絶望の縁、災厄は騎士として在る(前編)
廃工場の空気は、錆びた鉄と、焦げ付いたオイルの臭いで澱んでいた。
ハルトとレイジ。互いの信念を食らい合わせた二人の騎士は、限界を超えた負荷に膝を屈し、荒い呼吸だけを頼りに生をつないでいる。
その姿はまだ、灰銀の騎士ゴエティアと、黒銀の騎士アスタロトの装甲を纏っていたが、その輝きは死にかけていた。
そこへ、一つの足音が割り込んだ。
カツ、カツ、カツ。
それは、高級な革靴がコンクリートの瓦礫を踏みしだく、不愉快なほどに規則正しく、かつ傲慢なリズムだった。
「おやおや……なんと嘆かわしい。二人の騎士がボロ雑巾のように……これではまるで、汚物処理場ではありませんか」
闇の奥から現れたのは、仕立ての良い漆黒のスーツを着崩し、太い葉巻を優雅に燻らせる男――マルファス。
その整った顔立ちには、人間という種そのものを嘲笑するかのような、冷たく、そして絶対的な優越感が張り付いている。
「……マル、ファス……ッ」
アスタロトのバイザー越しに、レイジが憎悪を滲ませる。
「生きていましたか、西園寺レイジ。……いえ、今はただの『廃棄物』とお呼びすべきでしょうか?」
マルファスは、紫煙を吐き出しながら、吸いかけの葉巻を指先で弄ぶ。そして、何の未練もなく、倒れ伏すアスタロトの顔面めがけてポイと投げ捨てた。
ジュッ……。
高熱の灰が装甲の上で爆ぜる。それは、彼らにとっての「命の価値」そのものだった。
「魔人王様もお嘆きですよ。『期待した器が、まさか底の抜けた欠陥品だったとは』とね。……慈悲深き私が、直々に引導を渡しに来て差し上げました」
マルファスはアスタロトの頭部――兜の角を掴んで強引に引き上げると、汚いものを見るような目で見下ろした。
その態度は、絶対的なヒエラルキーの頂点に立つ者が、足元の虫ケラを検分するような残酷さに満ちていた。
「貴方の首を持ち帰れとの仰せですが……ああ、そこの薄汚いネズミもついでに掃除しておきましょうか」
マルファスが、半壊したゴエティア――ハルトの方へ顎をしゃくる。
「……ふざけ、るな……ッ!」
ゴエティアの排熱孔から怒りの蒸気が噴き出す。
アスタロトもまた、屈辱に装甲を軋ませながら、マルファスの手を強引に振り払った。
「僕は……欠陥品じゃない……!! 僕は、選ばれた人間だッ!!」
「薄汚いネズミ……だと?
だったらその口、切り裂いてやる!」
二人の騎士が、同時に吠えた。
「威勢だけは一人前ですね。……よろしい。格の違いというものを、その矮小な魂に刻み込んで差し上げましょう」
マルファスが懐から取り出したのは、禍々しい血管のような装飾が巻き付いた、ドス黒い鍵。
それを虚空に突き刺し、優雅に、しかし深々と捻じ込む。
「――装着」
ズゴォォォォォォォォォンッ!!
廃工場の空気が、質量を持って圧し掛かる。
マルファスを中心に爆発した魔力は、黒いタールのように空間を侵食し、彼の肉体を異形の鎧へと作り変えていく。
顕現したのは、『魔導騎士アガレス』。
黒金の重装甲は、戦車の装甲板を無理やり繋ぎ合わせたかのように分厚く、背中からは白銀の長い鬣が荒々しく吹き荒れている。
そして、その手に握られているのはただの剣ではない。
魔導剣ウァッサゴ。
それは、断崖絶壁の一部を切り出し、無理やり柄を付けたかのような**「巨大な岩塊」**。表面には赤熱する亀裂が走り、生き物のように脈動している。
「さあ、踊りなさい。私の退屈を紛らわせるくらいには、足掻いてみせなさい」
「僕を……見下すなあああッ!!」
先に動いたのはアスタロトだった。
プライドを傷つけられた彼は、ゴエティアとの共闘など微塵も考えず、単身でアガレスへと突っ込む。
脳の血管が切れそうなほどの激痛を抱えながら、それでも《グレモリー》を発動させる。
(視える……! 右からの薙ぎ払い……!)
レイジの脳裏に、数秒先の未来が映る。
アガレスがウァッサゴを右から振るう。それを読んで、懐に潜り込み、装甲の隙間を突く――完璧な『数式』。
だが。
「愚かしい。計算など、絶対的な力の前では児戯に等しい」
ドッゴォォォォォンッ!!
「――は、……?」
アスタロトの思考が真っ白に染まった。
未来予知では、確かに「薙ぎ払い」だった。
しかし、現実は違った。アガレスはウァッサゴを振るう動作の途中で、そのあまりの質量を利して強引に軌道を変え、タックルのように体ごとアスタロトにぶち当たったのだ。
「が、ぁッ……!?」
ダンプカーに正面衝突されたような衝撃。
アスタロトの胸部装甲がひしゃげ、レイジの体はゴミ袋のように宙を舞い、鉄骨に激突して火花を散らした。
「未来が視える? だからどうしました。視えたところで『抗えない』絶望があることを、学びなさい」
「西園寺ッ!?」
ゴエティアが叫ぶ。だが、彼もまた、レイジを助けるために動いたわけではない。
目の前の「悪」が許せない。ただそれだけの怒りで、レイジが吹き飛ばされた隙を突き、死角からレメゲトンを振りかぶる。
「隙だらけだッ!!」
ガギィィィンッ!!
レメゲトンの刃が、アガレスの背中に直撃する――はずだった。
しかし、その刃は、アガレスの背中から伸びる「白銀の鬣」に絡め取られていた。
ただの毛髪ではない。一本一本が鋼鉄のワイヤーのように強靭で、意思を持ってハルトの剣を拘束したのだ。
「おやおや、羽虫が止まりましたか」
アガレスが煩わしそうに裏拳を放つ。
ズバンッ!!
「ぐ、おォッ!?」
ただの裏拳が、攻城兵器のような威力を持っていた。
ゴエティアのヘルメットに亀裂が走り、視界がノイズで埋め尽くされる。地面を無様に転がるハルト。
レイジとハルト。二人は示し合わせたかのようにバラバラに挑み、そして個別に粉砕された。
「ハルト様……っ、やめて……もうやめてッ!!」
輪廻は、瓦礫の陰で口元を押さえ、震えていた。
彼女の視界に映るのは、あまりにも一方的な蹂躙劇。
(私のせいだ。私が『鍵』でなければ。ハルト様があんなに傷つくことはなかった。あの人は、ただの優しい人だったのに……!)
ゴエティアの鎧の隙間から、生々しい鮮血が噴き出すのが見える。
鎧を装着していても分かる。中でハルトの体が悲鳴を上げているのが。
一秒ごとに、ハルトの命が削り取られていく。その音が聞こえるようで、輪廻は耳を塞ぎたくなる。
「逃げて……ハルト様、逃げて……! 私なんか置いて、逃げてくださいッ!!」
輪廻が叫び、半歩、前に出かける。
だが――
その瞬間、彼女は見てしまった。
アガレスの背後。
廃工場の壁際、拘束具に縫い止められ、身動き一つ取れずにいる響花の姿を。
(……違う)
輪廻の喉が、ひくりと鳴る。
(私に…私に出来ることは…)
輪廻は、自分が無力だと自覚している。
だからこそ、今出来ることはーー。
「……っ」
歯を食いしばり、涙を噛み殺す。
そして輪廻は、震える足を響花へと向けた。
輪廻は走った。
アガレスの殺気が支配する戦場の縁を、息を殺してすり抜け、拘束された響花の元へ。
「……輪廻、ちゃん……?」
か細い声。
響花の目に、絶望と諦念が滲んでいる。
「響花さん!大丈夫ですか?今、助けます」
輪廻はあらかじめ持ってきていた、チェーンカッターで響花の拘束を解いた。
「さあ、魔王への反逆の罪……その身で贖っていただきましょうか」
マルファスの冷淡な宣告と共に、巨大な岩塊――ウァッサゴが振り下ろされる。
アスタロトが立ち上がろうとするが、その頭上に容赦のない質量の圧殺が襲いかかった。
ズドンッ!
激震。ウァッサゴの腹で押し潰され、アスタロトの下半身がコンクリートの床に深く埋まる。骨を折るまでもなく、その「重圧」だけで身動きを完全に封じ込めたのだ。
「ぐ、あぁぁぁッ……!!」
「無駄に動かないでください。知性派を気取るなら、己の詰みくらい理解できるでしょう? 貴方の未来に、私の存在という変数は存在しなかった……ただそれだけのことです」
「う、おおおおッ!!」
ゴエティアがボロボロの腕を振り上げ、レメゲトンを振り抜く。
「断ち切る!アッシュ・トウーー」
だが、必殺の刃が届くより早く、アガレスの巨大な手がゴエティアの顔面を鷲掴みにした。
「耳障りですね……。少し、静かに」
ギリ、ギリ、ギリ……。
万力のような握力が、ゴエティアの兜をミシミシと締め上げる。装甲の合わせ目が悲鳴を上げ、火花がハルトの視界を焼く。骨は砕けずとも、脳を直接揺さぶられるような圧迫感がハルトの意識を混濁させた。
「あ、が……っ、あああ……ッ!!」
「ハルト様!! いやぁぁぁぁッ!!」
「ハルトッーー!!」
輪廻と響花の悲鳴は、戦場の轟音にかき消される。
輪廻は自分の無力さを呪った。祈ることしかできない。泣き叫ぶことしかできない。
鋼鉄の英雄たちが、ただの鉄屑に変えられていくのを、特等席で見せつけられている地獄。
「良い悲鳴だ。……さて、西園寺レイジ」
マルファスは、ゴエティアを片手で吊り上げたまま、足元で身動きの取れないアスタロトを見下ろした。
「貴方の計算式に、この『理不尽』は含まれていましたか?」
マルファスは歪んだ笑みを浮かべると、吊り下げたゴエティアを、ただの鈍器としてアスタロトめがけてフルスイングした。
ドゴォォォォォンッ!!!
「が、はッ……!?」
「ぐ、ッ……!!」
灰色の装甲と、黒い装甲が激突する。
互いの肉体は装甲に守られながらも、その衝撃波が内部の臓腑を激しく揺さぶる。
二人は絡み合ったまま吹き飛び、廃工場の巨大なプレス機に叩きつけられた。もはや、どちらがハルトでどちらがレイジかも判別できないほど、無慈悲に積み重なった鉄屑の山となった。




