灰の雨、解き放つ音速(後編)
「消えろ、紛い物の騎士」
宣告と同時に、最後の一振りが放たれた。
銀色の閃光が、寸分の狂いもない死の軌道を描き、ハルトの心臓へと迫る。
――遅い。
そう感じた瞬間、ハルトは自分の認識を疑った。
違う。
剣が遅いのではない。
世界が、引き延ばされている。
背中越しに伝わる、輪廻の小さな震え。
空気を裂くはずの響花の叫び声が、遠雷のように歪んで聞こえる。
(……まだ、死ねない)
意識が沈む。
灰色の鎧は限界を迎えていた。
神経は命令を拒み、筋肉は沈黙し、指一本すら動かない。
――ただ、貫かれるのを待つだけの肉塊。
『――ふん。情けない』
脳裏に響く、不機嫌な老人の声。
魔導剣レメゲトン。この鎧そのものの意思。
『まだ死ぬには早いぞ、小僧』
ドクン、と。
停止しかけていた心臓が、乱暴に叩き起こされる。
鼓動が痛みを伴って跳ね上がり、血流が逆流する。
真紅。
血のように濃く、熱を帯びた力が、レメゲトンから全身へ流れ込んできた。
『この力は命を喰らう。貴様の“人間としての時間”を燃やし尽くす劇薬だ』
『それでも使うか? 灰になるぞ』
ハルトは、血の味が滲む口内で、静かに笑った。
(愚問だ)
背中で泣く少女。
床に伏し、血を流す仲間。
(守れない未来に、生きる意味なんてない)
(来い、レメゲトン。命なら――全部くれてやる)
『……よかろう』
老人の声が、わずかに昂る。
『吼えろ、灰燼の騎士』
刹那。
左手に、一本の鍵が顕現する。
血に濡れたような――真紅の鍵。
「うぉぉぉぉぉっ!!」
迫る魔剣を、ガントレットを装備した手で掴み取る。
ガントレットが砕け、血が散るが、痛みはない。
ハルトは鍵を、迷いなくレメゲトンへ突き立てた。
「……換装」
爆ぜた。
灰色の重装甲が、内側から粉砕される。
装甲片が弾丸のように飛散し、魔剣を弾き、床と壁を穿つ。
煙の中から現れたのは――
真紅。
防御を捨て、速度だけを極限まで研ぎ澄ました殺戮形態。
兜の後頭部から伸びる紅のスタビライザーが、熱波に揺らめく。
『ゴエティア・ブースト、じゃ』
「姿を変えたところで――!」
ジークは即座に動いた。
六振りの魔剣、全展開。
空間制圧。逃げ場はない。
「死ね!!」
命を切り裂く、高速の刺突。
大気が破裂し、衝撃波が走る。
だが、ハルトは動かない。
胸部の紋章に、そっと手を添える。
「……生きたいと願う思いを、踏みにじるな」
《Boost Up》
――音が、消えた。
Count: 10
世界が凍結する。
色彩は反転し、時間は粘つく泥のように引き延ばされる。
空中で静止した魔剣。
勝利を確信したまま固まるジークの表情。
涙を零したまま、瞬きすら止まった輪廻。
(……軽い)
ハルトの思考だけが、異常な速度で回転する。
Count: 9
一歩。
それだけで、視界が入れ替わった。
音も風も、すべて置き去りにされる。
Count: 8
魔剣の隙間を縫う。
いや、隙間を作りながら通過する。
Count: 7
レメゲトンが真紅に燃え上がる。
一閃。
輪廻を狙っていた三振りを、存在ごと断ち切る。
Count: 6
返す刀で、響花を傷つけた魔剣を粉砕。
魔界の鋼鉄が、硝子のように砕け散る。
Count: 5
ジークの懐へ。
ゼロ距離。
レメゲトンの刀身が、血を欲するかのように煌めく。
Count: 4
連撃。
右肩、左脇腹、大腿部。
響花が刻まれた箇所を、同じ順番で、同じ深さ以上に。
Count: 3
鎧が悲鳴を上げて崩壊する。
それでも衝撃は、まだ届かない。
Count: 2
輪廻を抱き上げ、安全圏へ。
彼女の体温が、確かにそこにある。
(守る)
Count: 1
再び、ジークの前へ。
恐怖に歪んだ瞳と、視線が合う。
「灰に還れ――アッシュ・トゥ・アッシュ!」
Count: 0
横薙ぎ。
――時間が、再起動した。
ドォォォォォンッ!!!!
溜め込まれた衝撃が、一斉に牙を剥く。
魔剣は砕け、斬撃痕が同時に噴き出す。
「ガ、アァァァァッ!?」
ジークは理解できなかった。
赤い影が見えた、その次の瞬間、全身が裂けていた。
「……10秒だ」
背を向けたまま、ハルトが言った。
「お前が止まっている間、俺は10秒先へ行った」
「こんな……馬鹿な……」
――殺される。
その本能が、行動を起こさせた。
ジークは転移の宝珠を叩きつける。
もはや矜持も目的もない。あるのは、生存だけだ。
静寂。
次の瞬間、ハルトは膝を折った。
真紅の装甲が粒子となって霧散し、生身が露わになる。
皮膚の各所が、灰へと変質していた。
「ハルト!!」
駆け寄る響花。
輪廻が、崩れ落ちる体を抱きしめる。
「……へへ……無事で、よかった」
輪廻は、言葉にならなかった。
ただ、自分のために命を燃やした少年の、熱すぎるほどの体温を感じながら、誓うように強く抱きしめる。
(死なせない……。絶対に、あなたを灰になんてさせない……!)
夜空は泣き出したかのように、静かに雨を降らせていた。
冷たい雫が、砕けた魔剣と血の跡を洗い流し、ハルトの灰化した肌を打つ。
それでも、その雨は――彼の代償までは、消してはくれなかった。
勝利の代償は重く、そして彼らの戦いは、より過酷なステージへと加速していく。
真紅の鍵がもたらしたのは、希望か、それとも破滅へのカウントダウンか。
今はまだ、誰も知らない。




