不屈の共闘、あるいは白亜の檻の共鳴(前編)
意識の底は、ひたすら暗く、そして冷たい泥のようだった。
そこから無理やり引きずり上げられるような感覚と共に、西園寺レイジは目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、目に刺さるほど無機質な白。天井のLEDライトが、網膜を容赦なく灼く。鼻を突くのは、ハルトの病室よりもさらに濃い、薬品とオゾンの混じった「滅菌」の匂いだ。
「……っ、が……あ……」
喉が焼けるように熱い。肺に酸素を送り込むたびに、胸部を万力で締め上げられるような鈍痛が走った。
反射的に体を起こそうとしたレイジだったが、その自由はすぐに奪われた。カチリ、という硬質な音。
両手首、両足首、そして胸元。特殊合金製の拘束具が、彼の四肢をベッドに縫い止めていた。それは、S.A.I.D.が「暴走の危険がある高位能力者」を収容する際に用いる、魔力抑制機能付きの拘束具だ。
「……くっ、離せ……! 僕は……魔導騎士だぞ……!」
叫ぼうとしたが、声は掠れ、力が入らない。
レイジの脳裏に、あの忌まわしい記憶がフラッシュバックする。灰色の空。崩壊する高層ビル。そして、自分を「ゴミ」のようにあしらった魔導騎士アガレスの、巨大な岩塊の拳。
(負けたのか……? この僕が。あんな、泥人形のような化け物に……)
視線を落とせば、自身の体は包帯で幾重にも巻かれていた。だが、その処置は驚くほど完璧だ。誰かが、この瀕死の体を――誇りごとズタズタになったこの「魔導騎士アスタロト」を、丁寧に繋ぎ止めたのだ。
「……ようやくお目覚めかしら? お坊ちゃん」
静寂を切り裂くように、自動ドアが「プシューッ!」と景気良く開いた。
入ってきたのは、白衣の袖を丸太のような上腕二頭筋で今にも弾け飛ばさんばかりに捲り上げ、悠然と歩く――神宮寺ミラだ。
彼女はレイジの殺気に満ちた視線を柳に風と受け流し、手にしたカルテを指先で器用に回転させた。
「貴方が……治療してくれたのか……?」
「そうよ。アスタロトのお坊ちゃん。地獄の淵で三途の川の渡し賃を値切ってたから、私が引きずり戻してあげたわ」
ミラはレイジの脈を診るふりをして、その太い腕の二頭筋を親指で「グッ」と、容赦なく押し込んだ。
「……っ!? 何を、する……っ!」
「いい反応。反射は正常ね。……安心していいわよ。貴方の魔導騎士としてのプライドはズタズタかもしれないけど、その自慢の体は、私が完璧にビルドアップしてあげたから。……もっとも、心の傷までは専門外だけどねぇ」
ミラは不敵に微笑むと、カルテを脇に挟み、真剣な――医師としての鋭い眼差しをレイジに向けた。
「感謝しなさい、お坊ちゃん。貴方の命を繋いだのは私の腕だけど……その死地から、貴方のボロボロの体を担ぎ出してきたのは誰か、分かってる?」
レイジは言葉を詰まらせた。自分が意識を失った後、現場に誰が残っていたか。
「……ゴエティア、なのか」
「そうよ。ハルトちゃんは、自身の腕が『灰化』し、命を削るような状況でありながら、貴方をここまで運び込んだ。そして響花は、エージェントとしての任務を逸脱してまで、私に貴方の優先的な治療を直談判してきたわ。……あの子たちが居なきゃ、貴方は今頃、アガレスのコレクションの一部になって、硝子ケースの中で干からびた標本になってたはずよ」
レイジの胸に、言葉にならない屈辱と、それを上回るほどの動揺が広がった。自分があれほど見下し、排除しようとしていた「不合理」の存在に。そして、自分が攫った女に。
「分かったら、さっさと治してあの子たちに頭下げなさいな。西園寺の名が泣くわよ?」
ミラは艶やかに笑い、パチンと力強いウインクを投げると、嵐のようなオーラを振りまいて去っていった。
再び訪れた静寂。レイジは一人、白亜の天井を見つめていた。
(ゴエティアに……助けられた……? まさか。あり得ない。あいつは、僕の敵……)
その時だった。『……クスクス。随分と情けない顔をしてるわね、レイジ。まるで、おもちゃを取り上げられた子供みたいだわ』
不意に、部屋の隅の備品棚に置かれた私物入れの中から、鈴を転がすような、それでいて甘い毒を含んだ女性の声が響いた。レイジは目を見開く。
「……ラプラス。無事だったのか」
私物入れの蓋をひとりでに押し開け、銀色の鎖が蛇のように這い出してきた。それはレイジの半身とも言える魔導剣・ラプラスだ。
『当たり前じゃない。私を誰だと思ってるの? 未来を演算し、世界を暴く至高の魔導剣……そして、あなたの可愛くて賢い「お姉様」代わりよ? あんな石ころの塊に壊されるほど、私は安くないわ』
ネックレスの中央に埋め込まれた紅い宝石が、心臓の鼓動のように妖しく明滅する。ラプラスは拘束されているレイジの胸元まで浮遊してくると、まるで愛撫するように鎖を滑らせた。
『……まあ、あなたの意識が途切れた時は、流石の私も少しだけ焦ったけれどね』
「……。ラプラス、お前は……あいつらの行動を、どう思う」
レイジの問いに、ラプラスは少しだけ思案するように宝石の光を揺らした。
『ふふ、そうね……。私の演算によれば、あそこであなたを捨てて逃げるのが、生存確率98%の「正解」だった。でも、あの男――草薙ハルトは、残りの2%以下の「非合理」を選択したわ。……ねえ、レイジ。認めなさいな。あなたはあの男に、完敗したのよ。力でも、そして……「人」としても、ね』
「……黙れと言っている……!」
『嫌よ、黙らないわ。……いい、レイジ? あなたは今回、ただ命を救われたんじゃない。……これは、お姉さんの死の呪縛から解き放たれるチャンスなのよ』
その言葉に、レイジの呼吸が止まった。西園寺家の長男として、完璧であることを義務付けられた彼を縛る、唯一にして最大のトラウマ。数年前、病気によって命を落とした実の姉の記憶。
『いつまで、死んだ人に縛られているつもり? あの男があなたを救ったのは、「そこに命があったから」よ。……あなたがいつまでも、過去の影に怯えて、プライドを鎧にして閉じこもっているのなら……』
ラプラスはレイジの頬を、冷たい鎖の先でなぞった。
『私、あっちの男……草薙ハルトのところへ行っちゃおうかしら? 彼の方が、ずっと面白い未来を見せてくれそうだわ』
「……ふざけるなッ!」
レイジは、拘束具が軋むほどの力で手首を握りしめた。その瞳には、先ほどまでの絶望ではない、どす黒く、しかし純粋な「意志」が再燃していた。
「……ラプラス。お前の演算は、時々鼻につく」
『あら、それは光栄ね』
「……受けた侮辱は倍にして返すが。受けた『恩』をそのままにしておくほど、僕は安っぽい男じゃない。……魔導騎士アスタロトの名にかけて、だ」
レイジの声から、震えが消えた。彼は、自分を救ったハルトの背中を、今度は「倒すべき壁」として再定義した。助けられた屈辱を、返すべき負債に変え、その負債を完済した瞬間にこそ、真にハルトを超えられるのだと。
『クスクス! そうよ、それでこそ私の愛した主。……ようやく、少しはマシな男の顔になったわね』
ラプラスは満足げに宝石の光を収めると、元の冷たい金属の重みとなってレイジの胸元に落ち着いた。
「草薙ハルト……。勝手に死ぬなよ。お前の首を獲るのは、この僕だ。……そして、その時までに、この借りだけは……必ず、僕なりのやり方で返してやる」
暗い病室。拘束具に縛られたまま、レイジは不敵な笑みを浮かべた。それは宣戦布告であり、彼なりの不器用な「感謝」の誓いでもあった。
窓の外、夜明けの光が白亜の壁を照らし始める。物語の歯車は、敗北という屈辱を経て、より強固に噛み合い始めた。




