虚無は、君を覚えている — 灰になる前に —(前編①)
生と死の境界線というものは、驚くほど静かなものだった。
炎に焼かれるような痛みも、骨が砕ける感覚もない。
ただ、世界から自分という存在が薄れていく。
指先の感覚はもうない。
肺に空気が入る感触もない。
代わりにあるのは、暗く、底のない海へゆっくり沈んでいくような浮遊感。
重力すらない虚無。
思考も、感情も、記憶さえも、静かに溶けていく。
――ああ。
俺は、死んだのか。
客観的な事実として、それを受け入れる。
魔導騎士ゴエティアとして戦い続けた結果。
アガレスの奥義《贖罪重撃》の圧壊に耐えきれず、俺の肉体は完全に「灰化」した。
魔導騎士の禁忌。
限界を超えた力の代償。
肉体という器が崩壊し、魂を繋ぎ止める楔が外れたのだ。
俺という個我は、宇宙の塵となって霧散していく。
本来なら恐怖するはずだった。
あるいは後悔するはずだった。
だが、今の俺にはその感情すら希薄だった。
ただ静かに、消えていく。
そのはずだった。
――だが。
その永遠の静寂を、裂くものがあった。
『ハルト……ハルト……』
それは、音ではない。
鼓膜を通った声ではない。
消えゆく魂の奥底に直接届く、震える振動。
必死に灰を掻き集める音。
張り裂けそうな嗚咽。
愛しい人の、絶望の声。
(……輪廻)
その瞬間。
凍りついていたはずの魂の奥に、熱が灯った。
どろりとした、黒い炎のような感情。
輪廻。
泣いている。
俺の灰を、必死にかき集めて。
震える指で。
壊れた声で。
俺の名前を呼び続けている。
その光景が、頭の中に鮮明に浮かんだ。
血まみれで倒れる響花。
地に伏せるレイジ。
串刺しにされたカレンの絶叫。
倒れたミラ先生。
そして。
ゆっくりと輪廻へ歩み寄る、魔導騎士アガレス。
――ふざけるな。
胸の奥で、何かが爆ぜた。
勝手に終わらせるな。
俺が守るって言っただろ。
何度だって助けるって。
泣かせないって。
あいつが笑えない世界なんて――
存在する価値すらない。
(まだだ)
消えかけた魂を、無理やり引き戻す。
(まだ終われない)
理を否定するほどの執念。
その瞬間。
暗黒の深淵が、わずかに揺れた。
闇の底から、二つの存在が姿を現す。
一つは――剣。
長大な刀身。
黒銀の金属。
表面には無数の古代魔導文字が刻まれ、ゆっくりと赤く明滅している。
それはただの武器ではなかった。
生きている。
魔界の理を刻んだ存在。
魔導剣――レメゲトン。
剣は静かに浮かび、俺を見下ろしていた。
まるで古代の王のように。
「……愚かな小僧よ」
低く、重厚な声が響く。
剣そのものが語っていた。
「そこまでして、この“無”に抗うか」
剣の魔導文字が鈍く光る。
「お主の肉体は既に崩壊した。
魂は器を失い、このまま消えるのが摂理だ」
淡々とした宣告。
それでも俺は答えた。
「どうすればいい」
消えかけた意志を絞り出す。
「どうすれば……輪廻を助けられる」
レメゲトンは沈黙した。
そして。
「……方法はある」
闇の底を指す。
そこにもう一つの存在があった。
歪な鍵。
禍々しい装飾。
牙のような突起。
鍵の中央には、怪物の口のような意匠があり、鋭い歯の奥で紫の光が脈動している。
それはまるで心臓の鼓動だった。
禁断の鍵。
グリードキー。
欲望を喰らう魔界の遺物。
鍵は不快なノイズのような声で笑った。
「オレニ頼ルナ」
金属の歯が軋む。
「オマエハ敗北者ダ。
消エル魂ダ」
紫の光が揺れる。
「オレハ次ノ所有者ヲ探セバイイ」
レメゲトンが低く言った。
「知っておるぞ、グリード」
剣の魔導文字が強く光る。
「お主、小僧の灰化を食い止めていたな」
その瞬間。
グリードキーが激しく脈動した。
「灰化を……?」
「そうだ」
レメゲトンが続ける。
「お主の肉体が完全に崩壊しなかったのは、この鍵が魔力で魂を繋ぎ止めていたからだ」
グリードが嘲笑する。
「暇潰シダ」
紫の光が妖しく揺れる。
「コイツノ絶望ガ、美味ソウダッタ」
だが俺は分かった。
こいつは――
俺を試している。
俺は叫んだ。
「グリード!」
闇の中で意志が震える。
「力を貸せ」
「俺の命なんてどうなってもいい」
「でも、輪廻を泣かせる奴らは許さない」
「全部ぶち壊してでも」
「俺は輪廻を救う」
沈黙。
深淵が震える。
レメゲトンが静かに言う。
「三者が力を合わせれば」
「肉体は再構築される」
「グリードが楔となり」
「ワシが骨となり」
「お主の意志が血肉となる」
だが。
「それはもはや人ではない」
「魔界の理を宿す異形になる」
俺は迷わなかった。
「それがどうした」
人間である意味?
そんなものどうでもいい。
輪廻を守れるなら。
隣で笑わせられるなら。
俺は――
「化け物でも構わない」
深淵が揺れる。
グリードキーが歓喜の震えをあげた。
「ククク……」
紫の光が爆ぜる。
「イイ欲望ダ」
「コノ魂……最高ダ」
レメゲトンの魔導文字が燃えるように輝く。
「ならば契約だ」
剣が宣言した。
「魔導剣レメゲトン」
「禁鍵グリード」
「そして騎士よ」
三つの力が共鳴する。
「理を超える」
その瞬間。
暗黒の深淵に巨大な光の渦が発生した。
灰となった魂が――
再び形を取り始める。




