2.「ルドルフ・フォン・ヴァスタブルク殿下」
婚約破棄からはや数日。
私は王都のはずれにある古い別邸――もとい、即席研究室で暮らしている。
資金はカツカツ、設備もボロボロ。屋根の隙間からは風がピュウピュウ入り、いつも寒い。
季節が暑い時期だったなら、虫も入ってきそうなところ。
けれど、そんなことはどうでもいいのです。
やりたかった研究を、好きなだけできる喜びに勝るものはないのだから!
だから今日も、私は研究に勤しむ。
「よし……今度こそ――」
手にした試験管をくるくる回しながら、結果を待つ。
今、私はある疫病を治す“万能薬”を作るため、試験管に次々と材料を加えていた。
「魔力流路、再調整……あら? 薬草のエーテル濃度が微妙にズレてますわね……」
「じゃあ、ポイントを再設定しましょう……アンバーグリスを足して、調合! これで魔力増幅三割アップですわ!!」
理論上なら、これで薬は完成するはず――だが。
――ボコボコボコッ
「ちょ、ちょっと泡立ちすぎですわ!? ちょ、待っ――!」
――ドッッカァァァァァァン!!!
実験室の窓がガタガタと震え、天井から薬草の葉っぱがぱらぱらと降ってくる。
気づくと全身真っ黒、髪は勝手にアフロ風にヘアアレンジされていた。
「ケホケホ……どうやら、生命素子と魔素媒介液の融合比の見直しから必要ですわね……」
やはり、そう簡単には完成しない。
けれど今回は、“強制再活性化”まで進んだのだから、十分な成果はあった。
「よし、さっそく融合比の見直しをしますわ」
実験とは、試行錯誤の連続。
いくら理論値を出し、最適解を求め、ベストを尽くしても、必ずしも良い結果につながるとは限らない。
ですが、たとえ失敗しても、必ず一つ得られるものがあります。
――それは、“失敗”という名の、貴重な経験。
失敗したということは、どこかで考え方ややり方を間違えたということ。ならば、その原因を見つけ出せば、次は同じ間違いをしない。
よかった。今日も私は、失敗によって万能薬完成に一歩近づいたのですね。
「……実験し続けることで薬を作れるように、人も歩みを止めない限り、失敗という言葉はないのかもしれませんわね……いや、小娘ごときの戯言ですけれど」
一丁前に哲学めいたことを語ったが、箱入り娘の私に、人の人生なんて全然わからない。
それでも、こうして酔ったように哲学っぽく、“人生とはなんぞや――”と独り言をつぶやくのも、悪くないですわね。
次の実験に向けて材料を確認しようとしたら――
「あら? アンバーグリスと薬草モカミールが足りませんわ……買い足さないと」
材料が足りない。
いくら失敗が無駄じゃないとしても、そもそも実験できる状態でなければ、何もできない。
仕方なく、私はアンバーグリスと薬草モカミール、ついでに本日の夕飯を買いに街へ出た。
***
街中を歩いていると、私のことをひそひそと話す声が聞こえる。
「ホラ……あの人よ。例のダス様に捨てられた人、キュリス連合王国元令嬢のマリー。今では、古い館で哀れに一人暮らししているそうよ」
「まあ、令嬢とは思えないボロい服装にアフロヘア……気でも狂ったのかしら」
「ダス様から婚約破棄されたんですもの。無理もないわよ」
私に聞こえないよう小声で話しているつもりでしょうが、こういう自分に関する話は、なぜか遠くでも聞こえるものですね。
言われている通り、今の私は化粧もせず、服装も中古や譲りものばかり。
遠目に見れば、まさに“没落令嬢”そのもの。
王族だった頃の華やかな服装や宝石は、研究施設やその環境づくりのために質屋に預けてしまった――つまり、もう手元にはないのです。
けれど、悲観なんてしていません。本来の私は、人の目なんて気にしない性格。だから、誰にどう思われようが、どうでもいいのです。
むしろ、王族の頃は常に身だしなみを整え、令嬢らしい振る舞いを求められてばかり。
名声も地に落ち、好きなように生きられる今の方が、ずっと気楽なものです。
「……とはいえ、このアフロヘアだけは、さすがに許容できませんわね」
私は近くの店のガラスを鏡代わりに覗き込み、アフロヘアを元のストレートロングへと急いで戻した。
そうして、いつもの行きつけの店に向かいました。しかし、運悪く品切れで――実験材料も、本日の夕飯の食材も、一切ありません。
(まあ、たまにはそういう日もありますわね……)
このときの私は、特に気にも留めず、次の店へと向かいました。
ですが、次の店でも……
「……品切れ?」
おかしいですわ。今日はセールでもやっていたのでしょうか。
そして、次の店、また次の店、さらにその次の店へと足を運びましたが……
「――ない、ない、ない、ない!」
思わず両手で頭を抱えた。
実験材料や夕食の食材のみならず、生活用品も、すべて品切れ……一体、何が起こっているの!?
私は半ば泣きそうになりながら通りを歩いていた。
「どうしましょう、なんで……どこの店も品切れなの? 本日は祭りや特別な日でもないはずなのに……」
「もっと遠くまで探しましょうか……それとも、今日は家に――」
どうしようかと途方に暮れて立ち止まったその時――
「待って! ルドルフ様のお通りだわ!」
「う、嘘、あのヴァスタ帝国の――ルドルフ様!?」
街がざわめき、人々が一斉に道の端へ避ける。
通りの向こうから、護衛を従えた馬車の列がゆっくりと進んでくるのが見えた。
黒と銀で彩られた狼の紋章旗が、風を受けてはためいている。
……間違ありません。あれは、ヴァスタ帝国の紋章。
「……ヴァスタ帝国の皇族が、どうしてこの辺境に?」
思わずつぶやき、少し離れた位置から私は見守る。
やがて、馬車が止まると、顔たちが整った一人の青年がゆっくりと姿を現した。
灰のような銀髪が、薄暗い夕方でも淡く輝く。そして、その瞳は――蒼炎のように、静かに燃える青。
彼の名は――
「……ルドルフ・フォン・ヴァスタブルク殿下」
そう、私は小声で呟いた。
帝国の第一皇子、ルドルフ・フォン・ヴァスタブルク。
大陸の半分を治める巨大国家の、次期皇帝候補だ。
この国、キュリス王国は表向きこそ同盟国だが、実質的にはヴァスタ帝国の庇護下にある。
「……ねえ、やっぱりルドルフ様ってイケメンよね」
「本当にそう! 一度でいいから、あんな人とお話してみたいわ……」
私の隣で、女性たちのひそひそ声が聞こえる。
たしかに整った顔立ちではあるけれど――恋愛より研究が恋人の私には、特に興味はありません。
「キュリス王国の民よ! 聞け! 我が名は、ルドルフ・フォン・ヴァスタブルク!!」
次期皇帝候補に恥じない威厳のある声が街中に響いた。
その声は決して大きすぎるわけではないが、聞くだけで、誰もが思わず見入ってしまうような、重厚さを感じさせる。
事実、ルドルフ様の一声で、ざわめいていた街は瞬く間に静まり返った。
子供たちも、走っていた犬も、商人も、みな足を止め、声の主に目を向ける。
通りを歩く人々の背筋がぴんと伸び、誰もが自然と頭を下げる――まるで、声だけで人々を統べるかのようだった。
……そして、いつの間にか、私も頭を下げていた。
やがて、私を含め、街の誰もがルドルフ様に注目しているのを確認すると、彼はゆっくりと次の事実を告げた。
「昨今、世界中に蔓延する疫病――“クローナペスト“。ついに、このキュリス王国にも侵入した!!」
「……ええっ!?」
思わず大声を出してしまった。
「無礼者!」と護衛に叱られ、私はすぐに謝罪して沈黙する。
疫病――クローナペスト。
それは、いまだ治療法の見つかっていない、不治の病。
初期症状は風邪のように、高熱や喉の痛み、咳を伴う。やがて末期症状に至ると、臓器不全や呼吸停止を引き起こし――そのまま死に至る恐ろしい病である。
さらに恐ろしいのは、その進行の早さ。発症からおよそ一ヶ月で、確実に死が訪れるのだ。
だからこそ、世界中で治療法の確立が急がれている。
そして――何を隠そう、私が研究している薬は、まさにこのクローナペストを治すためのものなのです。
ルドルフ様は話を続ける。
「本日、どの店でも品切れが起きていただろう……あれは、クローナペストが王国に入ったという噂が広まったせいだ。
人々は恐怖に駆られ、日用品や食料を買い占めたのだ。さらには、次回の入荷も疫病の影響で遅れている」
「そ、そんな……」
私は思わず言葉を失った。
そして、同時に納得した。どの店でも、品切れだった理由を。
次回の入荷が遅れるとなれば、食事はもちろん、実験も思うように進まない。
食事は少量でも生き延びられる。しかし、実験が進まないのはつらい。
いや、そもそも私自身がクローナペストにかかってしまえば、志半ばでこの世を去ることになる――それだけは絶対に避けたい。
そんな気持ちが沈んだその時――
「だが、安心しろ……それゆえ、私がここに来た! 君たちの恐怖を少しでも和らげるために、食料と日用品を届けに来たのだ!!」
力強く、そして揺るがぬ決意を込めた声に、街の人々の顔に安堵の色が浮かぶ。
そうして、街の人々は列を作り、順番に食料と日用品を受け取ることになった。
そして――私の番が来た。
「君は……さっき大声を出した女性だな」
ルドルフ様が、まっすぐに私に話しかけた。
高い身長、整った顔立ち。そして、間近で見つめられる青い瞳――。
その瞳は、蒼炎のように静かに燃える青でありながら、氷のように凍てつく冷たさも宿している。
相反する気配が同居するその瞳に、ついついじっくり見入ってしまう。
「どうした?」
黙り込んだままの私に、ルドルフ様が心配そうに声をかけてくる。
「え、えっと……あ、あの時は……申し訳ございませんでした」
しどろもどろになりながら答えた。
おかしい。
普段なら、もう少し落ち着いて話せるはずなのに――。目の前のルドルフ様を前にすると、どうしても心がざわついてしまう。
これは、ルドルフ様の威圧感によるものなのか。それとも――別の理由によるものなのか。
「いや……大声を出したことを謝る必要はない。むしろ、君のように正直に反応する人は好ましい」
柔らかく、しかし芯の通った声が耳に届き、胸の奥に温かさが広がる。
「……名前を教えてもらおうか」
物資を受け取るにあたって、ルドルフ様が静かに問いかける。
「……マリー・フォン・キュリスベルクです」
「マリーか……こちらが食料と日用品だ。体調には十分気をつけるんだぞ」
そう言って、護衛から受け取った袋を、ルドルフ様は私に手渡した。
その瞬間――指先が、ほんの一瞬だけピタッと触れ合う。
「あっ……」
思わず声が漏れ、心臓がドキッと大きく跳ねた。
物資を受け取ったのだから、このまま礼を言って帰るべきだ。
けれど――私は、どうしても伝えたいことがあった。
「あ、あの……失礼ですが、ルドルフ様。差し出がましいこととは存じますが、ひとつ、お願いを申し上げてもよろしいでしょうか?」
「うん? お願いだと? 何だ? 申してみよ」
ルドルフ様が応じると、今度は演技ではなく、自然と大きく唾を飲み込み、慎重に言葉を紡いだ。
「もし、もし……アンバーグリスと薬草モカミール、この二つがあれば、ある分だけ、渡してもらうことは可能でしょうか?」
「何……アンバーグリスと薬草モカミールだと!?」
思いもよらぬ要望に、ルドルフ様の声がわずかに高くなる。
無理もない。いきなりこんなことを言われれば、驚くのも当然でしょう。
ですので、私は、一から説明しようとした。
私もクローナペストの治療薬を開発しており、そのためにアンバーグリスと薬草モカミールが必要であることを――。
その時――
――ガタッ!
馬車の扉が勢いよく開いた。
中から現れたのは、黒いタキシードに、白髪に片眼鏡をかけた中年男性――どうやらルドルフ様の執事様でしょう。
しかし、その表情は尋常ではなかった。
「お待ちください……マリーに、薬草モカミール……思い出しました……」
「あなたは……もしや……キュリス王立魔法学院の出身にして! “癒しの錬金術師”と呼ばれた――マリー・フォン・キュリスベルク令嬢ではないでしょうか!!」




