陽だまりのショッパー、鋼殻の執行者(前編)
朝日が差し込む洗面所。ハルトは鏡の前で、自分の左腕をじっと見つめていた。
かつて肘を越え、魂そのものを削り落とさんとしていた燻し銀のひび割れ――「灰化」の徴。それは今、手首のあたりで鋭い刻印のように留まり、脈動を静めている。
(……止まっている。いや、馴染んでいるのか)
精神世界で己の恐怖を斬り伏せ、位階を上げた成果。
だが、それは完治ではない。ゴエティアという禁忌の力が求める莫大な『代償』――魂を喰らうその渇きを、拡張した己の「器」で無理やりねじ伏せ、均衡を保っているに過ぎない。
指先を動かす。感覚はある。鋼のような冷たさは消え、人間らしい温かさがそこには戻っていた。
「ハルト様? まだ時間がかかりますか?」
ドア越しに響く、鈴を転がすような輪廻の声。ハルトは慌てて袖を下ろし、顔を洗って扉を開けた。そこには、看病の疲れなど微塵も見せず、春の陽だまりのような微笑みを湛えた輪廻が立っていた。
「あ……いや、なんでもない。今行くよ」
「顔色、良くなりましたね。……本当に、良かったです」
輪廻の瞳が、僅かに潤む。彼女にとって、ハルトが目覚め、こうして歩いているという事実は、神の奇跡にも等しいものだった。その熱っぽい視線に、ハルトは少し照れくさそうに鼻の頭を掻いた。
「ほら、いつまで見つめ合ってるのよ。置いていくわよ!」
玄関先で車のキーを指先で回しているのは、響花だ。
今日の彼女は、戦場の「鉄の乙女」ではない。タイトなブラックのスキニーパンツに、オフショルダーの白いニット。銀色のボブカットが、爽やかな風に跳ねている。
「響花、その格好……」
「……何よ。文句ある? たまにはこういう服着ないと、カビが生えちゃうでしょ。行くわよ、ショッピングモール。あんたのボロボロになった服、全部新調してあげるから」
響花はぶっきらぼうに言い放つが、その耳たぶは僅かに赤い。
訪れた大型ショッピングモールは、眩いばかりの「日常」に満ちていた。
色とりどりのショーウィンドウ、ポップなBGM、焼き立てのクレープの甘い匂い。
魔物と血の臭いにまみれた裏側の世界から来た三人にとって、そこはあまりにも無防備で、壊れやすく、そして美しい、異界の楽園だった。
「わぁ……! ハルト様、見てください、あの大きなぬいぐるみ! あれ、響花さんが戦ったデビル・ベアに……やっぱり、なんでもありません!」
「こら輪廻、街中で魔物の名前出すなよ」
ハルトは苦笑しながら、はしゃぐ輪廻の背を追う。
一方の響花は、ハルトの腕をさりげなく取り、自分の方へ引き寄せた。
「ちょっと、迷子にならないでよね。あんた、放っておくとすぐどっか行っちゃうんだから」
「子供じゃないんだからさ……」
「いいから。……ほら、あのお店、良さそうじゃない」
響花が指差したのは、洗練されたセレクトショップ。
そこからの数時間は、ハルトにとってある種の戦場だった。
「これなんかどう? ハルト様、絶対に似合います!」
「ダメよ輪廻、それは甘すぎ。こっちのダークトーンのジャケットの方が、こいつの『燻し銀』っぽさが引き立つわ」
次々と押し付けられる試着用の服。鏡の前で戸惑うハルトを見て、二人の少女は顔を見合わせ、悪戯っぽく笑い合う。
戦いの中では見ることのできない、年相応の少女の笑顔。
ハルトはその光景を、何よりも守りたい宝物のように感じていた。
「……ハルト、ありがとね。今日、付き合ってくれて」
ふとした合間に、響花が小さく囁く。
「いや、俺の方こそ。……楽しかったよ、すごく」
三人の間に流れる、穏やかで甘い空気。
だが、運命の歯車は、そんな幸福な一幕を嘲笑うかのように、静かに、そして重厚に回転を始めていた。
「あ、響花の車の中に、お茶を置き忘れたみたいだ。取ってくるよ」
「え? 一緒に行くわよ」
「いいよ、二人ともクレープ食べて待っててくれ。地下駐車場まで往復するだけだ、すぐ戻る」
ハルトは二人の制止を軽く手で制し、賑やかなフロアを後にした。
エスカレーターを下るにつれ、喧騒が遠のいていく。
一階、そして地下へ。
扉が開いた瞬間、空気の温度が数度下がったような錯覚に陥った。
地下駐車場。
コンクリートの無機質な空間に、等間隔に配置された蛍光灯が、不規則な瞬きを繰り返している。排気ガスの残り香と、どこか湿った錆の匂い。
ハルトは響花の車の前まで辿り着き、助手席からお茶を回収した。
「……よし」
戻ろうとした、その時だ。
ハルトの背筋に、氷の刃を押し当てられたような鋭い悪寒が走った。
位階を上げたことで進化した騎士の直感――「不純物」を嗅ぎ分ける本能が、最大級の警戒を告げている。
「……誰だ」
ハルトが暗がりに視線を向けると、駐車場の奥から「音」が聞こえてきた。
――ガシャン。ガシャン。ガシャン。
それは足音と呼ぶにはあまりに重く、機械的。
巨大なプレス機が地面を叩いているような、物理的な圧力を伴う振動。
そこから姿を現したのは、人の形をしていながら、血の通った温もりを一切拒絶した異形の騎士だった。
全身を、鈍色の極厚装甲で塗り潰している。
継ぎ目からは、高圧の蒸気のような魔力が絶え間なく噴出し、アスファルトを白く染める。その手に握られているのは、ハルトの身の丈ほどもある、巨大な鋼鉄の戦鎚。
『――ゴエティアの器確認。鍵の巫女を渡せ』
無機質な合成音声が、コンクリートの空間に反響する。
「っ!魔物か!」
ハルトは即座にレメゲトンを顕現化する。
「装着」
鍵を回すと、虚空から溢れ出した燻し銀の光が、ハルトの全身を覆う。
進化した『ゴエティア』の装甲が展開され、地下駐車場に鋭い圧が渦巻いた。
『我は、因果の法を執行する者。……「鋼殻の将」と呼べ』
鋼殻の将が、無造作にその巨大な戦鎚を振り上げた。
ハルトは精神世界で培った「最小の回避」を試みる。敵が振り下ろす瞬間に合わせ、僅かに重心をずらす。
だが。
ドォォォォォンッ!!
「っ……がはっ……!?」
いなしたはずだった。
しかし、衝撃は空間そのものを伝わり、ハルトの装甲を透過して内臓を直接叩き潰した。
ハルトの身体は木の葉のように吹き飛ばされ、駐車場の太い支柱に激突した。背骨が悲鳴を上げ、視界が真っ赤に染まる。
(……なんて、重さだ。攻撃そのものが、鉄の塊みたいだ……!)
「ふざけるな……。せっかくの休日を、台無しにされてたまるか!」
ハルトは吐血を拭い、立ち上がる。
右手の長剣に、「終焉の力」を収束させる。
デビル・ベアの存在そのものを消し去った、絶対的な一撃。
「――アッシュ・トウ・アッシュ!!」
放たれた灰色の閃光が、鋼殻の将の胸部を直撃した。
あらゆる物質を灰へと還し、体組織を崩壊させる断罪の光。
だが。
光が晴れた後にハルトが見たのは、絶望の風景だった。
鋼殻の将は、傷一つ付いていない鈍色の装甲を軋ませ、平然と歩みを続けていた。
いや、それどころか、ハルトの放った「灰」の力が、その装甲に触れた瞬間に「無効化」され、霧散していくのが見えた。
『――無駄だ。我が「鋼殻」は、概念的な崩壊すらも受け付けぬ「絶対不変」の理。……貴様の脆弱な灰では、煤一つ付けられん』
「アッシュ・トウ・アッシュが……効かない……!?」
ハルトの目の前で、再び巨大な鋼鉄の塊が振り上げられる。
背後には、大切な二人が待つ幸せな喧騒。
目の前には、すべてを粉砕する不滅の巨人。
地下駐車場の冷たい空気の中で、ハルトはかつてない窮地に立たされていた。




