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鴉の慟哭、獣の残響(後編)

死の香りが、すぐそこまで迫っていた。


銀色の粘液が滴る、デビル・ベアの巨大なあぎと。剥き出しの牙が月光を反射し、響花の視界を埋め尽くす。彼女の鼻腔を突くのは、生命を冒涜するような腐敗臭と、寄生種が放つ不気味な熱気だった。


(……ああ。結局、私、あいつに何も伝えられなかったな)


走馬灯のように、眠るハルトの穏やかな横顔が脳裏を過る。


響花は静かに瞳を閉じた。エージェントとしての矜持、一人の女性としての未練。そのすべてが、次の瞬間に訪れる「肉体の粉砕」によって消え去ることを覚悟した――。


だが、その瞬間。


夜の静寂を切り裂き、天から「紫の雷鳴」が降り注いだ。


「――そこを、退けッ!!!」


鼓膜を震わせる咆吼。


直後、響花の眼前で爆発的な衝撃波が吹き荒れた。


突如として天から飛来した黒曜石の巨躯――**魔導獣アストラ・フェンリルが、超高速の体当たりでデビル・ベアの横面に激突したのだ。


ドォォォォンッ!!


極限まで加速して放たれた一撃。


寄生によって岩石のような硬度を得ていたデビル・ベアの巨体が、まるで紙屑のように吹き飛ばされ、数十メートル先の岩盤へと叩きつけられた。激突の衝撃で巨木がへし折れ、土煙が霧を追い散らす。


「なっ……何、が……」


響花が呆然と目を開けると、そこには、立ち込める霧を切り裂いて着地する「彼」の背中があった。


「……悪い、遅くなった」


「ハルト……? あんた、起きたの……!? それに、その姿……」


響花の瞳が驚愕に揺れる。


そこに立っていたのは、数日前まで灰化に蝕まれ、死の淵を彷徨っていた少年ではなかった。


ハルトが纏う『燻し銀のゴエティア』**は、その姿を劇的に変貌させていた。


かつての武骨で重厚な装甲は、より緻密で、人体の構造に最適化された流線型の形状へと再構成されている。装甲の継ぎ目からは、精神世界での覚醒を象徴するような鋭い輝きが漏れ出し、周囲の空気を物理的に震わせていた。


それは、魂の位階ランクを上げた者だけが到達できる、真の「騎士」の器。


ハルトはフェンリルの背から静かに降り、右手を虚空に翳した。


「……フェンリル、あいつの退路を断て。……こいつは

俺がやる。来い、レメゲトン」


呼応するように、ハルトの手中に燻し銀の長剣が顕現する。以前よりも鋭利に、そして冷徹な魔力を帯びたその刃は、月光を吸い込んで鈍く光った。


岩盤から這い出したデビル・ベアが、怒り狂って咆哮を上げた。


その筋肉はさらに膨張し、背中から生えた銀の棘が針千本のように逆立った。魔獣は地面を抉り、弾丸のような速度でハルトへと突進する。


「ハルト、避けて! そいつの装甲、普通じゃないわ!」


響花の叫びを背に、ハルトは静かに剣を構えた。


だが、その構えには一切の力みがない。ただ自然に、そこに立っているだけのような、隙だらけにも見える佇まい。


デビル・ベアの剛腕が、ハルトの頭上へ振り下ろされる。


直撃すれば、鋼鉄の防壁すら一撃で粉砕する暴力の奔流。


だが、ハルトは動かなかった。


拳が彼の鼻先を掠めるコンマ数秒前。ハルトはわずか数センチ、最小限の重心移動だけでその一撃をいなした。


(……見える。どこに力が集まり、どこから崩れるか。すべてが、手に取るように)


精神世界で「灰の騎士」と切り結んだ経験が、彼の五感を研ぎ澄ませていた。


大振りになったデビル・ベアの脇腹へ、ハルトは無造作に剣を突き出した。


力任せの斬撃ではない。相手の突進する勢いを、そのまま刃の切っ先に収束させる――。


――キィィィィィィィン!!


硬質な不協和音が響く。


響花があれほど苦戦した魔獣の生体装甲が、ハルトの振るった刃の前には、まるで脆いガラス細工のように切り裂かれた。銀色の粘液が夜空に舞い、魔獣の悲鳴が山々に木霊する。


「ガァァァァァッ!?」


魔獣は信じられないと言わんばかりに、巨体を反転させて再び襲いかかる。


爪、牙、そして背中から射出される銀の棘。


だが、ハルトの動きには一切の無駄がなかった。


跳ぶ必要さえない。首を傾け、肩を回し、流れるような歩法で死の雨を潜り抜ける。


「……すごい」


響花は、その光景に目を奪われていた。


それは戦闘というよりも、完成された「演武」に近い。ハルトの振るう剣は、常に魔獣の攻撃の「起こり」を叩き、その重心を完璧に制御していた。


デビル・ベアが体勢を崩し、大きく前のめりになった。


勝機。


ハルトは長剣を正眼に構え、体内の熱量を剣身へと注ぎ込む。


デビル・ベアは、最後の本能を振り絞り、自身の肉体を限界まで肥大化させた。


全身の銀色の棘が不気味に脈動し、触手が触れるものすべてを侵食しようとうごめく。


ハルトは静かに一歩、踏み込んだ。


「灰に還れーーアッシュ・トウ・アッシュ!」


ハルトが剣を振り下ろした瞬間、世界から音が消えた。


剣筋に沿って放たれたのは、灰色の閃光。


それは物理的に肉を斬るのではなく、対象を構成する存在そのものを根源へと還す、終焉の一撃。


閃光がデビル・ベアの巨体を飲み込んだ。


銀色の粘液は瞬時に乾燥し、肥大化した筋肉は砂のように崩れ落ちていく。


咆哮を上げる暇さえなく、一頭の魔獣と、それに寄生していた悍ましい種は、その場から跡形もなく消滅した。


後に残ったのは、元の静かな山の一部だったはずの、動かなくなった一頭の老いた熊の死骸と、静かに舞い落ちる青白い光の残滓だけだった。


静寂が戻った山嶺。


ハルトは静かに剣を納め、鎧を解除した。


その顔には、かつての幼さは消え、どこか峻烈な騎士の影が宿っている。


「……大丈夫か、響花」


ハルトが歩み寄り、腰を抜かしたまま座り込んでいた響花に手を差し伸べる。


響花は、その掌の温かさを感じた瞬間、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れた。


「……あんた……本当に、バカなんだから」


響花は差し出された手を取らず、そのままハルトの胸元に顔を埋めた。


震える肩、伝わってくる彼女の体温。


彼女はエージェントとしてではなく、一人の女性として、死の恐怖から解放された安堵と、自分を救ってくれた「英雄」への想いに身を任せた。


「響花……?」


「うるさい。少し、このままでいなさい……死ぬかと思ったんだから」


響花の声は微かに震えていた。


ハルトは少し困ったような顔をしたが、やがて優しく彼女の背中に手を回した。


傍らでは、アストラ・フェンリルが満足げに鼻を鳴らし、主たちを月明かりの下で見守っている。


霧は完全に晴れ、空には満月が輝いていた。


不純物が取り除かれた山には、再び清浄な風が吹き抜ける。


「……帰ろう。輪廻が、首を長くして待ってる」


「……そうね。あの子には、たっぷり自慢してやるわ。あんたのこの、ペットの話もね」


響花は強がりを言うように笑い、ハルトの肩を借りて立ち上がった。


ハルトはフェンリルを撫で、再びその背に跨る。


響花を自分の前に座らせ、彼女の身体をしっかりと支えた。


「帰ろう、フェンリル」


魔導獣が夜空へ向かって再び跳躍する。


星を喰らう狼は、二人の絆を乗せて、安らぎの待つ家へと、紫の軌跡を描きながら疾走していった。

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