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Vigor

 ──少年が次に目を覚ましたとき、そこは先ほどとは別の病室だった。

 設備はどこか簡素で、静寂に包まれた室内には、窓から差し込む淡い光が漂う。

 カーテン越しに覗く空は、わずかに明るさを増し、夜明け前の冷たい空気を思わせた。


 枕元には湯気を立てるスープと、香ばしい焼きたてのパンが置かれている。

 そのかすかな匂いが、夢と現実の境を曖昧にするかのように鼻腔をくすぐった。

 少年はゆっくりと手を頭にやると、包帯越しに額の感触を確かめる。外傷の痛みはないが、頭の奥に鈍い疼きを感じる。


 それだけではない。

 胸や手首にも鈍痛があり、皮膚をなぞればそこには確かに手術痕のような感触が残っていた。

 縫い合わされた肌が不自然に張りつめ、そこだけ時間が止まっているかのような違和感がある。


「……ここも病院の中、だよな。今度はどこなんだ……」


 少年はぼんやりとした意識の中で呟く。

 しかし、目に映る景色は、最初に運び込まれた病室とは異なっていた。

 ベッドの配置、時計の位置、備品の並べ方──すべてが統一性に欠け、まるで異なる施設の一室のように思える。


 正面の壁には、大きな窓……というより鏡のようなものがはめ込まれていた。それはまるで、二重に反射する窓のようで、光を鈍く返す。

 その向こう側に何かがあるのではないかという錯覚を覚え、少年は無意識のうちに身を固くした。


 どこからか視線を感じる。誰かが見ている──そんな確信が、理由もなく胸の奥に芽生えた。だが、それを確かめる術はない。

 ただ、不気味な気配に背筋を強ばらせながらも、身体を起こすと、その瞬間、腹の底から獣のうなりのような空腹感が込み上げた。


 迷う間もなく、少年はスープに手を伸ばし、一気にすすり込む。

 塩気の効いた熱が喉を滑り落ち、冷えた内臓にじんわりと染み渡る。

 続けてパンをかじると、口の中でほのかな甘みと小麦の香りが広がった。


「……うまい……」


 それは飢えを凌ぐための餌のようでもあったが、それ以上に、確かに”生きている”という実感を伴うものだった。

 長い闇の中から引き戻された身体に、ようやく温もりが戻る。

 その感覚が、ほんの少しだけ、少年の胸を軽くしてくれた。


 食事を終え、ベッドの背にもたれながら、ぼんやりと天井を見つめる。すると、不意にノックの音が響いた。

 硬質な音が静寂を破り、半透明なガラス越しに人影が揺れる。


「失礼するよ」


 静かながらも老いた声。やがてドアが開き、そこへ足を踏み入れたのは、少年よりも小柄な白衣の老人だった。


「必要な薬品を持ってきたよ。ちくっとするけど、我慢してくれ」


 そう言うと、老人は無造作に注射器を取り出した。

 その針の先には、奇妙なほど鮮やかなオレンジ色の薬液がたたえられている。

 ガラスの筒の中で、それはまるで琥珀のように妖しく光っていた。


 少年の手首に針が刺さる感覚。薬剤がじわりと血管を通り、冷たさと痺れが体内に広がっていく──




 カーテン越しの光は白くぼやけ、窓の外では今日も雪が降り続いている。静かに舞い落ちるそれは、ここに意識が戻ったときと何も変わらないように見えた。ずっと同じ景色。ずっと同じ寒さ。けれど、病室の中の空気だけは、いつしか馴染みすぎてしまったようだった。


 いつからここにいるのか、正確にはわからない。外の寒さが続くことだけが、過ぎた時間の感覚を曖昧にさせる。だが、昨日も、一昨日も、その前も、病室の窓から見えるのは、降り積もる雪と灰色の空ばかりだった。外の世界が前に進んでいるのか、それともただ同じ日々を繰り返しているのか、それさえもよくわからなくなっていた。


 けれど、日に日に伸びる自分の髪や、ナースの顔ぶれが変わっていくこと、病室の空気に慣れすぎてしまった自分がいること——それらが、確かに時間が流れていることを教えていた。


 実際四ヶ月ほどの月日が流れていた。


 病室の窓辺に立つ少年は、うっすらと曇ったガラス越しに、果てしなく広がる雪景色を眺めていた。

 灰色の空はどこまでも続き、分厚い雪の帳が世界を覆い尽くしている。

 しかし、よく目を凝らせば、遠くには黒い壁のように連なる山脈が見える。

 時折、そこから黒煙や、まるで巨大なきのこ雲のような影が立ち昇るのが見えた。


 あの先には何があるのか——少年の胸の奥に、探究心に似た感情が芽生え始めていた。


 病院に運び込まれ、リハビリを重ねるうちに、この国、そしてこの世界についての知識を、少年は少しずつ蓄えていった。

 だが、ここのスタッフはあまり多くを語ろうとはしなかった。何かを隠しているようにさえ思えた。

 しかし、あの老いた医師——この病院の院長と名乗る男だけは、少しずつ外の事情を教えてくれた。


 ──あの日、何が起こったのか。

 ──ともに発見された少女について。

 ──そして、自分自身について。


「……自分はいったい、何者なんだろう」


 少年は、吐息とともにその言葉を漏らす。




 ある午後、少年は診察室へ呼ばれた。


 部屋に入ると、あの院長がカルテをめくりながらちらりと少年を見た。そして、静かに微笑む。

 その眼差しは穏やかではあるが、どこか底知れぬ光を宿していた。


「君の容体は安定している。そろそろ退院しても構わないだろう。……もっとも、行き先がないのなら、こちらで手配してあげられるがね」


 そう言いながら、彼は机の引き出しを開け、数枚の書類を取り出した。そして、言葉を続ける。


「それと、君と一緒に発見された少女のことだが……彼女を君の妹として届け出ることになった。もし嫌なら、拒否しても構わん」


 少年は、思わず院長の顔を見つめた。


「……構わないですよ」


 そう答えると、院長は小さく頷き、書類の束を少年に手渡す。名刺のようなものも添えられていた。その表には、院長のフルネームと役職がきっちりと印刷されている。何気なくそれを裏返すと、そこには奇妙な紋様が刻まれていた。


「このマーク……病院のロゴ、でもないですよね?」


 少年が尋ねると、院長は微笑を浮かべたまま肩をすくめる。


「さあ、どうだろうね」


 その笑顔は丁寧なようでいて、何かをはぐらかしているようにも見える。少年の頭の奥に霧がかかったような違和感が広がる。どこかで見たことがある気がするのに、思い出せない。まるで、記憶の一部を封じ込められているかのような感覚だった。


「……まあ、気のせいかもな」


 少年は小さく呟き、名刺と、幾らかの金をそっとポケットにしまい込んだ。


「それとこれも渡さないとね」


 そう言ってペンダントを差し出してきた。


「これは…?」

「君が手に握っていた物だそうだよ。運んできた者がそう言っていた」


 そう言い、男は小さな金属製のペンダントを差し出した。

 上に持ち上げると開くタイプのようだが、どれだけ力を加えてもビクともしない。

 裏返すとそこにもさっきと同じマークが刻み込まれていた。

 諦めて顔を上げると、院長は何も言わず少年の目を見つめ返した。

 その瞳の底に、何を秘めているのかはわからない。





  — μετά—

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