幕間:星を喰らう狼と、深淵の盟約
窓の外では、山々を覆うのと同じ厚い雲が、月光をぼんやりと遮っていた。
カーテンの隙間から漏れる淡い光が、ベッドに横たわるハルトの横顔を照らし出す。その肌は、数日前の決戦以来、不気味なほどに白い。否、それは白というより、熱を失った「灰」の質感に近づきつつあった。
傍らに座る輪廻は、ハルトの手を両手で包み込むように握りしめていた。
かつては温かかったその掌は、今や冬の夜の石像のように冷え切っている。彼女は温め直したばかりの濡れタオルで、彼の額に浮き出た冷や汗を、壊れ物を扱うような手つきで拭った。
「……ハルト様。聞こえていますか……?」
輪廻の囁きは、空気中に溶けて消えるほどに儚い。
彼女の瞳には、深い愛おしさと、それと同等の、底の見えない「恐怖」が揺らめいていた。
ハルトの寝顔は、驚くほど穏やかだ。戦いの中で見せる、あの燻し銀の決意に満ちた表情とは違う、年相応の青年の顔。その睫毛が僅かに震えるたび、輪廻の心臓は締め付けられる。
もしこのまま、この人が冷たい灰になって、風に解けて消えてしまったら。
もし次に目を開けたとき、その瞳から自分の記憶が失われていたら。
「……行かないで。私を、一人にしないでください……」
輪廻はハルトの手を自分の頬に寄せ、縋り付くように目を閉じた。
彼女にとってハルトは、地獄のような日々から救い出してくれた唯一の光だ。その光が今、過酷な代償――「灰化」という名の呪いによって、指の間から溢れる砂のように消えようとしている。
彼女は、無力な自身のことを、呪わしく思わずにはいられなかった。
一方、ハルトの意識は、肉体の檻を抜け出し、果てしない「深層世界」へと潜行していた。
そこは、音も光も、時間の概念すらも希薄な場所だった。
一歩踏み出すたびに、灰が音もなく舞い上がり、ハルトの脚を侵食するように纏わりつく。見上げれば、空は重く垂れ込めた鉛色。そこから降っているのは、雪ではなく、絶え間なく降り注ぐ灰の粉だ。
「……なんだ、これは」
ハルトは自分の手を見つめた。
燻し銀の鎧の指先が、ボロボロと崩れ始めている。
アスタロトとの戦いで禁忌の力――『ブーストキー』を回した代償。
「ゴエティア」の力とは、魂を燃料にして奇跡を起こす等価交換の法だ。騎士としての器が、出力に耐えきれなくなっている。
(……小僧。見ての通り、貴様の魂の器はひび割れておる)
精神世界の虚空から、魔導剣『レメゲトン』の声が響く。
(このままでは、貴様は灰の山に埋もれて消える。進行を食い止める方法はただ一つ。西園寺レイジのように、騎士としての位階を上げ、その強大な力流を御しきる『器』へと進化すること)
「進化……だと?」
(そうじゃ。だが、進化には『弱さ』の克服が必要不可欠。小僧、貴様が真に恐れているものを直視する時が来たようじゃぞ)
レメゲトンが告げた瞬間、灰の砂漠が激しく波打った。
砂が寄り集まり、巨大な形を成していく。それは、ハルトが纏う「燻し銀の鎧」を、より巨大に、より禍々しく歪めたような姿をしていた。
現れたのは、かつての英雄のなれの果てか、あるいはハルト自身が招くであろう「未来の絶望」か。
その巨騎士は、顔のないバイザーの奥から、冷たい殺意を放っている。手にした大剣はボロボロに欠け、そこから赤黒い魔力が、まるで怨念のように滴り落ちていた。
(戦え、ハルト。これは貴様の『弱さ』が具現化した幻影じゃ。こいつを斬らねば、貴様はこの深層から戻ることはできん。そのまま眠りの中で、本物の灰となるがいい!)
「……やってやるよ。俺が、俺であるために!」
ハルトの手中に、何処からともなく燻し銀の長剣が現れる。
巨騎士が咆哮を上げ、大剣を振り下ろした。その一撃は、深層世界の地平を割り、ハルトの魂を直接削り取るような衝撃を伴っていた。
「くっ……重い……!」
(どうした! 恐怖に呑まれるな! 貴様が守りたいものは、そんなに軽いものだったのか!?)
レメゲトンの叱咤が飛ぶ。
ハルトは必死に剣を合わせるが、巨騎士の攻撃は容赦ない。一撃ごとに、ハルトの「灰化」が身体の上を広がっていく。
巨騎士の姿が、時折、西園寺レイジの冷笑に見え、あるいは、泣き叫ぶ輪廻の姿に重なる。
「……俺は、失いたくない。あいつらの居場所を……俺自身の存在を!」
ハルトの瞳に、青白い炎が宿る。
それは、絶望の灰の中から生まれる、微かな、しかし消えることのない「種火」だった。
巨騎士の剣が、ハルトの脳門を割らんと迫る。
その刹那、ハルトの脳裏に、現実世界で自分を呼ぶ「温かい声」が届いた。
(ハルト様……お願い……)
それは、指先を伝わってくる輪廻の体温。涙の滴がハルトの手首に落ち、灰色のひび割れを僅かに潤した。
「……ああ。まだ、倒れるわけにはいかないな!」
ハルトは巨騎士の懐へと、死を恐れず踏み込んだ。
大剣が彼の肩を浅く裂くが、構わない。彼は至近距離から、巨騎士の胸の中央――「恐怖の核心」へと、全力の突きを叩き込んだ。
「消えろ……! 俺は、お前なんかに屈しない!」
ハルトが放った決死の突きは、具現化した「恐怖の核心」を正確に貫いた。
眩い閃光。
かつて自分自身の無力さを象徴していた「灰の騎士」は、咆哮を上げることもなく、穏やかな光の粒子となってハルトの身体へと溶けていった。
その瞬間、精神世界に劇的な変化が訪れる。
どこまでも続いていた死の灰の平原が、内側から脈動し始めたのだ。
(カカッ! よくぞ器を広げたな、小僧。己の恐怖を餌に、魂の位階を食らい上げるとはな。これでお前の『器』は、以前とは比べ物にならんほど強固になったわい)
魔導剣『レメゲトン』の声が、先ほどまでの嘲笑を含んだ響きから、確かな期待を込めた重厚なものへと変わる。
ハルトは、自分の身体を見つめた。
崩れ落ち、灰が溢れ出していた燻し銀の鎧は、より緻密で、より洗練された装甲へと再構成されている。関節の隙間からは、魂の熱量そのものとも言える青白い光が漏れ出し、周囲の灰を焼き尽くしていた。
「……体が、軽い。それに、力が……内側から溢れてくる」
(当たり前よ。お前は今、真の騎士として一歩を踏み出したのじゃ。ならば、その『器』に見合う新たな力を与えねばなるまい。ワシの深淵に眠る、最速の飢えをな)
レメゲトンの言葉が終わるか終わらないかのうちに、鉛色の空が、巨大な紫の魔法陣によって切り裂かれた。雲を割り、天から降り立ったのは、月明かりさえも吸い込むような漆黒の魔獣――**魔導獣**だった。
細身ながらも、強靭なバネを内包した四肢。
黒曜石のように磨き上げられた装甲。
その継ぎ目から溢れ出す、紫と蒼の幻想的な発光ライン。
それは生物としてのしなやかさと、魔導回路としての精密さが高度に融合した、まさに「星を喰らう狼」の名に相応しい姿だった。
「……こいつが、俺の新しい力なのか?」
ハルトが息を呑んでその魔獣を見つめていると、フェンリルの瞳が、ハルトを射抜いた。
獣の獰猛さと、高位の知性が混ざり合った冷たい眼光。
ハルトは導かれるように手を伸ばし、フェンリルの冷たく硬質な頭部に触れた。
その瞬間、ハルトの脳内に、言葉ではない「感情の奔流」が流れ込んできた。
「……っ!? お前……今、何を……」
突然、フェンリルが頭を上げ、まだ見ぬ遠くの空へ向かって低く唸った。
黒曜石の装甲が逆立ち、発光ラインが不気味な紅紫へと変色していく。それは明らかに、主に対する敵意ではない。どこか遠方で起きている「異変」に対する、本能的な拒絶反応だった。
(……ほう。流石はアストラ・フェンリルじゃ。感知能力はワシ以上というわけか)
レメゲトンの声が低くなる。
「どうしたんだ、レメゲトン。フェンリルが、何かに怯えてるみたいだ」
(怯えておるのではない。怒っておるのじゃ。小僧、こいつには空間の歪みや、運命の綻びを察知する力がある。今、フェンリルが見据えておる先……そこでは、お前の大事な『仲間』が、死の淵におるぞ)
「仲間……響花か!? 」
(寄生種の変異体じゃ。今のあの娘の力では、到底太刀打ちできん化け物が顕現しておる。今この瞬間も、あの娘の命の灯火が、巨大な顎に飲み込まれようとしておるぞ)
レメゲトンの言葉が、ハルトの心臓を直接掴んだかのような衝撃となって突き刺さる。
フェンリルは、ハルトの動揺に応えるように、さらに鋭く、激しく、空間を切り裂くような遠吠えを上げた。
「ウォォォォォォォォォッ!!!」
その咆哮は、精神世界の灰を全て吹き飛ばし、現実世界への「扉」をこじ開ける合図となった。
「待ってろ、響花……今、行くッ!!」




