鏡像の劣等感、銀色の果実は眩しすぎて(中編)
リビングに戻った輪廻の胸中には、静かな、けれど熱い火が灯っていた。
ベランダでハルトに宣言した「もっとちゃんと見てください」という言葉。それを口にした瞬間の全能感は、部屋の空気を吸った瞬間に霧散し、代わりに激しい羞恥心が襲ってきた。
(言ってしまった……あんな、まるで告白みたいなこと!)
だが、止まるわけにはいかない。
ソファに戻ったハルトは、相変わらず響花とタブレットを覗き込みながら「ここの構成、前の内容と同じじゃん」などと親密そうに笑っている。
輪廻はキッチンへ向かい、冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出した。
(……ギャップです。普段は清楚な私が、少しだけ大胆に……!)
彼女はエプロンの紐をわざと少し緩め、肩からずらしてみた。さらには、ハルトにお茶を出す際、ほんの少しだけ屈んで、彼を覗き込むように微笑む。
「ハルト様。あの……お茶が入りました。休憩にしませんか?」
ハルトの視界に、輪廻の白い項と、上目遣いの潤んだ瞳が入り込む。
「あ、ああ、悪いな。……って、輪廻、肩。紐が落ちてるぞ」
ハルトは事もなげに、指先でひょいっとエプロンの紐を直した。
「よし、これで落ちないな」
「…………っ」
全滅。
ハルトの瞳には、色気を感じた動揺など欠片もなかった。あるのは、近所の小さな子供の身だしなみを整えてやるような、純粋な親心だけだ。
「ぷっ……あははは! 輪廻ちゃん、今の作戦は無理があるわよ。この朴念仁に小手先のテクニックは通じないわ」
響花が腹を抱えて笑い飛ばす。その余裕が、輪廻には何よりも惨めだった。
「まあ、男子を黙らせるなら、こういう方が早いわよ」
響花が不敵に笑い、ハルトの肩に回していた腕を、彼の首筋へと這わせた。
「お、おい、響花……!?」
「いいから黙って、私の『分析』を聞きなさいよ。ハ・ル・ト」
響花がハルトの耳元で甘く囁く。それだけではない。
彼女は座り直し、ハルトの太ももに自分の足を絡ませるようにして、正面から彼を押し込めた。
目の前には、暴力的なまでの銀色の高嶺――。
豊かな双丘がハルトの胸板に押し潰され、薄いニット越しにその熱量と弾力が直接伝わる。響花の銀髪がハルトの頬を撫で、甘い香りが彼の理性を削り取る。
「ちょっーーこ、これ……っ、響花……っ!」
ハルトの顔が、一瞬で耳の先まで真っ赤に染まった。
「……なに? 暑いの? 窓、開けてあげようか?」
響花は勝気な瞳に蕩けるような熱を混ぜ、ハルトを見つめる。ハルトは視線をどこにも置けず、泳がせ、喉を鳴らした。
「……っ。もういい、レポートは自分でやる!」
ハルトが堪らず立ち上がり、逃げるように作業部屋へ戻っていく。
その去り際、ハルトが見せた「男としての動揺」を、輪廻は逃さなかった。
(……やっぱり。やっぱり、そうなんだ……)
ハルトは、自分には見せない顔を響花に見せた。
自分には向かない視線を、響花の身体に向けた。
結局のところ、自分は「守るべき無力な子供」でしかなくて、隣に立つ女性として選ばれるのは、あんなにも眩しい響花なのだ。
嫉妬。劣等感。そして、行き場のない孤独。
「……ごめんなさい。少し、風に当たってきます」
「え? 輪廻ちゃん、ちょっと!?」
響花の呼び止める声を振り切り、輪廻はサンダルのまま家を飛び出した。
輪廻が辿り着いたのは、街外れにそびえ立つ、かつての電波塔を改装した展望レクリエーション施設『スカイ・ヴェイル』だった。
地上百五十メートル。
冷たい鉄の格子越しに見下ろす街は、まるで箱庭のようだった。
「……バカみたい」
風が黒髪を乱暴にかき乱す。
頭を冷やすつもりで来たが、高い場所にくればくるほど、自分の存在の小ささが浮き彫りになるだけだった。
近くのベンチには、一組の家族連れが座っていた。
「パパ、見て! お空がオレンジ色だよ!」
「本当だ。綺麗だね、ママ」
「うふふ、来年もまた三人で来ましょうね」
幼い少女の手を引く父親と、穏やかに微笑む母親。
その光景に、輪廻の胸に鋭い痛みが走る。
かつて、自分にもあったはずの記憶。
人間界と魔界の鍵とわかっても、自分を愛してくれた父と母。
(もし……もし私が普通の女の子だったら。ハルト様と、あんな風に笑い合える未来が……あったのかな)
ハルトへの想いが溢れ出す。
命を救われたから。見捨てないでいてくれたから。
最初は感謝だった。けれど今は、彼の隣で、彼と同じ景色を見て、愛されたいと願ってしまう。
それが、どれほど不相応な夢で、どれだけ我が儘だとしても。
「……ハルト様が好き。……でも、苦しいよ……」
涙が零れ落ちる。
その雫が地面に落ちる前に。
世界から、音が消えた。
――キィィィィィィィン!!
鼓膜を突き刺すような高周波。
展望台の強化ガラスが、内側から爆ぜた。
「キャアアアッ!?」
家族連れの叫び。輪廻が目を見開いた先には、大気を切り裂いて現れた「絶望」が浮遊していた。
「……見つけたぞ、神楽輪廻」
歪な鎧を纏い、死臭を漂わせるその男。
かつてハルトによって退けられたはずの魔人――『骸将ジーク』。
彼の周囲には、ゴエティアに破壊された禍々しい紫の魔力を放つ六振りの魔剣が、復活していだ。
「骸将ジーク……っ!? どうしてここに!」
「魔導騎士ごときに屈したまま消えると思うたか? 貴様を殺して、魔導騎士を絶望させてやる!」
ジークが指を弾くと、三振りの魔剣が輪廻へ、残りの三振りが「邪魔な家畜ども」――家族連れへと放たれた。
「やめて!!」
輪廻は咄嗟に駆け出した。
魔剣の一振りが、家族連れの父親の足を裂く。
もう一振りが、母親の肩を貫く。
悲鳴を上げて崩れる両親。
そして、衝撃で展望台の手すりが粉砕され、少女が宙へと放り出された。
「あっ――パパーー!!」
「アイリーー!!」
「くっ!!」
輪廻は必死に飛び込んだ。
魔剣が輪廻の体を裂く。左肩、背中、腰。痛みが走るが、輪廻は右手を伸ばす。
「ぐっ……捕まえた……っ!」
だが、勢いは止まらない。
輪廻の身体は、崩壊した床から外へと投げ出された。
「くっ……あああああッ!!」
左手で、辛うじて残った鉄骨の端を掴む。
右手には、泣きじゃくる小さな少女。
地上百五十メートル。
支えは、指先にかかる僅かな鉄の感触だけ。
「……くっ、ふ、うう……っ」
左肩、背中、腰から血が滴り落ちる。
体重を支える指が裂け、血が鉄骨を濡らす。
「ハルト、様……」
絶体絶命の状況で、脳裏に浮かんだのは愛しい人だった。
だが、目の前には、空中に浮遊するジークが、勝ち誇った笑みを浮かべて六振りの剣をこちらに向けていた。
「無様にぶら下がりおって。そのまま、子供と一緒に堕ちるがいい」
魔剣が、獲物を屠るために切っ先を揃える。
輪廻は少女の手を離さないよう、震える腕に力を込めた。
(まだ……まだ、死ねない。ハルト様に……ごめんなさいって、言ってないんだから……!)
夕焼けの空に、死の刃が振り下ろされる――。




