鴉の慟哭、獣の残響(中編)
山嶺は、今や現世の理を拒絶した「魔の揺り籠」と化していた。
標高千メートルを超える稜線には、分厚い夜霧が深海のように沈殿している。湿った土の匂い、腐りかけた落葉の甘ったるい死臭、そして何より、肺の奥を刺すような魔力の冷気が大気を支配していた。月光は霧に乱反射し、視界を青白く濁らせる。
その沈黙を、空間そのものを震わせる重低音の咆哮が圧し折った。
響花の眼前に君臨するのは、生物学的な「熊」の概念を逸脱した異形の捕食者だった。
元はツキノワグマであったその肉体は、寄生種の放つ銀色の粘液によって徹底的に「魔改造」されている。本来の毛皮は粘着質の流体に塗り潰され、肥大化した筋肉が皮膚を内側から引き裂き、脈動する繊維となって露出していた。
背骨に沿って突き出すのは、処刑台の針を思わせる硬質化した銀の棘。それは寄生種が宿主の神経系を掌握するためのバイパスであり、同時に敵を串刺しにするための凶器でもある。濁った紅い光を湛えた瞳には、野性の慈悲など微塵もない。そこにあるのは、「人の肉を喰らう」という生存本能を歪めた、魔界の根源的な飢餓だけだった。
「……腹ペコそうね。接待ならお断りよ、最悪」
響花は吐き捨てるように呟き、愛銃**対魔重芯『鴉』**のストックを肩に深く沈めた。
この凄惨な殺戮場において、響花の姿はある種の完成された機能美を体現していた。
切り揃えられた銀色のボブカットが、夜風を孕んで鋭いナイフのように揺れる。バイザー越しではない、剥き出しの鋭い眼差しは、獲物の死角を射抜く鷹そのものだ。身体のラインを無慈悲に強調する黒のタクティカルウェアは、防弾性能と極限の機動性を両立させた対魔機関の特注品である。網目状のメッシュから覗く白い肌は、死線を幾度も潜り抜けてきた戦士特有の、張り詰めた緊張感に満ちていた。
彼女の心理を占めるのは、エージェントとしての義務感、そして、眠れる騎士への執着だった。
ドォォンッ!!
次の瞬間、大気が爆ぜた。
数トンはあるであろう巨体からは想像もつかない俊敏さで、デビル・ベアが「飛んだ」のだ。
「っ……重力無視の加速!?」
わずか一跳びで十数メートルの距離をゼロにした魔獣の剛腕が、銀色の粘液を撒き散らしながら響花の頭上へ振り下ろされる。響花は重力に逆らうような身のこなしで後方へ転回。彼女がコンマ数秒前までいた場所の岩盤は、大型重機の粉砕機にかけられたかのように粉々に砕け散った。
「お返しよ!」
着地の衝撃を逃がしながら、響花は『鴉』のトリガーを絞った。
――ガガガガガッ!!
放たれたのは、対魔機関が誇る特装銀弾。通常の魔物であれば着弾の衝撃で細胞崩壊を引き起こし、霧散させる威力を秘めている。弾丸は正確にデビル・ベアの胸部と頭部を捉え、肉を穿つ鈍い音を立てる。
しかし、魔獣は止まらない。
銀色の粘液が瞬時に傷口を塞ぎ、体内に食い込んだ弾丸を筋肉の収縮だけで「排出」していく。アスファルトに転がる銀の弾丸が、カランと虚しい音を立てた。
「遠距離がダメなら、懐を抉るまでよ!」
響花は『鴉』を背部ホルダーへ瞬時に収容し、腰から漆黒のナイフを抜き放った。
対魔振動刃:『黒羽』。
高周波による分子崩壊を誘発するその刃は、鋼鉄の防壁すらバターのように切り裂く。
響花は魔獣の突進をあえて誘い、その懐へと滑り込んだ。最短距離で魔獣の「核」が位置するであろう心臓部へ、『黒羽』を突き立てる――。
――キィィィィィィィン!!
静寂の山嶺に、耳を刺すような硬質な不協和音が響き渡った。
手応えがない。それどころか、響花の腕に返ってきたのは、巨大な岩石を全力で叩いたような、痺れるほどの反動だった。
「……嘘。高周波ブレードが、通らない……!?」
デビル・ベアの皮膚は、寄生種の粘液によって硬質化され、分子レベルの振動すら減衰・吸収する「生体装甲」へと完全進化を遂げていた。
驚愕が響花の思考をコンマ数秒、凍結させた。
魔獣はその隙を見逃すほど寛大ではない。獲物を追い詰め、絶望させる悦びに歪んだ咆哮を上げる。
「ガァァァァァァッ!!」
至近距離での咆哮は物理的な衝撃波となり、響花の三半規管を揺さぶった。防御姿勢を取る間もなく、熊の巨大な掌が彼女の腹部を捉える。
「ゴハッ……!!」
防弾ベストを透過した衝撃が内臓を圧迫し、肺から酸素が強制的に排出される。響花の身体は木の葉のように舞い、後方の岩壁に激突した。
背中を打った衝撃で視界がチカチカと明滅し、指先の感覚が遠のく。
壁を背に崩れ落ちようとする響花。だが、彼女が意識を立て直すより早く、死の臭いを撒き散らしながらデビル・ベアの巨大な影が覆い被さった。
眼前には、銀色の粘液が滴る、処刑装置のような顎。
そこから漏れ出す熱気と、腐敗した死の臭いが鼻孔を突く。
死を目前にした、あまりにも残酷な静寂。
(……ごめん、ハルト。私、ここまでかも――)
響花の瞳に、絶望と、それでも消えない一筋の闘志が混ざり合う。
魔獣の顎が、彼女の華奢な首筋を噛み砕こうと、最大まで開かれた。




