約束の果ては、あまりにも脆く(中編③)
空気が、重く沈んだ。
それはただの静寂ではない。
世界そのものが、これから訪れる「死」を知って息を潜めているような、粘ついた沈黙だった。
つい数分前まで、この場所は夢の国だったはずなのに。
色とりどりの風船。
楽しげな音楽。
笑い声。
すべてが今は、遠い幻みたいに思える。
その中心で、魔導騎士アガレスがゆっくりと魔導剣を掲げた。
空が暗く染まる。
「これで、すべてを終わらせましょう」
低く、冷たい声だった。
「この一撃こそ、貴方たちの罪への断罪です」
鎧の隙間から、どろりと黒い感情が溢れている。
それは憎悪。怨嗟。絶望。
人の心が腐りきった時にしか生まれない、濁った感情だった。
アガレスが叫ぶ。
「贖罪重撃!!」
次の瞬間。
ウァッサゴが地面へ叩きつけられた。
そして――
世界が沈んだ。
衝撃波ではない。
重力。
それも、常識では考えられないほどの重力だった。
私たちの周囲数キロメートルの重力が、一瞬で何千倍にも膨れ上がったのだ。
視界のすべてが潰れていく。
建物が軋む。
地面が砕ける。
空気さえも押し潰される。
息ができない。
肺が潰れる。
肋骨が悲鳴を上げる。
喉が、まるで岩で押し塞がれたみたいに動かない。
「ぐ……あ……っ!」
レイジくん――アスタロトがその波動を正面から受けた。
折れた左腕。
満身創痍の体。
それでも彼は踏みとどまろうとした。
けれど。
黒い装甲が砕ける。
まるで紙屑みたいに、彼の体が吹き飛んだ。
「レイジくん!!」
私の叫びは、重力に押し潰されて届かない。
その時。
ふいに、視界が暗くなった。
影。
誰かが私の前に立った。
「……ハルト?」
銀灰色の装甲。
魔導騎士ゴエティア。
右腕を失ってなお、彼は私の前に立っていた。
盾のように。
守るように。
「どうして……」
声が震える。
「どうして、そんな……」
彼の背中が、ぎしぎしと軋んでいた。
重力が装甲を歪ませている。
骨が、きしむ音がする。
「ハルトーー!!」
私は叫んだ。
「ハルト、逃げて!!」
喉が裂けそうだった。
「もういい!!もう戦わなくていい!!」
お願いだから。
お願いだから。
もう、傷つかないで。
「逃げて……お願い……」
でも。
彼は振り向かなかった。
ただ静かに、私を守り続けていた。
そして。
限界が来た。
銀灰色の鎧が、音を立てて弾け飛んだ。
破片が舞う。
重力に押されて、地面へ落ちていく。
その下にあったハルトの体もまた、崩れ始めていた。
時間が、ゆっくりになる。
とても、ゆっくり。
まるで悪夢みたいに。
彼の左腕が。
胸が。
そして、顔を覆っていた仮面が。
燃え尽きた紙のように。
灰になった。
さらさらと崩れていく。
「……輪廻」
かすれた声。
「ごめん……」
それが。
彼の最期の言葉だった。
私は手を伸ばした。
あと少し。
あと少しで触れられる。
彼の頬に。
でも。
指先が触れる前に。
ハルトという存在は――
すべて。
灰になった。
さらり、と。
地面に崩れ落ちた。
何も残らなかった。
重力が消える。
世界が、静かになる。
嵐が去った後みたいに。
耳が痛くなるほどの静寂だった。
煙の向こうに、私は見た。
響花さん。
地面に倒れたまま動かない。
血が広がっている。
少し離れた場所。
レイジくんが倒れている。
鎧は消えて。
体中が血だらけで。
ピクリとも動かない。
そして。
私の前。
そこにあるのは。
灰だけだった。
「……あ」
声が出ない。
喉が動かない。
胸が痛い。
息ができない。
でも。
これはさっきの重力のせいじゃない。
分かってる。
これは。
心が壊れる音だ。
「ハルト……?」
嘘だよね。
嘘だよね。
だって。
約束したじゃない。
ずっと一緒にいるって。
私は震える手で灰を掬った。
温かくない。
冷たい。
ただの灰。
指の間から、さらさらと落ちていく。
「やだ……」
もう一度掬う。
また落ちる。
「やだ……やだ……」
何度やっても。
何度やっても。
灰はこぼれていく。
温もりはどこにもない。
そこにあるのは。
死。
それだけだった。
その時。
心の奥で。
何かが切れた。
ぷつり、と。
音がした気がした。
怖くない。
悲しくない。
怒りもない。
全部。
色が消えていく。
「……ああ」
そうか。
私は。
もう。
生きる理由がないんだ。
かつて私は「鍵の巫女」として虐げられていた。
それでも生きたいと思えたのは。
ハルトがいたから。
彼が。
手を引いてくれたから。
その手が。
灰になった。
「ハルト……」
涙が落ちる。
灰に染み込む。
「待ってて」
私は灰を胸に抱いた。
「……私も行く」
世界はもう。
灰色だった。
夢の国のパステルカラーは、どこにも見えない。
すべてが。
絶望という名の灰で塗り潰されていた。




