名前のない夢、魔法が解けるその前に(後編)
死の冷気が首筋を撫でた、その刹那。
――乾いた銃声が、凍りついた空気を爆ぜさせた。
「ハルトに触るなッ!!」
斜め後方から響花の対魔銃が火を噴き、放たれた銀の弾丸がラプラスの刀身を叩く。
予期せぬ衝撃。わずかに軌道が逸れた大剣は、ハルトの肩口を掠め、アスファルトを深く穿つに留まった。
破壊音に銃撃音。非日常の出来事により、日常が、悲鳴という名の不協和音を上げて崩壊する。
「な、何だ今の音!?」「逃げろ! 爆発だ!」「パパ、怖いよぉ!」
極彩色の光に彩られていた園内は、一瞬にして逃げ惑う群衆の坩堝と化した。投げ出されたポップコーンが宙を舞い、踏みつぶされた風船が無機質な音を立てて弾ける。
「……そういえば君もいたね。計算外の不純物だ」
アスタロト――西園寺レイジは、逃げ惑う人々には一瞥もくれず、ただ不快そうにバイザーを響花へと向けた。
「邪魔をするなら、まず君から相手をしてあげよう」
アスタロトがマントを翻し、一陣の風となって響花へと肉薄する。響花は顔を強張らせながらも、退かずにトリガーを引き続けた。
(……おい。いつまで寝ておる。情けないのう、小僧)
意識の深淵。燻し銀の鎧の奥で、聞き慣れた、だがどこか厳格な「老人の声」が響いた。ハルトの相棒、魔導剣レメゲトンだ。
「レ、メゲトン……」
(ふん。先ほどの銃撃、あの男は避けられなんだ。なぜだと思う? ワシの見たところ、奴の未来予知は万能ではない。視界に捉えたもの、あるいは意識の焦点を絞った対象の『未来』しか計算できんようじゃ。今の奴の意識は、あの小娘に向いておる。……つまり)
「……奴の『外』から叩けば、勝機はあるってことか……!」
(察しが良くなったのう。ならば、策は一つ。意識が追いつかないほどの一撃しかない)
ハルトの目の前に、燃え上がるような紅い鍵――**『真紅の鍵』**が顕現した。
「終わりだ、不純物君」
響花の対魔銃を叩き折り、アスタロトがトドメの一撃を振り下ろそうとしたその時。
背後から、大気を震わせるほどの莫大な圧が噴き出した。
ハルトが立ち上がっていた。その手には、不気味に輝く紅い鍵。
彼がその鍵をレメゲトンに差し込むと、重厚な扉が開くような音が鳴った。
「換装」
燻し銀の重装甲に、灼熱の亀裂が走る。次の瞬間、幾多の死線を共にした銀の装甲が激しくパージされ、火花と共に四散した。
そこから現れたのは、これまでの鈍い銀色とは一線を画す、血のように鮮烈な、そして禍々しいまでに研ぎ澄まされた深紅の鎧であった。
兜からは炎のような紅い鬣が揺らめき、バイザーの奥には青白い鬼火のような瞳が宿る。その姿は、かつての老騎士から一変し、獲物を瞬く間に屠るための「暴力の化身」へーーゴエティア・ブーストに変わった。
ハルトは、クリムゾンレッドに輝く、胸の紋章に触れる。
《Boost Up》
無機質な音声と共に、ハルトの視界と世界の色が反転する。
『10』
ハルトの姿が、アスタロトの視界からかき消えた。
「……ッ!? 速い!」
『9』
『8』
超高速の機動。ハルトは物理法則を無視した角度でアスタロトの周囲を旋回し、紅い軌跡を夜の闇に刻む。
アスタロトは未来予知を全開にするが、加速し続けるハルトの残像に、計算が追いつかない。
『7』
『6』
アスタロトの側頭部に強烈な一撃が叩き込まれる。
「ぐぅっ……捉えられない、だと……!」
『5』
『4』
ハルトは空中を蹴り、アスタロトの背後――意識の死角へと完璧に回り込む。
手にしたレメゲトンが、白熱を通り越し、世界を焼き尽くさんばかりの紅い焔を纏う。
『3』
アスタロトが振り返る。だが、そこにはハルトの姿はない。
ハルトは既に彼の懐、零距離の死角に飛び込んでいた。
『2』
「喰らえぇぇぇ!!」
ハルトの渾身の力が、レメゲトンの刀身に注がれる。
『1』
「アッシュ・トウ・アッシュ(灰は灰に)!!!」
超火力の斬撃が、アスタロトの胸元で爆発した。
アスタロトは直剣ラプラスで必死に防ぐが、その衝撃の余波までは殺しきれない。
鎧の隙間を縫うように炎が侵入し、内部のレイジを焼き焦がす。
『0』
轟音とともに、周囲のイルミネーションが全て砕け散った。
煙が晴れると、そこには力なく膝をつく西園寺レイジの姿があった。
黒銀の装甲――アスタロトは既に強制解除され、彼はブランドのアウターをボロボロにしながら、血を吐き捨てた。
「……ふん。不合理なまでの出力だ。馬鹿力だね……」
レイジは歪んだ眼鏡を投げ捨て、ハルトの燻し銀――熱を失い元の銀色に戻った騎士を見据えた。
「認めてあげよう、ゴエティア。今の君の力……確かに対価を払う価値があるようだ。……だが、その身体でどこまで保つかな?」
レイジは影に溶け込むように姿を消した。
「また会おう、灰になる前にね」
静寂が戻る。
ハルトは鎧を解くと同時に、そのまま地面へと倒れ込んだ。
「……終わ、った……か……」
「ハルト! 大丈夫!?」
響花が駆け寄る。彼女もまた傷を負っていたが、ハルトの無事を確認して安堵の息を漏らした。
「ハルト様! ごめんなさい……私の、せいで……!」
輪廻がハルトにすがりつき、泣きじゃくる。
ハルトは重い瞼を開け、震える彼女の手を握りしめた。
「泣くな、輪廻。俺が……守るって、言っただろ……。これから先も、ずっとだ」
夜空に打ち上がったフィナーレの花火。
傷だらけの三人の背中を、儚くも美しい光が照らしていた。




