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約束の果ては、あまりにも脆く(後編②)

 視界の端で、何かが赤く爆ぜている。それが私の肩から溢れ出した鮮血だと気づくまでに、永遠のような数秒を要した。


 痛みは、もう他人事だった。私を貫いているワイヤーのような冷たい感触も、そこから体内に侵入してくる焼けるような魔力の熱量も、今の私にとっては、ハルトを失ったという「空白」に比べればちりにも等しい。


 ただ、涙が止まらなかった。


 嗚咽さえ出ない。ただ、熱い雫が頬を伝い、アスファルトに散らばる「彼だった灰」を濡らして泥に変えていく。


 一緒に居たかった。隣で笑っていたかった。そんなささやかで、けれど私にとってのすべてだった未来が、指の間からさらさらと零れ落ちていく。


 私は今、間違いなく生きている。


 けれど、私の心はハルトが消えたあの瞬間に、色彩のない無の世界へと閉じ込められた。


 絶望に沈む私の前に、巨躯が影を落とした。


 魔導騎士アガレス。その正体である魔人マルファスが、歪んだ笑みを浮かべて私を見下ろしている。


 私の肩を貫いた彼の髪――ワイヤー状の金属装備から伝わる振動が、私の血を媒介にして空間を侵食していく。滴り落ちる「鍵の巫女」の鮮血。それが地面に触れた瞬間、パステルカラーの夢の国は、真の地獄へと変貌を遂げた。


 ゴゴゴ、と大地が悲鳴を上げ、空間そのものがガラスのようにひび割れていく。


 最愛の人を失った、底なしの絶望。それが儀式を完成させる最後の触媒となったのだ。


「興が削がれたな」


 白銀の髪を揺らし、巨大な翼を広げたその姿は、神々しくさえある。けれど、彼が放つのは慈悲なき滅びの気配だけだった。魔人王バエルは、廃人のように座り込む私を一瞥し、興味を失ったように冷たく言い放つ。


「マルファスよ。その娘の血は門の維持に十分だ。もはや魂が壊れた器に価値はない。……首を刎ねよ」


「承知しました」


 魔導騎士アガレスが、死神のような足取りで私に歩み寄る。魔導剣ウァッサゴが、獲物を求める獣のように低く唸りを上げた。


(ああ……これで、いい……)


 恐怖はなかった。むしろ、深い安堵が胸をかすめる。


 このまま首を落とされれば、この耐え難い喪失感から解放される。灰になって風に舞えば、またあのアパートで彼に会えるかもしれない。


 私はそっと、瞳を閉じた。


 ウァッサゴが空を裂く、鋭い死の音が聞こえる。


「——私の仲間に、手出しはさせない!」


 凛とした、落ち着きのある女性の声。


 直後、空気を切り裂く高周波の駆動音が響き渡り、世界が激しく震えた。


 ガキィィィィィィィンッ!!!


 鼓膜を突き刺すような金属音が、絶望の静寂を強引に引き裂く。


 死を待っていた私の前に、鮮烈な光が舞い降りた。


 おずおずと目を開けると、そこには揺るぎない「鋼」の背中があった。


 対魔機関が誇るエースエージェント、おおとりカレン。


 波打つ金髪をなびかせ、彼女の手には二振りの特殊兵装が握られていた。


 右手に、赤く不気味な光を放つ高周波ブレード**『紅蓮ぐれん』。

 左手に、凍てつくような白光を宿す『白夜びゃくや』**。


 カレンさんは、アガレスの巨大な魔導剣を二本の刃で十字に受け止め、涼しげな表情で正面を見据えている。けれど、その足元のコンクリートは凄まじい圧力で粉砕され、彼女の美しい手首からは、衝撃を逃がしきれなかった血が筋となって流れていた。


「……っ、重い……流石ね」


「貴様は……対魔機関の雌犬か」


「レディを雌犬呼ばわりなんて、最低ね。――さあ、輪廻。無様な顔をしていないで、お姉さんの言うことを聞きなさい」


 カレンさんは一瞬の隙を突き、超振動を最大出力にしてウァッサゴを弾き飛ばした。そのまま、驚異的な体術で私を抱え上げると、後方へと跳躍する。


「大丈夫……とは言えないわね。でも、死ぬのは今じゃないわ。……撤退するわよ」


 彼女の話し方は、どこまでも冷静で、プロフェッショナルな「大人」のそれだった。けれど、私を抱える腕には、確かに守ろうとする意志の強さが込められている。


「逃がすとでも?我らが魔人王の御前ですよ」


 アガレスの追撃は、容赦なかった。


 一足飛びで距離を詰め、再びウァッサゴを振り下ろす。カレンさんは私を背後に庇い、即座に迎撃の構えを取った。


 ドォォォォォォンッ!!!


 またもや響く轟音。


 エースエージェントとして鍛え上げられた彼女といえど、魔導騎士、それもアガレスとの体格差と出力差は絶望的だ。攻撃を受けるたび、カレンさんの細い体は激しく揺さぶられ、紅蓮と白夜が火花を散らす。


「くっ……! はあぁぁぁ……ッ!!」


 カレンさんの口元から血が溢れる。それでも彼女は、双剣を杖にするようにして踏みとどまり、私という重荷を背負って一歩も引かない。


「輪廻ちゃん!!」


 その時、瓦礫を掻き分けて別の声が私を呼んだ。


 駆け寄ってきたのは、対魔機関の医療班を率いる神宮寺ミラ先生だった。その表情は、戦場の惨状と私の姿を見て、悲痛に歪んでいる。


「ミラ……先生……」


「ミラ先生! 早くこの子を連れて退がって! 私が時間を稼ぐわ。……頼むわよ!」


 カレンさんの鋭い叱咤。


 ミラ先生が私の肩を抱き、無理やり立たせようとする。


「退くわよ、輪廻ちゃん! ここにいたら、ハルト君の想いが無駄になってしまうわ! 立ちなさい!」


 ミラ先生の叫び。


 「ハルト」という名前が出た瞬間、私の胸の奥で、再び鋭い刃で掻き回されるような激痛が走った。


 行かなきゃいけない。わかっている。


 カレンさんが血を流して戦ってくれている。ミラ先生が必死に手を引いてくれている。


 けれど。


(置いていけない……)


 足元の灰。彼の一部だった、この冷たい砂。


 これを見捨てて、私だけが逃げるなんて、そんなことできない。


 私の足は、重力に縛られたかのように地面に張り付き、一歩も動くことを拒んでいた。


「ハルト……ハルト……っ!」


 私は、ただ壊れた人形のように、愛した人の名前を呼び続けることしかできなかった。


 背後では、カレンさんの『紅蓮』が悲鳴を上げ、目の前ではアガレスの影が再び私を飲み込もうと巨大に膨れ上がる。


 絶望は、終わらない。


 ただ、新たな犠牲を飲み込もうと、魔界の門が不気味に脈動していた。

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