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鏡像の劣等感、銀色の果実は眩しすぎて(前編)

激闘から数日が過ぎた。

『鋼殻のアイアン・ジェネラル』を撃破したことで、一時的とはいえ、二人には平穏が戻っていた。

だが、それ以上に劇的な変化が訪れていたのは、草薙ハルトの住むアパートの一室だった。


「……ハルト様、お味噌汁の味、濃くなかったですか?」


「いや、美味しいよ。……というか、毎日ありがとう。輪廻が来てから、食生活が劇的に改善されたよ」


朝の柔らかい日差しが差し込むダイニング。

湯気を立てる白米と、出汁の香りが漂う味噌汁。向かいの席には、エプロンをつけた神楽輪廻が、不安そうに、けれど期待を込めた瞳でこちらを見つめている。


艶やかな黒髪を丁寧に編み込み、古風な髪飾りを揺らす彼女は、まさに「深窓の令嬢」といった風情だ。

魔界の鍵、魔獣を呼ぶ厄災。そんな風に呼ばれていた少女が、今はこうしてネギを刻んでいる。


「いえ! わたし、これくらいしかできませんから……! 家事なら任せてください。お掃除も洗濯も、完璧にこなしてみせます!」


輪廻が花が咲くように笑う。

その笑顔を見て、ハルトは少し眩しそうに目を細め、箸を動かした。


奇妙な同棲生活。

名目は「護衛対象の保護」。二十四時間体制で輪廻を守るため、彼女はハルトの部屋で寝起きしている。

本来なら緊張感が支配するはずの空間だが、今のところそこにあるのは、新婚家庭のような甘やかな空気――に見えるものだった。

ただし、一方通行であることを除けば。


「……あ、あの、ハルト様」


「ん? どうした?」


ハルトが顔を上げる。

輪廻は膝の上でぎゅっと拳を握りしめ、意を決して口を開いた。


「きょ、今日は大学、お休みですよね? もしよかったら、その……駅前にできた新しいカフェに……」


精一杯の勇気。顔が熱い。

心臓が早鐘を打っている。


しかし、ハルトは少し申し訳なさそうな顔で、手元のタブレット端末を示した。


「あー……ごめん。今日は一日、家に籠もる予定なんだ」


「え……?」


「教授から鬼のような課題が出ててさ。レポート、週明けまでに仕上げないと単位が危ないんだ」


ハルトの返答は、あまりにも学生らしい、現実的なものだった。

そこには、年頃の男女が一つ屋根の下にいるという意識も、輪廻を異性として意識している素振りも、微塵も感じられない。


「……そう、ですよね。学生さんですものね……ごめんなさい、お邪魔しちゃって」


「いや、謝ることじゃない。レポートが終わったら、必ず連れて行くよ」


ハルトは優しく微笑み、ポンと輪廻の頭に手を置いた。

温かい掌。大きく、頼りがいのある手。

その感触に、輪廻の心臓は再び跳ね上がる。


(……子ども扱い、しないでください……っ)

触れられるだけで、こんなにも熱くなるのに。

目の前の青年は、ただ「守るべき対象」として頭を撫でているだけ。

その事実が、輪廻の胸をチクリと刺した。


***


ハルトがレポート作成のために自室(作業部屋)に籠もった後。

輪廻は一人、洗面台の鏡の前に立っていた。


「はぁ……」


溜息が、鏡面を白く曇らせる。

そこには、黒髪の少女が映っていた。

自分で言うのもなんだが、顔立ちが悪いとは思わない。

切り揃えられた前髪。意志の強さと儚さが同居する大きな瞳。肌は白く、キメも細かい。かつて逃亡生活の中で「人形のように綺麗だ」と言われたこともあった。


「顔は……うん、悪くないと思う……たぶん」


鏡に向かって、少しだけ首を傾げてみる。

口角を上げて、微笑みの練習。「ハルト様」と呼ぶ時の角度。

客観的に見ても、自分は「可憐」の部類に入ると信じたい。


だが。

輪廻の視線が、ゆっくりと下へ移動する。

華奢な鎖骨。その下にある、慎ましやかな膨らみ。


「…………」


絶望的な沈黙が、洗面所を支配した。

輪廻は自分の胸元に手を当て、次に、脳裏に焼き付いている「あの人」の姿を思い浮かべた。


日下部 響花。

ハルトの幼馴染であり、頼れる戦友。

そして、輪廻にとっての最大の壁。


彼女の姿を思い出すだけで、輪廻の自信は粉々に砕け散る。

銀色の髪。鋭くも魅力的な猫のような瞳。

そして何より――あの、暴力的なまでのスタイル。


(……勝てない。どう考えても、物理的に勝てない……ッ!)


響花の戦闘スーツ姿が脳裏にフラッシュバックする。

大胆に開いた胸元。豊満でありながら重力を感じさせない、圧倒的な質量。細く引き締まったウエストとの対比が、彼女のプロポーションをより人外の域へと押し上げている。


ハルトは、あんなに凄いスタイルの人と、ずっと一緒にいたのだ。

幼馴染という絶対的な時間。

背中を預け合う信頼関係。

それに――響花のハルトを見る目。

輪廻には分かる。あれは、ただの幼馴染に向ける目じゃない。

獲物を狙う雌豹のような、あるいは大切な宝物を誰にも触らせたくないような、強い独占欲。


「……ハルト様も、やっぱりああいうのが……好きなのかな」


鏡の中の自分が、急に幼く、貧相に見えてくる。

和風で清楚? 言葉はいいけれど、響花の隣に並べば、ただの「地味な子供」ではないか。

輪廻は服の上から自分の身体を抱きしめた。

守られているだけ。助けられているだけ。

女としての魅力でも負けているとしたら――私には、何が残るのだろう?


「……鍵、だもんね。わたしは」


ポツリと漏れた言葉は、誰に届くこともなく、換気扇の音に吸い込まれていった。


***


「おっじゃましまーす! ハル……って、あれ?」


その日の午後。

輪廻の劣等感を具現化したような人物が、なんの遠慮もなく玄関のドアを開けた。

日下部響花だ。


彼女はリビングに入るなり、鼻をひくつかせた。

漂う生活感。丁寧に畳まれた洗濯物。

そして、キッチンに立つエプロン姿の輪廻。


「…………へぇ」


響花の目が、一瞬だけ鋭く細められたのを、輪廻は見逃さなかった。

それは、自分の縄張りに異物が混入しているのを不快に思う、捕食者の目だった。


「あ、響花さん! こんにちは」


「こんにちは、輪廻ちゃん。……ふーん、すっかり奥さん気取りってわけね」


「えっ!? い、いえ、そんな! わたしはただ、置いてもらっている身なので、せめてものお礼を……」


「冗談よ、冗談。顔真っ赤にして、可愛いんだから」


響花はそう言って笑ったが、その瞳の奥は笑っていなかった。

今日の彼女は非番なのか、ラフな私服姿だった。だが、それが余計に彼女の「武器」を強調していた。

身体のラインが露骨に出る、薄手のニット。

その胸元は、布地が悲鳴を上げんばかりに主張している。

ショートパンツから伸びる太ももは健康的で、動くたびに甘い香水の香りが漂う。


輪廻はお茶を運びながら、思わず自分の胸元をトレイで隠してしまった。

そこへ、作業部屋から疲れ切った顔のハルトが出てきた。


「……なんだ響花か。チャイムくらい鳴らせよ」


「何よその態度。せっかく差し入れ持ってきてあげたのに。ほら、駅前の限定シュークリーム」


「マジか、助かる。糖分が切れて頭が回らなかったんだ」


ハルトの表情が少し緩む。

響花は当然のようにソファに座り、その横――ハルトのパーソナルスペースの内側に滑り込んだ。


「で? まだあのクソ面倒なレポートやってんの?」


「ああ。参考文献が足りなくて詰んでる」


「貸してごらん。……あー、これね。私が手伝ってあげようか?」


響花はそう言いながら、ハルトの持つタブレットを覗き込む。


「!!」


輪廻が息を呑む。

近い。近すぎる。

覗き込む体勢になった響花の豊満な胸部が、ハルトの二の腕に、むにゅりと押し付けられている。


(……当たってる。絶対、当たってる……!)


柔らかそうな弾力が、ハルトの腕の形に合わせて変形しているのが見て取れる。

これは事故ではない。

響花は分かってやっている。

輪廻に見せつけるように、ハルトの腕に自分の身体を密着させ、親密さを誇示しているのだ。


「……おい響花、近い」


「んー? 何か言った? ここ、この数式間違ってるわよ」


ハルトが僅かに身じろぎするが、響花は離れない。

むしろ、さらに体重を預ける。

ハルトも「やれやれ」といった顔で、それを拒絶はしない。

その慣れ親しんだ距離感が、二人の間にある「異性としての強固な繋がり」を見せつけられているようで、輪廻の胸をえぐる。


「……さすが響花、助かる。お前、意外と頭いいよな」


「一言多いのよ。……ま、ハルトのためなら、これくらい見てあげるわよ」


響花が上目遣いでハルトを見て、悪戯っぽく微笑む。

その表情は、幼馴染のそれではなく、完全に「女」の顔だった。

圧倒的な光。

太陽のような響花と、その隣で翻弄されながらも満更でもないハルト。

自分が入る隙間なんて、1ミリもない。


輪廻は、キッチンカウンターの影で、自分の服の裾をギュッと握りしめた。


「……わたし、お洗濯物……取り込んできます」


震える声でそう告げると、二人の返事も待たずに、輪廻はベランダへと逃げ出した。


***


春の風が、熱くなった輪廻の頬を冷やす。

ベランダの手すりに寄りかかり、輪廻は街の景色をぼんやりと眺めていた。

リビングからは、ハルトと響花の話し声が漏れてくる。

あんなに密着して、あんなに楽しそうで。


「……ハルト様も、やっぱり男の人なんだ」


言葉にすると、胸が張り裂けそうになった。

当然だ。

あんなに魅力的で、あんなにスタイルの良い女性が、あんなに無防備に迫ってくるのだ。

ハルトが響花を好きにならない理由がない。


対して、自分はどうか。

ただ守られるだけの「お荷物」。

顔が少し整っているだけの、呪われた「鍵」。

ハルトが自分に優しくするのは、それが庇護対象だから。

自分への視線は、庇護対象に向ける慈愛であって、女性に向ける熱情ではない。


「……魅力、ないのかなぁ」


輪廻は自身の胸元を、悲しげに見下ろした。

もしも。

もしも自分が、響花のようなグラマラスな身体だったら。

ハルトはもっと、自分を見てくれただろうか。

「子供」ではなく、「一人の女性」として意識してくれただろうか。


「……強くなりたい」


守られるだけじゃ嫌だ。

ただの「鍵」で終わりたくない。

ハルト様の隣に立っても恥ずかしくない、彼をドキドキさせられるような、そんな「私」になりたい。


その時。

背後の窓が開き、ハルトが顔を出した。


「輪廻? どうかしたか?」


「っ!? ハルト様……」


慌てて涙を拭い、振り返る。

ハルトは少し困ったような顔で、輪廻に歩み寄った。


「響花がシュークリーム、食べないのかって。……顔色が悪いぞ、冷えたんじゃないか?」


ハルトが自然な動作で、自分の着ていたカーディガンを脱ぎ、輪廻の肩にかけた。

ふわりと、ハルトの匂いが包み込む。

その優しさが、今は何よりも残酷で、そして嬉しかった。


「……ハルト様は、優しいですね」


「そんなことないよ」


「……響花さんにも、こうするんですか?」


思わず、口をついて出た問い。

ハルトはきょとんとして、それから苦笑した。


「響花にか? まさか。あいつにこんなことしたら『子供扱いするな、軟弱者』って逆に怒られるよ。あいつは強いからな」


「…………」


それはつまり、自分は「弱くて、子供扱いしてもいい相手」だということだ。

響花は対等なパートナー。自分は守られるべき子供。

その線引きが、明確にされた気がした。

輪廻の中で、何かがプツリと切れる音がした。


「……わたしだって……」


「え?」


「わたしだって……子供扱いされたら、嫌です」


輪廻は、肩にかけられたカーディガンを強く握りしめ、ハルトを真っ直ぐに見上げた。

潤んだ瞳。けれどそこには、今まで見せたことのない、強い意志の光が宿っていた。


「ハルト様。……わたしのこと、もっとちゃんと、見てください」


「輪廻……?」


いつもの儚げな少女ではない。

一人の女性としての、必死な訴え。

その迫力に、ハルトは言葉を失い、初めて輪廻という存在にドギマギとしたものを感じた。


「わたしは……ただ守られているだけの、お人形じゃありませんから!」


ハルトが呆気にとられている間に、輪廻はすり抜けるように部屋へと戻っていく。

その背中は、ほんの少しだけ、今までよりも大きく見えた。

リビングでは、余裕の笑みを浮かべた銀髪のライバルが待ち構えている。

戦いは、魔獣相手だけではない。

ここからが、神楽輪廻の本当の「戦場」なのだ。

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