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ステーキと林檎、あるいは愛の重さについて

地下深く、対魔特務機関《S.A.I.D.》の最深部に位置する特別病棟。

外界の喧騒も、降りしきる冷たい雨の音も届かないこの場所は、死の淵から生還した者たちが再び「戦士」へと戻るための、静謐で無機質な繭のような場所だった。


ハルトが意識を浮上させてから三日。

集中治療室(ICU)の、あの心臓を握り潰されるような重苦しい空気からは解放されたものの、移された一般特別病室で彼を待っていたのは、安らかな休息などではなかった。それは、別の意味で生存本能を刺激される「静かなる火花」だった。


カチ、カチ、と規則正しく刻まれる心電図の電子音。

ハルトが重い瞼を持ち上げると、鼻を突く消毒液の匂いに混じって、どこか高貴で瑞々しい百合の香りが漂って


「……あ。ハルト様、気がついたんですね。よかった……」

安堵の溜息を漏らすような、透き通った声。


枕元には、神楽輪廻がいた。いつもの巫女服ではなく、清楚な若草色のワンピースを纏った彼女は、椅子に浅く腰掛け、ハルトの顔を慈しむように見つめていた。


「輪廻……。わざわざ、ずっと居てくれたのか?」


「はい。ハルト様が目を覚ましてくれるまで、私、どこにも行きたくなかったんです。……あ、もちろん、主治医の先生にはちゃんと許可をもらいましたよ?」


輪廻は少しだけ茶目っ気のある笑みを浮かべ、そっとハルトの布団の端を整えた。

その動作は流れるように美しいが、ハルトと視線が合うと、少しだけ照れたように睫毛を揺らす。その距離感は、以前よりもずっと「近い」。


「……お体の具合、どうですか? もしよかったら、お口に合うか分からないんですけど……ハルト様に元気になってもらいたくて、私なりに用意した物があるんです」


そう言って彼女がサイドテーブルから取り出したのは、漆塗りの重厚な三段重だった。


蓋が開けられると、そこには一分の隙もなく詰められた**「自家製・スタミナ肉尽くし弁当」**が鎮座していた。

一段目には牛肉のステーキ、二段目には鶏の照り焼き、三段目には出汁の香る出し巻き卵。


「……あの、輪廻。これ、病人食の域を遥かに超えてないか? このステーキのボリュームは、ちょっと今の俺には……」


「……あ、やっぱり多すぎましたか? ハルト様に早く体力をつけてほしくて……私、お料理のことはまだ勉強中なんですけど、つい欲張って詰めちゃって」


輪廻はお淑やかに、けれど少しだけ困ったように頬を掻いた。

その「完璧すぎない」お嬢様としての振る舞いが、かえってハルトの心を緩ませる。


「……よかったら、私、食べやすいように小さく分けますね? はい、あーん……してくれますか?」


彼女は顔を赤くしながらも、その瞳には「自分がハルトの力になりたい」という一生懸命な願いが宿っていた。


「ちょっと待ちなさい。病人にそんな重たいもの、毒でしかないわよ」


冷ややかな、しかしどこか焦燥を含んだ声がドアの方から響いた。


黒いレザージャケットを椅子に放り捨て、不機嫌そうな顔で入ってきたのは響花だった。

彼女は輪廻の重箱をちらりと一瞥し、鼻で笑う。


「栄養学を無視した感情論ね。相変わらずおめでたいわね、輪廻ちゃん」


「……あ、響花さん。そんな言い方しなくてもいいじゃないですか。私はただ、ハルト様に活力を……」


「ハルトの生命力を呼び覚ますのは、もっと科学的なアプローチよ。これを見なさい」


バチバチ、と二人の視線が交差する。ハルトは、アガレスの岩塊を食らった時よりも強い圧迫感を胸に感じ、思わず身を縮めた。


「ハルト。あんたには、こっちの方が相応しいわ。最高効率の栄養補給よ」


響花がサイドテーブルの空きスペースに叩きつけたのは、宝石箱のように輝くフルーツが詰められた籠だった。


中には、驚くほど精巧に――というより、執念を感じるほど緻密に剥かれた、ウサギ型の林檎が並んでいた。


「これ……響花が剥いたのか?」


「……べ、別にあんたのために時間をかけたわけじゃないわよ。ナイフ捌きの訓練のついでよ。指先を動かさないと、エージェントとしての感覚が鈍るでしょ?」


響花は顔を背けたが、その耳の先は林檎の皮よりも赤くなっていた。

よく見ると、彼女の白く細い指先には、小さな絆創膏がいくつか貼られている。


「……ハルト様、やっぱり温かいものを。わたし、ステーキを一口サイズに切りますから」


「ダメよ、まずはビタミン。ほら、口を開けなさい。食べないと捨てちゃうわよ?」


右から肉厚のステーキ、左から執念の林檎。

ハルトは、もはや自分が重傷を負った騎士なのか、それとも餌を与えられる雛鳥なのか分からなくなってきた。


その時、病室の空気を根こそぎ入れ替えるような、圧倒的な「陽」のオーラが扉を突き破ってきた。


「はぁ〜い、そこまで!! ストップ、ストップ!」


自動ドアが「プシューッ!」と勢いよく開き、廊下から響くヒールの音。

白衣の袖を、丸太のような上腕二頭筋で今にも弾け飛ばさんばかりに捲り上げ、神宮寺ミラが悠然と入室してきた。


彫刻のような腹筋が、薄いシャツ越しにも克明に浮き出ている。にもかかわらず、その仕草はどこまでも艶めかしく、長く整えられた爪には「心臓ハート×筋肉マッスル」という、あまりにも攻撃的なネイルアートが施されていた。


「ちょっとぉ、二人とも! 私の可愛いハルトちゃんの心拍数が、戦闘時より跳ね上がってるじゃない。これじゃ心臓のリハビリどころか、オーバーヒートで灰になっちゃうわよぉ?」


ミラは腰をくねらせながらハルトのベッドサイドに陣取り、長い睫毛を揺らして彼を覗き込んだ。


「ハルトちゃん、気分はどう? この子たちの愛の重さで、窒息しそうになってないかしら?」


「ミ、ミラ先生……。助けてください、と言いたいところなんですが……」


「ウフフ、いいわよぉ。先生に甘えちゃっても。でもね、その前に」


ミラは、輪廻の重箱と響花の林檎を、指先で交互に指した。


「輪廻ちゃん。このお弁当、最高級のバルクアップ飯ね。素敵だけど、今のハルトちゃんには、このステーキの脂はちょっと刺激が強すぎるわぁ。……代わりに先生が頂いちゃおうかしら?」


「えっ……。だ、ダメです、それはハルト様のために……っ」


輪廻が必死に重箱を抱え込む。


「そして響花。この林檎……うさぎさんというより、筋肉を誇示するポージング(サイドチェスト)をしてるように見えるわ。あなたの情熱エゴ、嫌いじゃないわよぉ?」


「うるさいわね! ただの林檎よ!」


ミラは二人の少女を翻弄し、いじり倒すことを存分に楽しんでいる。

しかし、その瞳の奥には、ハルトの首筋――「灰化」が刻まれた場所を、一切の妥協なく観察する鋭い医師の眼光があった。


ミラはハルトの脈を測りながら、少女たちに背を向けるようにして、彼だけに聞こえる低い声で囁いた。


「……ハルトちゃん。この子たちが必死なのはね、貴方が**『いつ消えてしまうか分からない』**って、本能で感じてるからよ」


ミラの声から、いつもの茶化すような響きが消えた。


「女子力アピールなんて、可愛いもんじゃない。

あれはね、貴方をこの世界に縫い止めるための**『くさび』**よ。

貴方がフッと灰になって空へ還らないように、必死で魂に鎖を巻き付けてるの。

……覚えときなさい。乙女の執着アイは、物理攻撃より重たいんだから」


ミラは再び振り返ると、いつもの「陽」のオーラを纏って高らかに笑った。


「さて、診察終了! 本当は私がハルトちゃんの体を隅々まで『ハードコア・マッサージ』してあげたいところだけど……今日は二人にお譲りするわ。ただし、ハルトちゃんを疲れさせたら、次からは私が直々に『筋肉マッスル特別検診』を行うから覚悟なさいね?」


「……勘弁してください。敵にやられる前に、リハビリでトドメを刺される未来しか見えません……」


ハルトは天井を仰ぎ、魂が抜けかけたような乾いた笑いを漏らした。

目の前の「愛」も「医療」も、今の彼には致死量ギリギリの劇薬でしかないらしい。


「ウフフ、愛のムチよ! じゃ、お二人さん。ハルトちゃんが壊れない程度に、仲良く喧嘩しなさいな!」


ミラはパチンとウインクを一つ残すと、鋼のような背中を揺らしながら、嵐のように去っていっていった。


ミラが去った後、病室には奇妙な静寂が訪れた。

窓の外、夜の湾岸地区は、ネオンの光で彩られている。あの場所で、自分たちは死にかけた。そして、今ここにいる。


「ハルト様……」


輪廻が、静かに口を開いた。その瞳には、先ほどまでの勢いではなく、深い祈りのような色が宿っていた。


「私、本当は分かってるんです。……私がどんなにお弁当を作っても、ハルト様の体の痛みを代わりに受けてあげることはできないって。……でも……」


輪廻はハルトの手元にある林檎をそっと指した。


「……せめて、この林檎から食べてください。冷たいものの方が、今のハルト様にはいいと思思いますから……ね?」


「輪廻……」


「輪廻ちゃんだけじゃないわ」


響花も、少しだけ毒気が抜けたように溜息をついた。


「……あんたが勝手に死ぬなんて、私が許さない。あんたを管理するのは、私なんだから。……だから、その……あんたが『戻ってくる場所』は、私が守ってあげるわよ」


二人の、形は違えど同じ重さを持った想い。


ハルトは、包帯で巻かれた自身の左手を、もう一方の手でそっと握りしめた。冷たい感覚。けれど、この部屋を満たす温かさだけは、確かに感じることができた。


「……ありがとう。二人とも。……じゃあ、せっかくだから。林檎から……頂こうかな」


「っ……! 食べなさいよ、ほら」


「……はい、ハルト様。はい、あーん……」


ハルトの苦笑いと共に、賑やかで、そして少しだけ切ない夜は更けていく。

一週間前の戦場よりも過酷で、けれどこの上なく温かい「お見舞い」は、彼の冷え切った魂を少しずつ溶かしていくようだった。

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