約束の果ては、あまりにも脆く(後編①)
指先から、さらさらと零れ落ちる。
さっきまでそこに、確かにあった「温もり」の残骸。
ハルト――魔導騎士ゴエティアだったものは、もうこの世界には存在しない。私の両手に残ったのは、ただ冷たく、命の欠片も感じられない灰の山だけだった。
「…………ハル……ト……」
声が出ない。喉が、心臓が、自分という存在のすべてが、ハルトを失った瞬間に機能を止めてしまったようだった。私は、瓦礫と化したドリームランドのアスファルトに膝をつき、ただ虚空を見つめていた。
視界が歪む。涙が止まらない。
溢れ出る雫が灰に落ちて、小さなシミを作る。けれど、いくら泣いても、いくらこの灰を抱きしめても、彼は二度と「大丈夫だよ、輪廻」と笑ってくれない。
(どうして……どうして、置いていっちゃうの……?)
脳裏に、走馬灯のように記憶が駆け巡る。
出会った頃の、ぎこちない距離感。
狭くて古いあのアパート。安っぽいお茶を淹れて、「輪廻、お腹空いてないか?」と不器用に気遣ってくれた、あの日々。
戦いなんてなくて、ただ隣に彼がいるだけで世界が色鮮やかに見えた。
初めて手を繋いだ時の、耳まで真っ赤にしていた彼の顔。
恋人になって、二人で迎えた朝の、少し恥ずかしくて、でも最高に幸せだった時間。
「ずっと、側にいてほしい」
あの夜の誓い。
彼はそれを、文字通り「命を賭けて」守り通した。
自分の体さえ灰に変えて、私一人のために、彼は。
(そんなの……守られたほうは、どうすればいいの……?)
彼がいなくなった世界に、もう価値なんてない。
朝日も、笑顔も、未来も。
すべては、この足元に広がる冷たい灰と同じ、色彩のない無へと変わってしまった。
「――無様ですね。愛だの約束だの、脆い幻想に縋った末路がこれです」
地を這うような、重苦しい声。
絶望に沈む私の前に、その巨躯が影を落とした。
魔導騎士アガレス。
白銀の長髪をなびかせ、歪んだ甲冑を纏ったその姿は、文字通り地獄から這い出してきた死神のように見えた。
彼の背後では、響花さんが血の海の中に横たわっている。
その少し先では、鎧の変身を強制解除されたレイジくんが、折れた腕を抱えたまま、ピクリとも動かずに伏していた。
二人とも、生きているのかさえわからない。
助けに行かなきゃいけないのに。叫ばなきゃいけないのに。
私の心は、もう一歩も、指先一つすら動かすことを拒絶していた。
「泣くがいい。その涙こそが、扉を開く最後の呼び水となる」
アガレスの銀髪が、意志を持つ生き物のように蠢いた。
それは細いワイヤー、あるいは鋭利な触手となって、私に向かってしなやかに伸びる。
「……っ!?」
逃げる気力もなかった。
次の瞬間、燃えるような熱さが私の右肩を貫いた。
「あ……がっ……!」
金属質の髪が、深く、肉を裂いて突き刺さる。
焼けるような痛みが脳を突き抜けた。けれど、その激痛ですら、ハルトを失った胸の空洞を埋めることはできない。
痛い。熱い。でも、どうでもいい。
もっと私を壊して。
彼と同じ灰にして。
そうすれば、もう何も考えなくて済むから。
「クハハハハ……ッ! 素晴らしい、この生命の鼓動、この絶望の色! ついに、ついにこの時が来た!」
アガレス――その正体である魔人マルファスが、狂ったような哄笑を上げた。
私の肩から、鮮紅の血が滴り落ちる。
その雫が地面に触れた瞬間、パステルカラーの夢の国は、真の地獄へと変貌を遂げた。
ゴゴゴ、と大地が悲鳴を上げ、空間そのものがガラスのようにひび割れていく。
私の流した「鍵の巫女」の血。
最愛の人を失った、底なしの絶望。
それが儀式を完成させる最後のピースだったのだ。
目の前の空間に、どす黒い魔力の渦が巻く。
そこは、この世ならぬ異界――魔界へと繋がる扉。
扉の向こう側から、身の毛もよだつような咆哮が響き渡った。
無数の魔獣たちが、黒い波となって人間界へと溢れ出す。
空は紫黒色に濁り、ドリームランドのシンボルだった観覧車が、魔力の奔流によって一瞬で塵へと変わる。
そして。
その混沌の渦の中心から、一際冷徹で、圧倒的な圧迫感を持つ「影」が、ゆっくりと姿を現した。
「……長く、退屈な時であったな」
白い髪を優雅になびかせ、蝙蝠のような巨大な翼を広げた男。
その気品ある佇まいとは裏腹に、放たれるプレッシャーは、周囲の酸素さえも凍りつかせるほどに苛烈だった。
彼こそが、すべての魔を統べる者。魔人王バエル。
「マルファスよ。この世界を供物に、我が門を開いたか」
「はっ! すべてはバエル様のため。……さあ、鍵の巫女よ。貴様の血で、世界が塗り替えられる様を特等席で見るがいい」
マルファスに刺された肩から、さらに血が溢れ、空間の歪みを広げていく。
バエルの冷徹な瞳が、絶望に座り込む私を射抜いた。
「この娘が、鍵か。……救いのない顔をしているな。だが、案ずるな。我が統治の下では、死すらも永遠の静寂に過ぎぬ」
バエルが右手をかざすと、夜空が紅蓮の炎に包まれた。
足元を舞うハルトの灰が、その炎に照らされて、虚しく赤く染まる。
ハルト、ごめんなさい。
あなたが命を懸けて守ってくれた私は、今、世界を滅ぼす「鍵」になってしまった。
私は、崩れ落ちたハルトの灰を、震える手で強く、強く握りしめた。
涙も、痛みも、希望も。
すべてが魔界の扉へと吸い込まれていく。
夢の国は、今、完全に死の国へと飲み込まれた。




