名前のない夢、魔法が解けるその前に(前編)
週末の朝。リビングのテーブルに置かれた一枚のチラシが、全ての始まりだった。
「……遊園地?」
ハルトがトーストを齧りながら問いかけると、向かいに座る輪廻が、少しだけ頬を赤らめて小さく頷いた。その手には、『ドリームランド・ファンタジー』と書かれたカラフルなパンフレットが握りしめられている。
「は、はい……。あの、テレビで特集をしていて……楽しそうだな、って」
輪廻は上目遣いで、恐る恐るハルトの様子を伺う。
「もし、ご迷惑でなければ……一度だけでいいので、行ってみたいんです」
ハルトは少し驚いた。これまで、常に何かに怯え、自分から何かを欲しがることのなかった彼女が、初めて見せた明確な「願い」。断る理由なんて、あるはずがなかった。
「いいよ、行こうか。俺もちょうど、気晴らししたかったし」
「ほ、本当ですか!?」
輪廻の表情がパァッと輝く。まるで花が咲いたようだ。
「ちょっと待ったぁぁぁ!!」
その時、玄関のドアが「バン!」と勢いよく開き、隣の部屋に住む響花が猛スピードで飛び込んできた。寝癖のついた髪のまま、ハルトに詰め寄る。壁が薄いのか、それとも聞き耳を立てていたのか。
「あ、あんたたち二人だけで行くつもり!? 私を置いて!?」
「え、いや、響花も来るだろ? 荷物持ちが必要だし」
「誰が荷物持ちよ! ……ふん、まあ、あんたの保護者役として、ついて行ってあげないこともないわよ」
響花は腕を組み、そっぽを向くが、その口元がニヤけるのを必死に堪えているのが丸わかりだった。
戦いに明け暮れる日々の中で、奇跡のように訪れた平和な時間が始まる。
ドリームランド・ファンタジーは、休日ということもあり、家族連れやカップルで溢れかえっていた。極彩色の風船、甘いキャラメルポップコーンの香り、遠くから聞こえる歓声と音楽。そこはまさに、非日常の楽園だった。
「うわぁ……すごいです、ハルト様……!」
輪廻は、黒いワンピースに身を包み、目をキラキラさせて周囲を見回している。普段の儚げな雰囲気とは違う、年相応の少女の姿。ハルトは思わず見惚れそうになり、慌てて視線を逸らした。
(……いや、なんだこの状況。俺、どうすればいいんだ?)
ハルトの右側には、無邪気にはしゃぐ輪廻。左側には、普段の革ジャンではなく、少し背伸びしたオフショルダーのブラウスを着た響花。すれ違う男たちが、「なんだあいつ、両手に花かよ」と囁くのが聞こえる。ハルトは居心地の悪さに首をすくめた。
「ほらハルト、あのアトラクション乗るわよ! 『絶叫サンダーマウンテン』!」
響花がハルトの腕をグイと引っ張る。
「え、いきなり絶叫系かよ」
「怖いの? だらしないわね、ゴエティア装着者なんでしょ!」
「それとこれとは別だろ!」
「きゃあああああああっ!!」
「うおおおおおおおおっ!!」
急降下の風圧の中で、響花とハルトが叫ぶ。だが、その隣で。
「……っ!」
輪廻は声も出せず、ただ必死にハルトの手を握りしめていた。その手は震えていて、氷のように冷たい。ハルトは反射的に、その手を強く握り返した。
「大丈夫だ、俺がついてる!」
風の中で叫ぶと、輪廻が涙目でこちらを見つめ、コクりと頷いた。
(……ハルト様の手、温かい)
恐怖の中で感じる、確かな体温。輪廻にとって、それは絶叫マシンのスリルよりも遥かに心臓を高鳴らせるものだった。
「いやぁぁぁ! 来ないでぇぇぇ!」
お化け屋敷で一番怖がっていたのは、意外なことに響花だった。彼女はハルトの左腕にガッチリとしがみつき、顔を埋めている。
「響花さん、あれは作り物ですよ」
「うるさい! 作り物でも怖いのよ! ハルト、先頭歩きなさいよ!」
ハルトは苦笑しながら進むが、その右腕には、やはり輪廻がしがみついていた。彼女は怖がっているというよりは、ハルトにくっつけるこの状況を密かに楽しんでいるようにも見えた。
ハルトは両腕にかかる二人の少女の重みを感じながら、ふと考える。
(平和だな……)
ジークとの死闘、灰化の痛み。それらが嘘のように遠く感じる。ずっと、こんな時間が続けばいいのに。柄にもなく、そんなことを願ってしまう自分がいた。
休憩時間。三人はクレープを食べながら、噴水広場のベンチで一休みしていた。
「ん、美味しい……。ハルト、一口ちょうだい」
「え、あ、ああ」
響花がハルトのクレープを齧る。
「……間接キス」
ボソッと輪廻が呟いた。
「え?」
「な、なんでもありません! ハルト様、あーんしてください!」
顔を真っ赤にしながらクレープを突き出す輪廻と、慌てるハルト。それを見て、響花はフンと鼻を鳴らしつつも、内心では胸がズキリと痛んだ。
(……知ってる。ハルトの視線が、時々すごく優しく輪廻ちゃんに向くこと)
幼馴染だからこそ、分かってしまう。ハルトは「守る対象」として見ているつもりだろうが、そこにはそれ以上の感情が芽生え始めていることを。
(……悔しいけど。でも、あんたが笑ってるなら、まあいいか)
響花は、クリームを口につけて笑うハルトの横顔を、切なさと愛しさの入り混じった瞳で見つめた。
「……やっぱり私、あんたのこと好きみたいだわ」
雑踏にかき消されるほどの小さな声で、彼女はそう呟いた。
日は傾き、空が茜色から群青色へと変わっていく。遊園地全体がイルミネーションに彩られ、幻想的な光の海となる時間。
三人は、観覧車の順番待ちをしていたが、響花が「トイレ!」と言って席を外したため、ハルトと輪廻の二人きりでベンチに座ることになった。
少し離れた場所では、パレードの音楽が楽しげに響いている。だが、二人の間には静かな空気が流れていた。
「……輪廻さん、楽しかった?」
ハルトが優しく問いかける。
「はい。……夢みたいでした」
輪廻は大切そうに、膝の上に置いたお土産のカチューシャを撫でた。
「あのね、ハルト様。どうして私がここに来たかったか、分かりますか?」
「テレビで見たから、じゃないのか?」
輪廻は首を横に振った。そして、遠くの観覧車の光を見つめながら、ぽつりと語り始めた。
「小さい頃、父が言っていたんです。『そこはね、悲しいことも辛いことも忘れられる、魔法の場所なんだよ』って」
今は亡き父の言葉。ずっと隠れ家に閉じ込められ、外の世界を知らなかった少女にとって、それは唯一の希望の物語だった。
「私、ずっと行きたかった。でも、私が外に出れば、また『敵』が来て、周りの人を傷つけてしまう。……だから、諦めていました」
「……輪廻さん」
「実を言うと……ハルト様。私、最近思うんです。……私が居ないほうが、いいんじゃないかって」
ハルトの心臓がドクンと跳ねた。
「……おい、何言ってるんだよ。そんなこと」
「不安なんです……私のせいで、ハルト様や響花さんが傷つき、命を落とすかもしれない。私さえ居なければ……二人が傷つくこともない」
輪廻はハルトの方を向き、悲しげに、けれど聖女のように美しく微笑んだ。
「いつ死ぬか分からない。明日かもしれない。……だからこそ、一度だけでいいから、父が教えてくれた『魔法の場所』に来てみたかったんです。最後に、素敵な思い出を作りたくて」
「最後なんて言うな!」
ハルトは思わず声を荒らげた。
「俺がいるだろ! 俺が守るって約束したじゃないか! どんな奴がきても、全部俺が斬り裂いてやる!」
「ハルト様……」
輪廻の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
「……ごめんなさい。私、生きていていいんでしょうか。あなたに、こんなに迷惑をかけて……身体を灰にさせてまで……」
「迷惑なんて……!」
ハルトが言いかけた、その時だった。
突如、パレードの音楽が歪んだように思えた。楽しげなメロディが、不協和音となって鼓膜を刺す。
「――おやおや。感動的なシーンに水を差して申し訳ないね」
イルミネーションの影から、一人の男が音もなく現れる。知的な眼鏡、長い黒髪、そして流行りのブランドのアウターを纏っている。
「……西園寺、レイジ」
ハルトが低く唸り、輪廻を庇うように立ち上がる。レイジは薄い笑みを浮かべたまま、優雅に歩み寄ってきた。その手には、蜃気楼のように揺らめく、大剣の幻影が見える。
「楽しそうだね、ゴエティア。君の身体、キツイだろ? よく遊んでいられるなと感心するよ」
レイジの視線が、ハルトの首筋の灰色の痣を射抜く。激闘の後遺症を嘲笑うような、冷ややかな声。そして、その視線はすぐに、ハルトの後ろで震える輪廻へと移った。
「こんばんは、お嬢さん。……君が『鍵』だね。さあ、僕と一緒に来てもらおうか」
レイジが手を差し出す。ただそれだけの動作なのに、圧倒的な「抗えない力」が輪廻を縛り付ける。
「断る!!」
ハルトが叫び、左腕のブレスレットを構える。レメゲトンが即座に応答し、実体化する。
「ほう? ここで戦うつもりかい? 周りには大勢の民間人がいる。僕の相棒……**魔導剣『ラプラス』**と戦えば、この遊園地は火の海だ」
レイジは値踏みするようにハルトを見る。
「君は非合理的だ。……ねえ、ゴエティアの君」
レイジの表情から笑みが消え、底冷えするような真顔になる。
「灰化のリスクを抱え、命を削ってまで、なぜその子を守る?」
ハルトは剣を握る手に力を込める。
「……何?」
「彼女は『鍵』だ。世界を滅ぼすかもしれない危険因子であり、ただの生体部品に過ぎない。君が命を懸ける価値など、客観的に見てどこにもない」
レイジは一歩、また一歩と距離を詰める。
「それに意味はあるのかい? 感情に流され、ボロボロになって、最後は灰になって死ぬ。……その先に、何があるというんだ?」
正論だった。合理的で、冷徹で、反論の余地のない事実。輪廻を守ることは、魔界を敵に回すこと。そして、自分自身を殺すことと同義だ。
輪廻が、ハルトの背中で泣きじゃくる。
「……ハルト様、もういいです。私が……私が行けば……」
彼女は自分の命の意味を、誰よりも理解してしまっていた。だからこそ、ハルトを巻き込みたくない。だが。
「……意味?」
ハルトは俯いたまま、呟いた。その声は震えていたが、恐怖ではない。腹の底から湧き上がる、灼熱のような怒りが、彼の声を震わせていた。
「そんなこと……考えたこともねぇよ」
ハルトが顔を上げる。その瞳には、レイジの冷たい理屈を焼き尽くすほどの、強い光が宿っていた。
「目の前で、一人の女の子が泣いてるんだ」
ハルトはレメゲトンを振り上げ、レイジへと切っ先を突きつける。
「彼女は、死にたいなんて言ってない! ただ、お父さんとの思い出の場所に来て、笑っていたかっただけなんだ! 『生きたい』って……震えながら願ってるんだよ!」
「それがどうした? 感情論だ」
「ああそうだよ! 俺はバカだからな、難しい理屈は分からねぇ!」
ハルトは振り返り、輪廻の肩を強く抱いた。そして、彼女の涙に濡れた瞳を、真っ直ぐに見つめる。
今まで、どこか一線を引いていた。けれど、もう違う。彼女は、ただの守るべき対象じゃない。自分が、命を懸けてでも隣にいたいと思う、大切な仲間だ。
「……輪廻」
呼び捨てにされたその名が、輪廻の心に熱く響く。
「お前が泣いてるなら、俺が笑わせてやる。お前が死にそうなら、俺が何度だって助けてやる!」
ハルトは再びレイジに向き直る。その背中からは、灰色の霧ではなく、黄金の闘気が立ち昇り始めていた。
「理由なんていらねぇ。俺の……俺の大切な仲間を傷つける奴は、神だろうが悪魔だろうが、俺がぶった斬る!!」
「……ハルト様……!」
輪廻の胸に、今まで感じたことのない感情が溢れ出す。
彼と共に生きたい。
彼とこの世界を、もっと見てみたいと。
「……ふん。野蛮で、愚かだ」
レイジは呆れたように息を吐き、魔導剣ラプラスの柄を握る。
「話し合いは決裂だね。なら、力ずくで排除するまでだ。――ラプラス、行くよ」
レイジの周囲に、無数の計算式と魔力の奔流が渦巻く。同時に、ハルトも全身のエネルギーを爆発させた。
「行くぞ、レメゲトン! 奴を……叩き斬る!!」
遊園地の喧騒を切り裂き、二つの強大な力が激突する。
束の間の安らぎは終わりを告げ、運命を賭けた戦いの幕が上がった。




