長雨の終わる刻、鋼鉄の凱歌(後編)
「ハァ、ハァ……っ! くそ、行き止まりかよ!」
草薙ハルトは、背後の少女を庇うように腕を広げ、異形と対峙した。
雨上がりのアスファルトの匂いと、魔獣が放つ腐った臓腑のような悪臭が混じり合い、胃の奥がひっくり返りそうになる。
魔獣は、ギョロリとした爬虫類の目で二人を品定めし、長い舌で舌なめずりをした。
背後は、廃棄された旧校舎の壁。
――逃げ場は、ない。
「……無理、です。一般人の方を巻き込むわけには……。あなただけでも、逃げて……」
ハルトの背中に、温かく、けれど小刻みに震える感触が伝わる。
恐怖に染まった声。それでも、他人を気遣う芯の強さ。
その一言が、ハルトの腹の底にあった導火線に火をつけた。
「嫌だね!」
吠えるように叫ぶ。
「ここで女の子一人置いて逃げたら、俺の人生は一生後悔で塗り潰される!
俺は――あんたを、見捨てない!!」
だが、丸腰で勝てる相手ではない。
視線が、無意識に地面へ落ちる。
そこに――それはあった。
赤錆の浮いた、鉄塊のような大剣。
数日前、骨董品屋の軒先で「ガラクタ」として売られていた代物。
なぜか目が離せず、衝動買いしてしまった。
(なんで、今なんだよ……)
半ばヤケクソで柄を握る。
ズシリ、と鉛のような重さが腕にのしかかった。
『ほう……。「見捨てない」、か』
不意に、頭蓋骨の内側に直接響くような、低く重厚な声。
「……え?」
『ここだ、小僧。貴様が握っている』
剣の柄に施された黄金の髑髏が、ニヤリと嗤った――気がした。
「しゃ、喋った!? この剣、生きてるのか!?」
『我が名は、魔導剣レメゲトン。
永き眠りについていたが……貴様の魂の熱にあてられて、目が覚めた』
状況を理解する暇はない。
魔獣が痺れを切らし、巨大な顎を開いて飛びかかってくる。
『死にたくなければ、そのポケットの中の「鍵」を回せ! 契約だ!』
「鍵!? 何言って――」
反射的にポケットへ手を突っ込む。
そこには、見覚えのない、凍えるほど冷たい鉄の鍵があった。
ドクン、ドクンと、心臓のように脈打っている。
導かれるように、ハルトは大剣の鍔にある隠された鍵穴へ、それを差し込んだ。
「……わかんねぇけど! これしかないなら、やってやる!!」
鍵を回した瞬間。
――ガキンッ! ゴゴゴゴゴ……ッ!!
城門の錠をこじ開けるような、重厚な金属音。
ハルトの足元から、螺旋を描く篝火のような炎が噴き上がった。
舞い散る灰が体に吸着し、鋼鉄の音を立てて固まっていく。
炎の中から現れたのは、現代のヒーローではない。
戦火を潜り抜けた、燻し銀の甲冑騎士。
兜の奥で、熾火のような紅い瞳が灯った。
『契約完了だ。我が主――魔導騎士ゴエティアよ』
「……これが、俺の……力……」
一歩踏み出す。
重たいはずの鎧が、嘘のように馴染む。
視界は冴え渡り、魔獣の動きが泥のように遅く見えた。
「グルルルァァァァッ!!」
――その咆哮は、怒りではない。
恐怖だった。
魔獣は最後の賭けに出る。
全身を泥の弾丸に変え、一直線に突進してきた。
「ダメ――ッ!!」
背中に届く悲鳴。
その瞬間、ハルトの中で何かが完全に切れた。
(正義とか……綺麗事とか……)
(――関係ない)
(こいつを、ここで終わらせる)
『……よかろう』
レメゲトンが、愉悦を孕んで嗤う。
剣の表面に、灰色の炎が灯った。
燃えているのに、熱はない。
いや――熱すぎて、感覚が壊れている。
灰の炎が、腕を、肩を、胸を這い上がる。
魂を直接掴まれるような感覚。
『その技は、剣ではない』
『存在を、終わらせる力だ』
「……ああ」
ハルトは剣を構えた。
生まれて初めて、自分の意思で“消す”覚悟を決める。
「なら――」
魔獣が、眼前に迫る。
「――全部、灰に還れ」
⸻
「――アッシュ・トウ・アッシュ!!」
⸻
世界が、沈黙した。
振り下ろされた剣は、触れていない。
だが次の瞬間――
ズ、ズズズズ……ッ
魔獣の体表から、灰が剥がれ落ちていく。
悲鳴はない。
肉体も、魔力も、存在の輪郭そのものが、静かに崩壊していく。
数秒後。
そこにあったはずの魔獣は、最初から存在しなかったかのように消えていた。
残ったのは、一握りの灰だけ。
静寂。
雨粒が、再びアスファルトを叩き始める。
ハルトの膝が崩れた。
(……まずい)
皮膚の一部が、灰色に変色している。
『代償だ、小僧』
『奥義を使った。貴様の“人間としての時間”は、確かに削れた』
「……それでも」
ハルトは、少女を見る。
「……守れたなら、安いもんだ」
装甲が砕け、粒子となって消える。
生身の体が、地面に倒れ込んだ。
「大丈夫ですか!?」
抱き起こされる腕の中で、彼は微かに笑った。
「……たぶんさ……これ、ヤバい力だな……」
『理解しているなら、上出来だ』
『アッシュ・トウ・アッシュは奥義』
『使い続ければ、貴様は本当に“灰”になる』
雨が、灰を洗い流すように降り続く。
これが、平凡な青年と、魔界の巫女の、世界を灰にする戦いの始まりだった。




