約束の果ては、あまりにも脆く(前編②)
窓から差し込む柔らかな朝陽が、整えられたリビングを白く染めている。鏡の前に立つ輪廻は、自身の姿を映し出し、何度目か分からない最終点検を行っていた。
今日のために新調したおしゃれ着は、落ち着いた色合いながらも、随所に繊細なレースやフリルが施された華やかなデザインだ。普段、魔導騎士として戦場に立つ際の機能性重視の装束とは対極にある、少女らしい柔らかいラインを強調するシルエット。彼女は、揺れる房飾りのついたお気に入りの簪を丁寧に髪に差し込むと、深く、一度だけ息を吐いた。
「よし……。変じゃない、よね」
自問自答する声は、期待とわずかな不安に震えていた。
リビングへ向かうと、そこには既に準備を終えたハルトが、ソファに腰掛けて待っていた。同棲を始めてから、朝のこの光景は日常の一部となった。けれど、今日のように「二人きりのデート」のために同じ玄関から踏み出す瞬間は、輪廻にとって何物にも代えがたい特別で愛おしい時間だった。
「お待たせ、ハルト。……どうかな?」
控えめに尋ねる輪廻に対し、ハルトは顔を上げると、一瞬だけ言葉を失ったように彼女を見つめた。
「おっ。……すごく似合ってるよ、輪廻」
さらりと投げかけられた賛辞。そして、当たり前のように響く「輪廻」という呼び捨ての響き。
そのたびに、彼女の胸の奥は甘く疼く。
二人は公然の恋人同士だ。一つ屋根の下で暮らし、想いを通わせ、互いの存在を唯一無二のものだと認め合っている。
けれど、その純潔な関係は、まだ「キス」から先へとは進んでいない。
同じ空間に身を置き、互いの体温を感じられる距離にいながら、未だに踏み越えられない「決定的な何か」がある。そのもどかしさと焦燥が、幸せな日常の裏側で、いつも彼女の心をかき乱していた。
目的地である『ドリームランド・ファンタジー』へと向かう道中、輪廻は隣を歩くハルトの横顔を盗み見ながら、目に見えない「敵」たちの存在を想定していた。
まずは、響花。
「最強の幼馴染」という、輪廻には決して埋めることのできない時間の壁を持つ女性。彼女は、その無防備なまでの距離感と天真爛漫な笑顔で、当然のようにハルトの隣という「聖域」に滑り込もうとする。そのひたむきで一途な想いは、正妻を自負する輪廻にとって、時に心臓を射抜くような鋭い脅威となる。
そして、カレン。
暴力的なまでに完成された美貌と、成熟した大人の肉体。彼女は自身の魅力を熟知し、それを惜しげもなく武器として振るう。隙あらばハルトをその妖艶な罠に絡め取り、強引に我が物にしようと狙い定める肉食の獣だ。
(ハルトは、優しすぎるから……。押しに弱いところがあるんだもの)
かつて響花を含めた三人で訪れたこの遊園地。あの時は、絶えず「幼馴染」の影がちらつき、純粋に楽しむことなどできなかった。
けれど、今日は違う。
幼馴染としての思い出の共有も、大人の色香による誘惑も届かない、二人だけの境界線の内側。
そこで、彼にとっての「本当の恋人」が誰であるのかを、言葉ではなく、もっと確かな形で刻み込みたい。輪廻の決意は静かに、けれど熱く燃えていた。
賑やかなゲートを潜れば、そこは喧騒と色彩が溢れる非日常の箱庭だった。
色とりどりの風船が空に舞い、軽快なパレードの音楽が空気を震わせる。浮足立つ周囲の幸福感に背中を押されるように、輪廻は隣を歩くハルトの手を、勇気を出してぎゅっと握りしめた。
「ねぇ、ハルト。今日は……私のわがまま、聞いてくれる?」
「ああ、いいよ。何でも言ってくれ」
ハルトの穏やかな返答に、輪廻の心拍数が跳ね上がる。
『二人きり』という甘美な響きが、彼女の内に秘めた情熱をさらに煽っていく。
アトラクションの列に並んでいる最中、不意に肩と肩が触れ合う。
戦場で敵を蹂躙する『銀灰色の騎士』としての冷徹さはそこにはない。ただの、少し照れ屋で優しい「男の子」としてのハルトの体温が、服越しに伝わってくる。
暗闇の中を疾走するアトラクション、あるいは密閉された空間となる観覧車。
もし、そこで彼が求めてくれたなら。
あるいは、私の方からその境界線を越えてしまえば。
ハルトを、誰にも渡したくない。
いつか訪れるかもしれない「灰化」という残酷な運命さえも、愛の重さで繋ぎ止め、拒絶してしまえるほどの、絶対的な絆が欲しかった。
幼馴染との輝かしい過去にも、他者の洗練された魅力にも決して揺らぐことのない、決定的な既成事実。
「輪廻? どうした、顔が赤いぞ。どこか具合でも悪いのか?」
心配そうに覗き込んでくるハルトの瞳に、自分だけの姿が映っている。
「……ううん、大丈夫。……ただ、ハルトがあんまり優しいから。……ちょっと、欲張りになりたくなっちゃっただけ」
輪廻は、自身の胸を彼の腕に押し当てるようにしてしがみつき、潤んだ瞳で彼をじっと見つめた。
ハルトが驚いたように息を呑み、わずかに顔を赤らめるのが分かる。その純情な動揺さえも、今の彼女には心地よかった。
響花、カレン。
あなたたちの知らない、本当のハルトを。
この夢の国が終わる頃、私が完全に「完成」させてみせる。
夜の帳が下り、魔法が解けるその瞬間、私たちがどのような「恋人」になっているか……見ていて。
その頃、煌びやかな遊園地の植え込みの影には、明らかに周囲から浮いた気配を放つ二人の男女がいた。
「なっ……なんなのよ、あの女! 胸押し当てるとか、あざとすぎでしょ!? 卑怯よ、反則よ、あんなの公然わいせつ罪で逮捕されるべきだわ!」
大きなサングラスとフード付きのパーカーで必死に変装した響花が、持っていたチュロスの袋を指が食い込むほど握りしめ、歯噛みしていた。彼女の視線の先には、ハルトに密着して幸せそうに笑う輪廻の姿がある。その瞳には、今にも火花が散りそうなほどの苛立ちが宿っていた。
一方、その隣で高性能の双眼鏡を構え、冷静に(というよりは、どこか悦に浸りながら)二人を観察しているのは、漆黒のコートを纏った少年、レイジだった。
「……ほう。心拍数の上昇、瞳孔の開き、そしてあの身体接触の角度。実に興味深いデータだ。あんなに鼻の下を伸ばして……実に愉快じゃないか」
「ちょっとレイジ! あんた何ニヤニヤしてるのよ! このままじゃハルトが、輪廻に食べられちゃうわよ!」
「落ち着け、響花。戦場において焦りは死を招く。……それにしても、いいものを見せてもらった。ハルトのあんなに情けない顔、一生の語り草にできるからな。ああ、今日は来て正解だったよ。実に気分がいい」
「私は最悪よっ!」
嫉妬に身を焼く幼馴染と、親友の痴態を肴に上機嫌なライバル。
魔法の国に潜む二つの影は、幸せ絶頂のカップルを追い、さらなる暗がりへと足を踏み出していった。




