幕引き
……………
「兄さん! わかりますか? 僕です、喫茶店の倅の……」
喫茶店の店主は先のクルマによる体当たりのせいか、ひどく疲弊しながらも、クルマが地上へ着くなりすぐに飛び出して怪人のもとへと駆け寄った。
彼の語り口は既に喫茶店の老紳士ではなかった。あの日の少年に戻っていた、遠い記憶の片隅にある日の。
怪人の身体は金属部分のほとんどが砕け、鋼鉄の仮面に似た顔も、穴が空き、中にある十もの瞳が影の中で輝いていた。
その瞳はどれも遠い場所を見ていたが、店主が顔を覗かせるとすべてそこへと注がれた。
「あの……。喫茶店の……。誰だ……。あの時の……。私は知らない……。ああ、うるさい……、クソッ……」
混濁するような言葉がほとんど動かない顎の中から漏れてくる。呪いの力がほとんど失われたとて、肉体の癒着と魂の癒着は剥がれない。
怪人の中にある五つの魂は互いに互いを引き合い、外へ意志を示すことを邪魔していた。
だが、店主は、それを仔細に知らされていたわけではないと言うのに、それを理解しているように、語り続ける。
「ええ、僕は何度もあの喫茶店で、あなたに遊んでもらった……。ずっと覚えています……。あなたも、覚えていてくれた……!
ずっと、心残りだったんです。あなたに感謝したくて……。もう一度、会いたくて……!
あなたは覚えていてくれた。あなたはまた来てくれた。また一度会えるとも分からないこの人生で、また会えた……。
すみません、忘れかけてしまっていて。あなたは優しい人だから、気を遣ってくれた」
店主はただ真っ直ぐと、人ならざる姿となった怪人へそう語る。
怪人の闇に包まれた仮面、そこにある十の瞳のうち、四つが目を伏せるように動いた。
そして怪人の口が開く。
「――お、お、俺の……。俺のことを……。何故……? 俺は、コイツは、私たちは、ただの、客の一人……」
「そうかもしれません。でも、僕はあなたに感謝したくて、会いたかった。あなたの優しさに感謝したかった。
――いつの間にか僕は長く生きました、それで思うんです、人が人を覚えていること、それも感謝の念を抱いて覚えられることは、並大抵のことではないと……。
優しい心のあなたを覚えていた人は、たくさん居たはずです」
怪人は口を動かして言う。
「俺は……。俺はそんなヤツじゃない。
家族の苦しみから目を背け、逃げるように生き、自己満足の自己犠牲に倒れ、何の意味もなく改造され、何に使われることもなく封印され、ただ、無駄な復讐に赴いた……。
俺は既に人を殺した。戦場だけじゃあない。目覚めた時には、あの、神田四郎を殺していた……。呪われた罪人だ……。
記録も消され、誰からも忘れられ、覚える人など……」
怪人の身体からガソリンのような黒い液体が流れ出す。それは血のように広がってゆく。
そこへ、様子を見かねたのか、松谷が怪人の顔をのぞき、語りかける。
「おいおい増田さんよぉ、その口ぶりにさっきまでの暴走を見りゃ、神田殺しも暴走だったんじゃあねぇのか?
心神喪失は刑事責任能力ナシだぞ。
それに、アンタの存在はアンタの知らない所にも広まっている。アンタは俺や、このマスター、そこの奴らだけじゃない、もっと多くの人に覚えられているんだ」
怪人は訊く。
「どういう……。こと、だ……?」
「俺のジイさん……。アンタの見知った『松谷健吾』は生きて帰った。そんで5年前に死ぬまでずっと警察の同僚から上司、隣近所に町内会、どこでもかこでもアンタの言ったハナシを言いふらしてんだよ」
怪人の二つの瞳が消え去り、残る四つのうちの二つが涙をにじませる。
「健吾……。生きて帰ったか……。そうか……」
店主もそれに続けて語る。
「この街に居た人たちは、あなたの事を覚えている人も沢山いました。確かにご家族の噂を耳にしていた人もいますが、あなた自身のことを悪く言う人は、ほとんど居ませんでした。
近隣の人や、大学のご学友の方々はあなたの事を心配していました。
そして探されています、今でもそれを継ぐ人もいます、多くの消息が失われ記録が残らなかったとされる人々の中にあなたとご家族は居ました。
それが今――帰ってきた……」
怪人は黒い液体を流しながら震える。そして言葉を紡ぎ出す。
「俺は……。増田太郎は、忘れられていなかった……? 逃げ続けた、俺が……」
店主が語りかける。
「たとえ、あなたが一度『逃げた』としても、あなたを覚えている人たちは、『逃げなかった』『目を背けなかった』あなたを覚えている人たちです。
そんなあなたなら、きっと、必ず、やり直せるはずです。
だってあなたは、死なずにここへ戻ってきたじゃないですか。あなたは十分に、強くて優しい心がある。
後悔を超える心がある」
松谷が膝をついて、続けて語る。
「そうだっ。アンタは自分のことよりも他人を優先できる。当たり前にそれができたから、オレのジイさんはアンタを覚えていた。アンタを担いで退却したっ。
だからアンタは今、後悔できているんじゃないのか?
オレは刑事だ。反省しないヤツ、後悔しないヤツ、ろくでもないヤツ、いっぱい見てきた。それが変わるのも。
アンタはそいつらとは違う。
ただ少し、状況が悪かったり、立ち止まったりしちまっただけだ。そんなヤツだって見てきた。
みんなとは言わねえが、ヤツラ立ち上がって行った、歩き出せたヤツラばかりさ」
怪人の四つの瞳が揺れる。彼は口を小さく動かして語る。
「妹は、俺を許してはくれないさ……。置いていった俺を」
店主が首をふる。
「最後にあったのは、あなたが出征してからでした。妹さんは疎開前、私の店を訪ねました。
あなたが、帰ってきたら会えなかった分だけあなたと居たいと。
あなたが送る手紙が楽しみだと。言っていました」
怪人の瞳、四つのうちの二つが消え去り、残った二つの瞳が涙を流す。それは人間の涙。黒い怪人の液体ではない、透明な涙だった。
身体から流れ出る黒い液体は赤い血へと変わり、増田太郎は一人の人間として口を開く。
「ああ……。そうか……。そう、なのか……。どうして、忘れていたのだろうな……。俺が手紙を送っていたことを……。始めから恨みなどなかったのか、それとも時が赦しを与えたのか……。
家族は皆、先へ行った……。俺も、もうすぐ行かねばならないようだ……」
『ガラララ……』
彼の身体と顔を包む鋼鉄のエンジンや仮面が崩れる。義肢も崩れ去り、身体のほとんどがボロボロと灰となってゆく。
彼の顔は生前の増田太郎へと戻っていた。
店主が涙をこぼして、言う。
「また会えてよかった、兄さん……。僕のことを覚えていてくれて、ありがとう」
「キャッチボールはもう、できないが、夕日は見れそうだ……。夕日を一緒に見てから帰ったな……。妹と、お前と……」
増田太郎はそう言った後、松谷のもとへ顔を向ける。
「松谷ケンイチ……。健吾の話をありがとう。それに……。勇気と知恵を、ありがとう」
「いいんだ……。俺ぁ大したことしてねえ。アイツらのが、体を張った」
松谷が指し示した或人達の方へ、増田は顔を向ける。
「秘匿課……。の皆さん……。ありがとう。私に猶予をくれて。本来なら、もっと早く、捕らえ、砕かれるハズだった……。
――それと、或人くん……」
呼ばれた或人はびっくりしながらも返事をする。
「はい……?」
「私が言えた話ではないが……。だからこそ、言いたい……。
自らを棄てて人を守ることは、いつだって常に美徳となるわけでは無い。徒に人を傷つけることにもなる。それが『逃避』であるなら尚更な……。
私の人生の反省だ……。
既に痛いほどそれを知るキミの人生に役立つかは分からないが……。心の片隅にでも置いてくれ」
「――はい」
或人は心の痛みを感じながら、そう答えた。彼はその言葉の中でも『逃避』という部分を重く受け止め、心に刻むように、小さく反芻した。
「『逃避』……」
増田は或人の表情を見て、笑いかける。
そして、ゆっくりと頭を地面につけ、脱力してゆく。
ゆっくりと目を閉じてゆく。
赤い血を流す身体はやがて枯れ果て、ボロボロと崩れ去る。
胸も、首も、顔も、すべて灰となり、大地へと還ってゆく。
赤い血も地面の中へと染み込んで消える。
そこに残るのは砕けた鋼鉄の部品。人間の跡は何一つ残りはしなかった。
ただ、ここに居た人々の記憶を除いて。




