絶望の縁、災厄は騎士として在る(後編)
夜の湾岸地区。
世界は、冷たい雨と潮の匂いに塗りつぶされていた。
工場の崩壊音が、遠雷のように背後で轟く。
響花の掠れた声による案内で辿り着いたのは、古びた港湾倉庫街の一角。
表向きは廃棄された物流拠点だが、その地下には対魔特務機関《S.A.I.D.》の地方支部が眠っている。
重厚な防爆シャッターが、地響きと共に閉じる。
プシュー、という気圧調整の音が響き、外界の雨音と殺意が遮断された、その瞬間。
張り詰めていた鋼の糸が、プツリと音を立てて切れた。
「……っ、は、ぁ……」
ハルトの膝が折れる。
抱えていた輪廻と響花を庇うように崩れ落ち、そのままコンクリートの床に沈んだ。
視界がホワイトアウトする寸前、彼が最後に見たのは、泣き叫ぶような輪廻の顔と、天井の無機質な白い光だった。
ーーー
そこは、どこまでも残酷なほどに白い回廊だった。
鼻をつくのは、鋭利な薬品の匂いと、微かな消毒用アルコールの刺激臭。
空調の低い唸り声と、遠くで規則正しく刻まれる電子音が、ここが生と死の境界線であることを告げている。
ハルトが搬送されたのは、最奥の集中治療室(ICU)。
分厚いガラスの向こうで、数人の医療スタッフが慌ただしく動いているのが見える。
廊下の長椅子には、二人の少女が並んで座っていた。
輪廻と、響花。
「…………」
沈黙が、痛かった。
響花は自身の膝の上で、泥と血にまみれた包帯を巻いた拳を、爪が食い込むほど強く握りしめていた。
いつもの勝気な輝きは瞳から消え、あるのは深い悔恨の影だけだ。
「……私のせいだ」
ぽつりと、乾いた唇から言葉が零れ落ちた。
「私が……アスタロトに捕まったから……」
響花の声が微かに震える。
それはエージェントとしての敗北感か、それともハルトを危険に晒した自己嫌悪か。
「……私も、です」
輪廻は、膝の上で手を重ね、俯いたまま言った。
黒髪が顔にかかり、その表情は見えない。
「ハルト様に、守ってもらってばかりです。……無理をしていると、身体が悲鳴を上げていると、わかってしるのに。私は、無力です……」
二人の間に流れるのは、重く、苦い沈黙。
魔導騎士アガレスという圧倒的な「個」の暴力に晒され、大切な人を傷つけられた無力感。
その沈黙を、唐突に、そして暴力的に破壊する声が響いた。
「はぁ〜い、そこまで!! ストップ、ストップ!」
廊下の空気を一変させたのは、その場にはあまりにも不釣り合いな、圧倒的な「陽」のオーラを纏った人物だった。
白衣。
だが、その下から覗くのは、鋼のように鍛え上げられた褐色の肉体美。
白衣の袖は引きちぎれんばかりの上腕二頭筋によって捲り上げられ、彫刻のような腹筋がシャツ越しにも見て取れる。
にもかかわらず、その仕草は艶めかしく、長く整えられた爪には派手なネイルアートが施されている。
年齢は二十代後半。女性と呼ぶにはあまりにも逞しい、対魔特務機関専属主治医。
神宮寺ミラ。
「響花ぁ〜、久しぶりじゃない! また随分とボロボロの男子、拾ってきたわねぇ?」
「……ミラ先生」
響花が、強張っていた表情を少しだけ緩めた。
この過酷な戦場において、唯一「日常」と「安心」を体現する存在。
ミラは長い睫毛を揺らしながら、ちらりと輪廻へと視線を流した。
「で、そっちの可愛らしいお嬢さんは?」
「……神楽輪廻、です」
輪廻は慌てて立ち上がり、深々と頭を下げた。
「そ。いいわよ、座ってて」
ミラは白衣のポケットに無造作に手を突っ込みながら、ウインクをした。
「あなたが今、ここで手錠もされずに座ってられるのはね――」
親指で、隣の響花を指し示す。
「この子が、上層部に啖呵切ったからよ」
輪廻の瞳が、驚きに見開かれる。
「……え?」
「“この子は関係者です。身元引受人は私。文句あるなら私が相手になる”ってね。……魔導騎士のパートナー特権、フル活用じゃない」
「……余計なこと言わないでよ」
響花は顔を背けたが、その耳は僅かに赤い。
輪廻は、響花に向き直り、震える声で言った。
「……ありがとうございます、響花さん」
「……いいわよ。あんたは、ただの『鍵』じゃない。ハルトが守りたい存在、なんだからね」
「ふふ、素直じゃないわねぇ。素直に友達って、言いなさいよ」
ミラは楽しそうに笑い、そして一瞬で真顔に戻った。
空気が、再び凍りつく。
「――で。本題に入るわよ」
ミラは手にしたタブレット端末を操作し、空中モニターにハルトのバイタルデータを投影した。
そこに映し出された人体図は、素人目に見ても異常な赤色のアラートで埋め尽くされていた。
「ハルトくん。……正直言って、奇跡ね」
ミラは事務的に、しかし隠しきれない深刻さを滲ませて告げる。
「全身の筋繊維はズタズタ。骨には無数のマイクロクラック。内臓も衝撃波でシェイクされたみたいになってる。普通の人間なら、二、三回は死んでお釣りが来るレベルよ」
「……ッ」
「それと、一番の問題はこれ」
ミラがモニターの一点を指差す。首筋のあたりだ。
「灰化。……進んでるわ」
輪廻が、弾かれたように立ち上がった。
「治る、のですか……? その、灰化というのは……」
その問いに、ミラは即答しなかった。
数秒の沈黙。それは、医師としての誠実さと、人間としての情けが葛藤する時間。
やがて、彼女は残酷な真実を口にした。
「現代の医療技術じゃ、無理」
輪廻の喉が引きつり、言葉が出ない。
心臓が、冷たい手で鷲掴みにされたように痛む。
「進行を遅らせることはできる。延命治療も、魔力抑制剤を使えば可能。……でも、“元に戻す”ことはできない。一度灰になった細胞は、二度と蘇らないの」
「……魔導騎士の呪い……」
響花が、ギリと歯を食いしばる。
「彼が戦った相手……『アスタロト』と『アガレス』だったかしら」
ミラは溜息交じりに言った。
「連戦が、ハルトくんの肉体に相当な負荷をかけているわね」
沈黙。
白い廊下が、無限に続く雪原のように感じられた。
彼らは命を削って戦い、その代償として、ゆっくりと死に向かっている。
「当面は絶対安静一択よ」
ミラは厳しい口調で言った。
「次に無理をして戦えば……確実に、寿命のロウソクが燃え尽きるわ」
その言葉は、二人の少女の胸に、重い楔として打ち込まれた。
「――さぁて!」
パンッ! と乾いた拍手の音が、重苦しい空気を吹き飛ばした。
ミラがわざとらしいほど明るい笑顔を見せる。
「湿っぽい話はここまで! ここからは神宮寺ミラ先生プレゼンツ、“治療後恒例・ガールズトーク&メンタルケア”のお時間よ〜!」
「……嫌な予感しかしないんだけど」
響花がソファに深く座り直し、あからさまに警戒の目を向ける。
「だってぇ〜?」
ミラは艶めかしく腰をくねらせ、響花の隣に座り込んだ。
「重傷患者の男子が一人。その手術室の前で待つ美少女が二人。感情が何も動かないほうが不自然でしょ? ねぇ?」
「余計なお世話よ、筋肉ダルマ」
「あら、褒め言葉ありがとう。……で、響花?」
ミラは響花の顔を覗き込む。
「愛しのハルトちゃんが、心配で心配でたまらない〜って顔、してるわよ?」
「っ……!?」
響花は言葉に詰まり、慌てて視線を逸らす。
「……と、当然でしょ。あいつは私の相棒で……それに、今回の件は私の責任もあるし……」
声が、少し上擦っている。
「ハルトは……私が、管理しなきゃいけないんだから」
「ふ〜ん? 管理責任ねぇ〜」
ミラはニヤニヤと笑い、今度は標的を変えた。
「で。そっちの黒髪清楚ちゃん」
「……は、はい!」
輪廻の肩がピクリと跳ねる。
「あなたは?」
ミラは穏やかな声で問う。
「さっきから、ずっと治療室の扉、見てるじゃない。……まるで、祈るみたいに」
輪廻は、頬を染めて俯いた。
「……申し訳、ありません。邪魔をするつもりは……」
「違う違う、責めてるんじゃないの」
ミラは優しく首を振る。
「好きなんでしょ? 彼のことが」
直球の問いかけ。
輪廻の思考が一瞬停止する。
「……っ」
否定の言葉が、喉まで出かかって、消えた。
否定してはいけない気がした。それは、命がけで自分を守ってくれたハルトへの冒涜になる気がしたからだ。
その沈黙を破ったのは、意外な人物だった。
「知ってるわよ」
響花だった。
彼女は腕を組み、不貞腐れたように、けれど真っ直ぐに輪廻を見ていた。
「隠さなくていいわよ。……私たち、ライバルなんでしょ?」
輪廻が顔を上げる。
響花の瞳に、敵意はない。あるのは、同じ痛みを共有する者としての、奇妙な連帯感と、譲れない想い。
「……そう、ですね」
輪廻は、涙を含んだ瞳で、それでも微笑んだ。
「好きになるのは、悪いことじゃないわよ。……むしろ、今のあいつを繋ぎ止める鎖になるなら、一本でも多い方がいい」
「……響花さん」
「はいはい、いい雰囲気〜! 青春ねぇ〜!」
ミラが二人の肩をバンバンと叩く。力加減が強すぎて、響花がむせる。
「ま、私はね」
響花は咳き込みながら、小さく続けた。
「ハルトが無茶するのが腹立つし、見てられないし……正直、私がついてないとすぐ死にそうだから、放っておけないのよ」
そして、輪廻を見る。
「レイジやあの魔人なんかに……あいつを壊させない。あんたも、手伝いなさいよ」
「……はい!」
輪廻は胸に手を当て、力強く頷いた。
「私は……ハルト様が、これ以上傷つくのを見たくありません。彼をお支えします。私の命にかえても」
「……それもまた、重たいけど立派な“愛”ね」
ミラは二人を、慈愛に満ちた(そして少し筋肉質な)眼差しで見つめた。
その時だった。
「……くしゅんっ」
治療室の分厚い扉の奥から、なんとも間の抜けた、小さなくしゃみが微かに聞こえてきた。
「……」
「……」
「……」
三人が同時に沈黙し、顔を見合わせる。
「……ふふっ」
最初に吹き出したのは、輪廻だった。
「……ふふ、あははっ」
つられて、響花も笑い出す。
「なにあのタイミング……バカじゃないの」
ミラも豪快に笑い、二人の背中を叩いた。
「安心して。ハルトくん、自分がこんなドロドロの三角関係の中心にいるなんて未来、1ミリも見えてないから!」
「……でしょうね。あの朴念仁」
響花は呆れたように、しかしどこか嬉しそうに息を吐いた。
「……はい。ハルト様ですから」
輪廻も、目元の涙を拭って頷いた。
白い廊下に、温かな空気が戻る。
外の世界はまだ闇の中。魔導騎士アガレスという脅威は消えておらず、ハルトの身体を蝕む灰化も止まっていない。
けれど、この場所にある絆と、それぞれの胸に灯った決意の火は、決して消えることはないだろう。
「さ、極上のプロテイン入りコーヒーでも淹れてくるわ。……長い夜になりそうだしね」
ミラの言葉に、二人は顔を見合わせ、小さく笑って頷いた。
戦いは終わっていない。だが今はただ、この束の間の安らぎの中で、眠る英雄の目覚めを待つのだ。




