長雨の終わる刻、鋼鉄の凱歌(前編)
運命というのは、いつだって唐突だ。
しかも決まって、泥だらけの靴で日常に踏み込んでくる。
草薙ハルトにとって、その日も本来なら、なんてことのない一日で終わるはずだった。
大学の講義を終え、頼まれごとのサークル備品整理を一人で片付け、気づけば夕暮れ。
ここ数日降り続いていた長雨はようやく上がったものの、空にはまだ重たい鉛色の雲が垂れ込めている。
「……はぁ。俺って、なんでこう貧乏くじばっかり引くんだろ」
誰もいない廊下に、間の抜けた独り言が落ちる。
困っている人を見ると放っておけない。その性格が災いして、今日も面倒な役回りを押し付けられた。
昇降口を抜け、帰路につこうとした――その時だった。
湿った風に乗って、微かな、けれど切迫した悲鳴が耳に届いた。
「……え?」
空耳か。
そう思って足を止めた、次の瞬間。
――ごとり。
何かが濡れた地面を転がるような、不快な音。
それに続いて、聞いたこともない、低く粘ついた獣の唸り声。
音のする方角は、今は使われていない旧校舎の裏手。
立ち入り禁止のロープが張られた、鬱蒼とした雑木林の脇だ。
(関わらない方がいい。
絶対に、面倒なやつだ)
頭では理解していた。
それでも――ハルトの足は、思考より先に動いていた。
濡れたアスファルトを蹴り、旧校舎の角を曲がる。
そして、彼はそこで「非日常」と衝突する。
「――っ!?」
そこにいたのは、一人の少女だった。
時代錯誤な、それでいて息を呑むほど美しい巫女装束。
長く艶やかな黒髪は三つ編みに結われ、可憐な花の髪飾りが雨露を弾いて揺れている。
少女は泥にまみれ、必死に“何か”から逃げようとしていた。
彼女が振り返り、ハルトと目が合う。
その濡れた瞳に宿っていたのは、はっきりとした――絶望の色。
「逃げて……くださいっ!」
悲鳴の直後、少女の背後の闇が、ぼとり、と膨れ上がった。
それは「異形」としか言いようがなかった。
腐った泥とコールタールを混ぜ合わせたような鱗に覆われた、巨大なトカゲの化け物。
吐き出される息は硫黄の臭いを帯び、鼻の奥が焼ける。
――魔界の獣。
そんな言葉が、冗談のように脳裏をよぎる。
「な、なんだよ……映画の撮影、じゃないよな……?」
足が、言うことをきかない。
本能が、全力で警鐘を鳴らしていた。
――逃げろ。
だが。
目の前で少女が、化け物の鉤爪に引き裂かれそうになるのを見た瞬間。
ハルトの体は、その警告を無視して動いていた。
「危ないッ!」
少女の細い腕を掴み、強引に引き寄せる。
間一髪、化け物の爪が空を切り、校舎の壁を豆腐のように抉り取った。
「え……? あなた、どうして……」
「説明は後だ! 走れるか!?」
答えを待たず、ハルトは少女の手を引いて駆け出した。
だが――人間の足で、あの化け物から逃げ切れるはずがない。
旧校舎の壁と、廃棄された資材置き場。
二人は、逃げ場のない袋小路へと追い詰められていく。




