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硝子の休日、灰色の深淵

目覚めた瞬間、鉛を流し込まれたような重みが全身を支配していた。


「……っ、ぐ……」


ハルトが呻き声を上げ、重いまぶたを持ち上げる。


見慣れた自室の天井。しかし、視界の端には、自分の皮膚を侵食する「灰色」の斑点が映り込んでいた。


右腕、左足の甲、そして首筋。


炭化したように変色した肌は、触れると火傷のような、あるいは凍傷のような鋭い痛みを脳に伝えてくる。


(……生きてるな、俺)


音速の10秒間。あの無茶苦茶な賭けに勝った代償は、想像以上に大きかった。


体を起こそうとして、ハルトはすぐに諦めた。指一本動かすのに、全力疾走した後のような疲労感が襲ってくるのだ。


「あ、ハルト! 目が覚めたの!?」


「ハルト様……!」


バタバタという足音と共に、左右から二つの顔が覗き込んできた。


心配と疲労、そして安堵が入り混じった表情の響花と、涙目で今にも泣き出しそうな輪廻だ。


「……二人とも……ごめん、心配かけた」


「ほんとよ! 丸二日も眠り続けるなんて……あんた、自分が何をしたか分かってるの!?」


響花が柳眉を吊り上げ、しかしその手は優しくハルトの額の汗を拭っている。


彼女のエプロン姿――普段の革ジャン姿からは想像もつかない家庭的な装い――に、ハルトは少しだけ目を丸くした。


「ハルト様、お水です。ストローを使ってください」


輪廻が反対側から、甲斐甲斐しくグラスを差し出す。彼女もまた、どこから調達したのか、フリルのついたエプロンを身に着けていた。


「ありがとう……。二日も寝てたのか」


「ええ。医者には見せられないから、私が応急処置をしたけど……その灰色の痣、消えないわね」


響花の声が沈む。ハルトの身体を蝕むゴエティアの呪い。それは、医学では説明のつかない現象だ。


「……まあ、命があるだけマシだよ」


ハルトが強がると、響花は「バカ」と小さく呟き、キッチンの方へ向かった。


すぐに、湯気の立つ鍋を持って戻ってくる。


「さ、お粥作ったわよ。卵とネギだけの、胃に優しいやつ。あんた、昔から風邪ひくとこればっかり食べてたでしょ」


「おお、響花のお粥か。懐かしいな」


「ふふん、感謝しなさい。……はい、あーん」


響花がレンゲでお粥をすくい、ふーふーと息を吹きかけて差し出す。


幼馴染特権とも言える自然な動作。しかし、そのレンゲがハルトの口に届く寸前で、横から伸びてきたスプーンが「カチン」と音を立ててそれをブロックした。


「……あら?」


響花のこめかみに青筋が浮かぶ。


「……響花さん。病人の滋養強壮には、もっと栄養価の高いものが必要です」


輪廻だった。彼女の手には、何やら毒々しい紫色をしたスープが波打つボウルが握られている。


「何よそれ。魔界の沼?」


「魔界特産の『マンドラゴラの根』を煮込んだ薬膳スープです。ハルト様の灰化を回復させるには、これが一番です」


「いや、死ぬでしょ! 人間の消化器官なめないで!」


「大丈夫です。毒抜きは……たぶん、しましたから」


「たぶんって言った!? 今たぶんって言ったわよね!?」


響花と輪廻の視線が空中で激突し、火花が散る。


「ハルトは私が看るの! あんたは休んでていいわよ!」


「いいえ、私が看ます。ハルト様をこんな目に遭わせたのは私ですから……責任を持って、この身が果てるまでお尽くしします!」


「重い! 気持ちが重いのよ輪廻ちゃん!」


二人はハルトを挟んで、お粥と謎のスープを突きつけ合う。


「ハルト、どっちを食べるの!?」


「ハルト様、私の気持ちです。飲んでください!」


「え、あ、あの……俺、まだ食欲が……」


「「食べるの!!」」


ハルトは天井を仰いだ。


(……違う意味で、命の危険を感じる……)


賑やかで、騒々しくて、どうしようもなく温かい「日常」が、そこにあった。


ーーーーーーーーーー


一方その頃。


物理法則を無視した歪な建築物が立ち並ぶ、魔界の深層領域。


その最奥にある「万魔殿パンデモニウム」。


謁見の間は、絶対零度のような冷気と、肌を刺すような重圧に満ちていた。


「――申し訳……ございません……ッ!」


床に額を擦り付け、震えているのは骸将ジークだ。


その身体は包帯と魔導具で補強されているものの、ゴエティア・ブーストに刻まれた傷跡は深く、かつての威容は見る影もない。


玉座に座るのは、闇そのものだった。


巨大な黒曜石の玉座。そこに深々と腰掛けているのは、人型をしていながら、その輪郭が揺らぎ、見る者に原初的な恐怖を与える存在。


魔人王バエル。


「ジークよ」


バエルが口を開く。それだけで、大気が震え、ジークの身体が床にめり込む。


「将の一角が、人間如きに後れを取るとはな。しかも、『鍵』の回収に失敗し、あまつさえ伝説の魔剣『ヘキサ・レイヴン』を全損させるとは……」


「あ、あれは……異常です! あの騎士は、一瞬にして音速を超えました! 予期せぬ事態で……」


「言い訳か? 魔族にとって、敗北は死よりも重い罪と知れ」


バエルが指を上げる。


それだけで、見えない巨大な手がジークの首を締め上げ、空中に吊るし上げた。


「ぐ、が……っ!!」


「役立たずは不要だ。その命、新たな兵士の養分と――」


「――そこまでにしておきなよ、陛下」


凛とした、しかしどこか冷ややかな声が、謁見の間を滑り落ちた。


「誰だ」


バエルの視線が扉の方へ向く。


そこには、一人の騎士が立っていた。


ジークのような魔界の鎧ではない。


洗練された流線型の鋼鉄の鎧。


特徴的なのは、顔を完全に覆う鋭角的な三角帽子のような兜と、身の丈ほどもある巨大な直剣。


マントをなびかせ、その立ち姿は優雅でありながら、深淵のような底知れなさを漂わせている。


「……貴様か。部外者が口を挟むな」


バエルが不快そうに目を細めるが、ジークを締め上げていた力を解く。


ドサリ、とジークが床に落ち咳き込む。


「部外者? つれないなぁ。僕たちは『協力関係』にあるパートナーだろう?」


騎士はゆっくりと歩み寄る。その足音は、金属でありながら音を立てない。


兜の奥から、冷静沈着な青年の声が響く。


「それに、彼を殺すのは損失だ。ゴエティアの『ブースト』……あれを実戦で体験し、生き残った唯一のサンプルなんだから」


「……人間風情が、我を分析材料にするか」


ジークが屈辱に震えながら睨みつける。


だが、騎士は兜の奥で笑った気配を見せた。


「紹介が遅れたね。初めまして、傷だらけの将軍閣下」


騎士は巨大な剣を片手で軽く回し、地面に突き立てた。


「僕はアスタロト。……ゴエティアを殺す者さ」


「魔導騎士……もう一人の適合者か」


ジークが低い声で唸る。


「ゴエティアは『過去』の遺物だ。感情で動く非効率な騎士だよ」


アスタロトはハルトがいるであろう方角、人間界の空を見上げるように視線を向けた。


「僕が証明してあげるよ。全てを見通し、管理された力こそが、新世界の秩序に相応しいとね」


レメゲトンとは異なる剣を持つ騎士、魔導騎士アスタロト。


ハルトのような「守るための騎士」ではなく、数秒先の未来を見つめ、支配するために現れた、冷徹なる「監視者」。


ーーーーーーーーーー


満腹になり、再び眠りに落ちたハルトの意識は、深く暗い底へと沈んでいった。


目を開けると、そこは荒野だった。


空は鉛色に淀み、地面には無数の剣が墓標のように突き刺さっている。そして、それら全てが灰に覆われた、色のない世界。


『――無様な姿じゃな、小僧』


瓦礫の山の上に、豪奢な玉座があり、そこに一人の老人が座っていた。


顔半分が機械化され、古びた貴族のような服を纏った、威厳と偏屈さを併せ持つ存在。


魔導剣レメゲトンの化身だ。


「……ここは?」


『貴様の精神世界じゃよ。……もっとも、随分と浸食が進んでおるがな』


レメゲトンが杖で地面を叩く。すると、地面の灰が舞い上がり、ハルトの足元を埋めようと絡みついてきた。


「うわっ……! なんだこれ!」


『ブーストを使った代償じゃ。あれは貴様の時間を前借りする禁術。支払えなかった利子は、こうして貴様の存在そのものを「灰」に変えて徴収される』


レメゲトンの言葉は重かった。


10秒の奇跡。そのツケは、ハルトの精神と肉体を内側から蝕んでいるのだ。


「……どうすればいい? 俺はまだ、あいつらを守らなきゃならないんだ」


ハルトは灰を振り払い、老人を睨み据える。


『ふん。威勢だけはいいのう。……方法はある』


レメゲトンが指を鳴らすと、突き刺さっていた無数の剣の一本がハルトの前に飛来した。


『己の「核」を強く持て。灰に飲まれる恐怖に打ち勝ち、我という強大すぎる力を御する「器」としての格を示せ。……さもなくば、次は目覚めることなく、この荒野の塵となるだけじゃ』


「精神論かよ……。でも、やるしかないんだろ」


ハルトは飛来した剣を握りしめた。


ずしりと重い。まるで、自分の命そのもののように。


『来るぞ、小僧。灰化の進行を食い止めたくば、死ぬ気で抗え!』


精神世界での訓練が始まった。


襲い来る灰の魔獣を薙ぎ払い、自分という存在を定義し直す。


肉体は眠っていても、魂は戦い続けていた。


ーーーーーーーーーー


数日後。


ハルトはなんとか大学へ復帰していた。


対魔機関の情報操作により、あの騒ぎにハルトは関わっていない事になっていた。


灰化の進行は止まり、見た目ではわからないが、まだ身体の芯に怠さが残っている。


それでも、日常に戻らなければ、守るべきものが何なのか忘れてしまいそうだった。


「ハルト、あんまり無理しないでよ」


隣を歩く響花が、心配そうに顔を覗き込む。


「ああ。でも、じっとしてる方が性に合わなくてさ」


講義室に入ろうとした、その時だった。


「――おっと。失礼」


扉を開けた瞬間、中から出てきた男子学生とぶつかりそうになる。


ハルトは反射的に避けようとした。


だが、相手はハルトが動く方向を知っていたかのように、自然な動作で一歩横へずれ、接触を回避した。


「……あ」


ハルトは目を見開く。


(今、俺が避ける方向へ、俺より先に動いた……?)


「すまないね。ボーッとしていて」


その学生は、穏やかなバリトンボイスで微笑んだ。


整った顔立ちに、知的な眼鏡。長めの黒髪を後ろで束ねている。


一見すれば、優等生といった風貌だ。


だが、ハルトの戦士としての本能が、全身の毛を逆立てて警鐘を鳴らしていた。


コイツは、ただの人間じゃない。


「……いや、こっちこそ」


ハルトが警戒しながら答える。


学生はハルトの顔を見ると、眼鏡の奥の瞳をすっと細めた。


そして、すれ違いざま、ハルトの耳元で信じられない言葉を囁いた。


「……『灰』の侵食、苦しそうだね。ゴエティア」


「――ッ!?」


ハルトが振り返るよりも早く、学生は背中を向けて歩き出していた。


「僕は西園寺レイジ。……近いうちに、君と『答え合わせ』ができるのを楽しみにしているよ」


レイジは振り返らず、片手をひらりと振る。


その背中には、目に見えないはずの鋭角的な兜と大剣の幻影が、深淵の闇のように揺らめいて見えた。


ハルトは呆然と立ち尽くす。


新たなライバル。


未来を見通す瞳を持つ、もう一人の魔導騎士との邂逅。


それは、ジーク戦とは異なる、より静かで、より絶望的な戦いの幕開けだった。

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