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約束の果ては、あまりにも脆く(後編③)

 硝煙と血の臭いが、かつてこの場所を満たしていた甘いキャラメルの香りを完全に塗り潰していた。


 私の視界は、どろりとした赤と灰色に染まっている。


 ガクガクと震え、もはや自分のものとは思えない感覚を失った私の右腕を、ミラ先生の剛腕が力強く掴んで引いていた。先生の丸太のような腕も、今は至る所が裂け、鮮血がその鋼のような筋肉を濡らしている。


「走るのよ、輪廻ちゃん! 前だけ見て! 私が、絶対に……貴女を死なせないからっ!」


 ミラ先生の悲痛なまでの怒号。けれど、その声は上空から降り注ぐ魔獣の咆哮と、大地を削る重低音にかき消されそうだった。


 振り返れば、そこはもう「世界」ではなかった。


「射て! 撃ち続けろ! 鍵の巫女の離脱時間を稼ぐのが最優先だ!!」


 絶叫と共に、対魔特務機関『S.A.I.D.』の戦闘員たちが次々と戦場へなだれ込む。


 彼らは人間界が誇る最新鋭の対魔ライフルを構え、押し寄せる魔界の奔流に向かって鉄の雨を降らせていた。厳しい訓練を積み、誇りを持って国民を守るために選ばれた精鋭たち。


 けれど、彼らの放つ弾丸は、圧倒的な力を前にしては、あまりにも無力な玩具に過ぎなかった。


「……あ……ああ……っ」


 私の目の前で、一人の隊員の体が不自然に宙に浮いた。


 巨大な魔獣が、その鋭い爪で彼の防弾ベストごと胸を貫き、軽々と持ち上げたのだ。血の飛沫が夜空に舞う。隊員は苦悶の表情を浮かべる間もなく、肉塊として地面に叩きつけられた。


 一人、また一人と、絶望的な速度で命が散っていく。


 銃声は次第に疎らになり、代わりに魔獣たちの飢えた咀嚼音と、装甲がひしゃげる生々しい音が支配を強めていく。


 個の武力において、人間はあまりにも弱すぎた。


 どれほど志を高く持とうとも、目の前に現れた「暴力の化身」たちの前では、単なる処理を待つだけの資材に過ぎなかったのだ。


「逃しませんよ、鍵の巫女」


 アガレスの冷酷な声が、戦場の喧騒を切り裂いて届く。


 直後、凄まじい衝撃波がミラ先生と私を襲った。


 私を庇って前へ躍り出たのは、ボロボロになった双剣――『紅蓮』と『白夜』を構えたカレンさんだった。


「……これ以上は、一歩も通さないわよ……ッ!!」


 カレンさんは、高周波ブレード『紅蓮』を最大出力で振るった。赤い閃光が闇を切り裂く。けれど、アガレスの魔導剣ウァッサゴは、その一撃を容易く、あまりにも無造作に正面から叩き伏せた。


「ぐっ、あぁぁぁ……ッ!!!」


 カレンさんの体が、砲弾のような速度で後方へ吹き飛ばされた。


 彼女が叩きつけられたのは、崩落したアトラクションの無残な鉄骨の山。


 ——グシャリ、という嫌な音が響く。


 ひしゃげた鉄筋が、カレンさんの右足の太腿を深く、無慈悲に貫いていた。


 噴き出す鮮血。普通なら意識を失うほどの激痛。


 けれど、彼女はエリートエージェントとしての理性を、地獄のような苦悶の中でも手放してはいなかった。


「……っ、ぐ……う、あ……ッ!!」


 カレンさんは、悲鳴を押し殺すように奥歯を噛み締めた。


 血を吐きながらも、その鋭い眼光はアガレスから逸らさない。震える手で、足に刺さった鉄筋を掴む。


「……最悪……ね……でも、まだ、引き金は引けるわ……っ!」


 彼女は狂おしいほどの痛みの中で、冷徹に自分のダメージを分析していた。折れた指で瓦礫の中に落ちたサイドピストルを拾い上げ、震える銃口をアガレスへ向ける。


 プライド。誇り。それだけが、串刺しにされた彼女の体を繋ぎ止めていた。


 アガレスは、そんな彼女の執念を一瞥さえせず、ただ作業的に歩みを進める。


 その背後には、悠然と玉座を待つかのように佇む魔人王バエル。そして、門の向こうから現れた数多の魔界の将軍たちが、滅びゆく人間界を冷ややかに見下ろしていた。


 空は完全に紫黒色に染まり、魔界との境界線は消滅した。


 私たちの住んでいた世界が、今、確実な終わりを迎えていた。


(……私のせいだ)


 心の中で、何かが完全に砕けた。


 ハルトを灰に変えた。響花さんが倒れた。レイジくんを再起不能にした。


 今、カレンさんが痛ましい姿で血を流し、勇敢な兵士たちが虫のように踏み潰されている。


 全部、全部……私が「巫女」なんてものだったから。


 私が、ハルトに甘えて、隣にいたいなんて願ってしまったから。


「私が……死んでいれば……っ。最初から、私が存在しなければ、ハルトも……みんなも……っ!!」


 溢れ出る涙が、私の頬を汚したまま乾いていく。


 私はもう、逃げる力すら湧いてこなかった。


 生きていること、この鼓動が続いていること自体が、死んでいった者たちへの冒涜に感じられた。


「弱気になるんじゃないわよぉぉぉっ!!!」


 ミラ先生の怒声が響く。先生は私を背後に隠し、襲いかかる魔獣の群れをその剛腕で殴り飛ばしていた。


 けれど、多勢に無勢。


 背後から迫った巨大な魔人の、振り下ろされた大槌のような拳がミラ先生の横腹を捉えた。


「——がはっ!!」


 岩のような筋肉が大きく凹み、先生の巨体が吹き飛ぶ。


 泥と血にまみれて転がるミラ先生。


 先生は立ち上がろうとして、激しく吐血し、その場に崩れ落ちた。


 私の前を遮るものは、もう誰もいなかった。


 目の前に、国鉄の鎧の死神が立つ。


 魔導騎士アガレス。


 彼の纏うどす黒い魔圧は、私の肺から空気を奪い、心臓の鼓動を無理やり停止させようとする。


 視線の端で、鉄筋に繋ぎ止められたままのカレンさんが、必死に銃を構えようとしているのが見えた。その腕は、もはや自重さえ支えられず、ただ虚空を彷徨っている。


「……に、逃げな……さい……輪、廻……っ……」


 血を吐きながら紡がれた、最後の命令。


 けれど、私にそれに応える気力は残っていなかった。


 アガレスが、ゆっくりとウァッサゴを振り上げる。


「もはや、泣く暇も与えん。灰となったゴエティアの元へ送ってやろう」


 ハルトの隣。


 そう、そこに行けるなら、この一撃は私にとって唯一の救いなのかもしれない。


 私は、抵抗することをやめた。


 ただ、「彼の一部だった灰」を最後に強く握りしめ、ゆっくりと瞳を閉じる。


 終焉の刃が、振り下ろされた。

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