちがまとめて『リスク管理』の対象として処理される! とにかく一時避難だ! 響花! 響花、いるか!?」
俺はベランダの仕切りを、文字通り破壊せんばかりの勢いで叩いた。
「なによ朝っぱらから……って、なにその死相が出たような顔」
隣室のベランダから顔を出した響花は、俺の顔を見るなり、寝ぼけ眼を一瞬で限界まで見開いた。
俺は事情を――母の襲来という名の広域災害を――爆速で、コンマ一秒を惜しんで説明した。
実は響花と母・早紀は、昔からの知り合いだ。
俺が上京する際、母は「隣に住んでるんだから、うちの馬鹿息子をよろしくね。変な女が寄り付いたら、即座に私に保険金を請求する勢いで連絡して」と、響花に直々に頼み込んでいたのである。
「はぁ!? 早紀さんが来るの!? なんでそれを先に言わないのよ馬鹿ハルト!!」
響花の顔色が、俺以上に真っ青に染まる。
彼女にとっても早紀は、逆らえない親戚の叔母のような存在であり、同時に「将来の義母になるかもしれない(という淡い期待を含んだ)」絶対に敵に回してはいけない最強のラスボスだった。
「いいわ、輪廻ちゃん、こっちへ! 匿うから! 早く、全ての私物をバッグに詰めて!!」
「は、はいっ! 響花さん、お願いしますっ!」
そこからは、アガレス戦をも凌駕する超高速連携が展開された。
輪廻の歯ブラシ、化粧水、可愛いデザインのマグカップ、そして脱ぎ捨てられたパジャマ……。
俺は部屋に残された「女の気配」という名の証拠品を次々とボストンバッグに詰め込み、ベランダ越しに響花へ放り投げた。
「よし……これで、表面上は『男の一人暮らし』だ……!」
掃除機をかけ、消臭スプレーを撒き散らし、不自然なほど清潔になった部屋で、俺は最後の審判を待つ被告人のように正座した。
ーーー
――ピンポーン。
正確無比。ミリ単位の狂いもない、訓練されたリズムでインターホンが鳴る。
俺は心臓が口から飛び出しそうなのを必死で飲み込み、ドアを開けた。
「……久しぶりね、ハルト。元気してた?」
そこに立っていたのは、仕立ての良いネイビーのパンツスーツを隙なく着こなし、獲物を定める鷹のような瞳をした女性――草薙早紀だった。
「母さん……お疲れ様。急だね、本当に」
「急じゃないわ。アンタが連絡を寄越さないから、私が調査に来ただけよ」
早紀は挨拶もそこそこに、部屋へと足を踏み入れた。
その瞬間、部屋の空気が一変する。
彼女は歩きながら、まるで事故現場の過失割合を算出するベテラン調査員のように、室内をスキャンし始めた。
「ふん、相変わらず殺風景ね。……でも、おかしいわね」
早紀がクローゼットの前で立ち止まり、クンクンと鼻を鳴らした。
「……ハルト。アンタ、いつから『フローラルブーケの香り』の柔軟剤を使うようになったの? アンタは昔から『石鹸の匂いこそが至高』と言って、浮ついた香りは嫌っていたはずだけど?」
「あ、いや、それは……! 都会の流行に揉まれて、ちょっと女子力を高めようかと!」
「女子力? アンタが? ……笑えない冗談ね」
早紀の目は誤魔化せない。彼女はそのまま流し台に歩み寄り、蛇口の根元を指先でなぞった。
「それに、このシンクの輝き。アンタみたいな、脱いだ靴下も揃えられないズボラが、水滴一つ残さず拭き上げるなんて、天変地異でも起きない限り有り得ないわ」
さらに、早紀がゴミ箱の中身をじっと見下ろす。
「中にある『卵の殻』の数。……四個分ね。アンタ、朝は目玉焼き二個って決まってたはずよ。なぜ、偶数の四個なの? 二人分、あるいは予備……? いずれにせよ、一人暮らしの計算に合わないわ」
「(母さん……恐すぎるだろ! なんだその観察力は! 探偵かよ!!)」
その頃、隣の響花の部屋では。
「輪廻ちゃん、もっと奥に隠れて! クローゼットの中で息を止めて!」
「は、はい……! 心臓の音が外まで漏れてしまいそうです……!」
響花は必死で「一人で過ごす女子大生の朝」を演出していた。
しかし、最強の外交員の勘は、既に物理的な壁さえも透過していた。
ハルトの部屋で、早紀がふと、隣の部屋との境界壁をコンコンと叩いた。
「……それにしても、このアパート、壁が薄いわね。防犯のリスクが跳ね上がってるわ。ハルト、隣の響花ちゃんとはちゃんと挨拶してるんでしょうね?」
「あ、ああ、もちろん。幼馴染だし、よく顔は合わせてるよ……」
「そう。……ねえ、響花ちゃん? そこで聞き耳を立てているんでしょう? ちょっとお邪魔していいかしら?」
早紀は確信に満ちた笑みを浮かべると、俺の制止を待たずに、そのまま玄関を出て隣の扉を叩いた。
――ピンポーン。
「響花ちゃーん? ハルトの母です。ちょっとお顔を見せてくれるかしら?」
ガチャリ、とドアが開く。そこには、幽霊でも見たような顔で立ち尽くす響花がいた。
「あ、早紀さん……! お久しぶりです。えっと、今はちょうど散らかってて……」
「いいよ、気にしないで。……あら?」
早紀の鋭い視線が、玄関のたたきに落ちた。
そこには、脱ぎ捨てられた響花のヒールと、俺の予備のスリッパ。
……そして、それらに混じって、**「一足の白いスニーカー」**が置かれていた。
それは、つい先日、俺が輪廻に「歩きやすいから」と買い与えた、最新のレディースモデル。
丁寧な手入れがされており、新品のように輝いている。
早紀が、そのスニーカーの前でしゃがみ込んだ。
「この靴……響花ちゃんは履かないデザインね。アンタ、機能性よりブランド重視だもの」
「えっ? あ、それは……その……」
「サイズは23センチ。育ちの良さが滲み出るような、完璧なまでに揃えられた『つま先の角度』。……響花ちゃん、ここに『もう一人』いるわね?」
「あ……あわわ……」
早紀はゆっくりと立ち上がり、獲物を追い詰める捕食者のように、クローゼットへと歩みを進める。
その足音は、まるで俺の人生のカウントダウンのように響いた。
「出てきなさい。……アナタがどんな子か、私自ら『査定』してあげるわ」
その圧倒的なオーラ、魂を射抜くようなプレッシャーに耐えきれず、クローゼットの扉が震えながら開いた。
そこには、涙目で震えながらも、俺の不利益にならないよう、決死の覚悟で前に出た輪廻の姿があった。
「……は、初めまして……っ! 草薙ハルトさんの……その、友達の神楽輪廻と申しますっ!!」
早紀の鋭い瞳が、輪廻の真っ直ぐな、しかし今にも消え入りそうな眼差しを正面から射抜いた。
ひだまり荘の空気が、まるで最終決戦のように熱く、そして凍てつくように張り詰めた。




