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絶望の縁、災厄は騎士として在る(中編)

廃工場の空気は、鉄錆の臭いと死の予感で重く澱んでいた。


瓦礫の山に沈むハルトとレイジ。己の信念を賭けて戦った二人の騎士は、今や動かぬ鉄屑も同然だった。


その無様な残骸を見下ろし、魔導騎士アガレス――マルファスは、愉悦さえ通り越した退屈さに、深く溜息をつく。


「……さて。次は、貴女ですね」


アガレスの仮面の奥、爬虫類を思わせる冷酷な視線が、瓦礫の陰で震える小さな影を射抜いた。


一歩。巨大な足がコンクリートを踏みしだくたび、廃工場全体が悲鳴を上げ、地震のような振動が輪廻の足元を揺らす。


「っ……!」


後ずさろうとした輪廻の足が、突き出した鉄筋に絡まった。


無様に転倒し、尻もちをついた彼女の上に、漆黒の巨影が覆いかぶさる。


「魔人王様は仰せでした。『鍵は回収せよ。もし傷物になっていた場合は、その場で廃棄しても構わない』と。貴女は少々、人間の垢にまみれすぎたようだ。……残念ですが、廃棄対象ですね」


宣告。アガレスが手にする巨大な岩塊――魔導剣ウァッサゴが、獲物の絶望を吸い上げるように赤黒く脈動し、天高く掲げられた。


それは、抗うことすら許されない絶対的な断頭台の刃。


(嫌……まだ、死にたくない……ハルト様……!)


輪廻は逃げることも忘れ、ただギュッと目を閉じた。


「――させないって、言ってるでしょ……ッ!!」


震えながらも、凛とした拒絶の声が響いた。


ダンッ、ダンッ、ダンッ!!


乾いた銃声が三度。対魔組織が誇る特殊徹甲弾が、アガレスの胸部装甲で激しく火花を散らす。


物理的なダメージは皆無。


だが、その「羽虫」による予期せぬ不遜な抵抗に、アガレスの振り下ろしの軌道がわずかに逸れた。


輪廻が恐る恐る目を開けると、そこにはフラフラになりながらも、対魔拳銃を両手でしっかりと構えた響花が立っていた。


彼女の顔色は青白く、額には脂汗が滲んでいる。


アスタロトから受けた強烈なダメージと、拘束による精神的疲労。


肉体はとっくに限界を超えているはずだが、その双眸だけは、黄金の輝きを失っていなかった。


「響花……さん……」


「……何、ボサっとしてるのよ。……逃げなさい。早く」


響花は吐き捨てるように言うと、さらに一発、銃弾をアガレスのバイザーへと叩き込む。


「ほう……。自ら死地へ舞い戻るとは。人間の執念というものは、実に非効率で、理解に苦しむ」


マルファスの声に、隠しきれない不快感が混じる。


アガレスは邪魔な虫を払うかのように、ウァッサゴを横へと構え直した。


響花は銃を構えたまま、輪廻を背中に庇い、一歩も退かない。


「効率なんて、悪魔に教えてもらう必要はないわ。……ハルトが守ろうとしているものを、私が壊させるわけにいかないのよッ!!」


「そうですか。では、その無益な矜持と共に、塵に還りなさい」


アガレスの腕に魔力が凝縮され、ウァッサゴが音速を超える速度で振り下ろされた。


生身の人間には、回避も、防御も、そして死を自覚することさえ許されない。


「くっ……!!」


響花は輪廻を抱き寄せ、訪れる衝撃に備え――。


『いかん。アストラ・フェンリル! 二人を守るのじゃ!』


レメゲトンの号令により、ハルトの背後の影から、物理法則を無視した爆発的な漆黒の魔力が噴き出した。


闇よりも深く、夜よりも昏い。


その光の中から、一頭の巨大な魔獣が姿を現した。


魔導獣・アストラ・フェンリル。


黒曜石のように磨き上げられた装甲は、廃工場の僅かな光を飲み込み、不気味なまでに滑らかな光沢を放っている。


神話から抜け出したような巨大な狼が、重力を嘲笑う速度で地を蹴った。


ドォォォォォォォォォンッ!!!


空中でウァッサゴが響花たちの頭を割り去る寸前、漆黒の流星となったフェンリルがアガレスの側面に激突した。


黒曜石の装甲と、アガレスの黒金の鎧がぶつかり合い、金属が悲鳴を上げる凄まじい衝撃波が巻き起こる。


「……ぬぅっ!?」


アガレスの巨体が、フェンリルの圧倒的な突進質量によって強引に押し流された。


必殺の一撃は空を切り、響花たちの数センチ横のコンクリートを、巨大なクレーターに変えるに留まった。


着地したフェンリルは、輪廻と響花を守る「絶対の壁」としてその巨体を二人の前に滑り込ませる。


装甲の隙間からは、敵を凍りつかせるような漆黒の冷気が立ち上り、アガレスを鋭く威圧した。


『小僧! 起きろ! このままでは全滅するぞ!』


「ぐっ……ああっ……」


ハルトは意識の混濁と戦いながら、レメゲトンを杖代わりに、泥の中から這い上がった。


視界は真っ赤に染まり、全身の神経が焼き切れるような痛みを訴えている。


だが、守るべき二人の背中が、彼を立ち上がらせた。


「……レメゲトン、もう一回だ。……ブーストを、よこせ」


『承知! 死ぬでないぞ、ハルト!』


ハルトは震える手で、レメゲトンの核へクリムゾンレッドの鍵を突き刺した。


「換装……ッ!!」


ゴエティアの装甲が、死を待つ燻し銀から、命を燃やす真紅の鎧へと瞬時に変化する。


ハルトは、熱を帯びた胸の紋章に、己の意志を叩きつけるように触れた。


《Boost Up》


ドゴォォォォォンッ!!


ゴエティアの全身から、どす黒い赤色の蒸気が爆発した。


限界を超えた加速の負荷が、ハルトの筋肉を、血管を、細胞の一つ一つを内側から引き裂いていく。


だが、彼はその地獄のような激痛を、不屈の意志でねじ伏せた。


「二人とも、掴まれっ!!」


ハルトの姿が、紅蓮の残像と化した。


音速の領域。彼は腰が抜けた輪廻と、限界の響花を両脇に抱え上げた。


そのまま出口へと疾走しようとした、その刹那。


視界の端、崩れかけた瓦礫の山の中で、微かな電気火花が散る。


そこには、半壊し、ピクリとも動かない西園寺レイジ――アスタロトの姿があった。


放置すれば、確実に死ぬ。


(……置いていけ。あいつは、敵だ)


冷徹な計算が脳を過る。


だがーー


ハルトは反射的に、脳内でリンクしているフェンリルへ鋭い思念を飛ばした。


(――フェンリル! あいつも回収しろ! 死なせるなッ!!)


漆黒の魔獣は、主の甘さに呆れるように鼻を鳴らしたが、その命には即座に従った。


フェンリルは跳躍の軌跡をコンマ数秒で変え、アスタロトの首根っこの装甲を強靭な顎でひっ掴むと、そのまま自身の広い背中へと乱暴に放り投げた。


紅蓮の弾丸と、漆黒の魔獣。二つの閃光が、並んで廃工場を駆け抜ける。


「逃しませんよ……」


アガレスがウァッサゴを全速で振るう。


衝撃音。

地面が爆ぜる。

だが、ハルトたちの速度は、既に魔導騎士の「手の届く範囲」を遥か彼方へと置き去りにしていた。


土煙が、ゆっくりと沈殿していく。


標的を見失ったアガレスは、静かに、そして恐ろしいほど無機質に立ち尽くしていた。


「……やれやれ。少しは遊べるかと思いましたが、まさかあのような魔獣まで隠し持っていたとは」


アガレスの重装甲がパージされ、中から仕立ての良い漆黒のスーツを纏ったマルファスの姿が露わになる。


彼は苛立ちを押し殺すように、胸ポケットから取り出した新しい葉巻を口に咥えた。


「ですが……散らかしたまま帰るとは、躾がなっていませんね。……全て、消えてしまいなさい」


マルファスは、吸い始めたばかりの葉巻を床へ投げ捨てると、巨大な魔導剣ウァッサゴを、まるで部屋の掃除でもするかのような、極めて無造作な動作で水平に振り抜いた。


ズンッ……!


それは、物理的な「斬撃」を超越した事象の破壊だった。


切断された空間の歪みが波紋のように伝播し、廃工場を支える巨大な鉄骨の全てが、一瞬にして飴細工のように断ち切られる。


ドォォォォォォォォォォンッ!!!!!


轟音と共に、巨大な工場が自重に耐えきれず、内側から爆発するように崩落を始めた。


数千、数万トンのコンクリートと鉄の塊が、かつて彼らが必死に戦い、呼吸し、守り抜こうとした場所を、容赦なく押し潰していく。


倒壊する工場の中心、土煙が渦巻く奈落の中で、アガレスの姿は闇に溶けるように掻き消えた。


後に残されたのは、立ち昇る巨大なキノコ雲のような埃と、あまりにも残酷な夜の静寂だけだった。

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