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命の綺羅

 ——雪の降る音は、こんなにも静かだっただろうか。


 世界がゆっくりと白に塗り潰されていく。

 音も、色も、温もりさえも、すべてが柔らかな雪の帳に覆われ、溶けて消えてゆく。

 微かな風のざわめきは、遥か昔の記憶の断片のように耳の奥をすり抜け、指の間からこぼれ落ちる砂のように儚い。


 冷たい。白い。暗い。


 視界は霞み、現実と夢の境界が溶け合う。まるで深い湖の底に沈み込んでいくかのように、世界は遠のき、輪郭を失っていった。


 ——いつから、ここに横たわっていたのだろうか。


 意識の奥底に、誰かの声が響いた気がする。それは呼びかけなのか、それともただの幻想か。

 必死に耳を澄ませようとするが、その声は薄氷のように儚く、降り積もる雪に掻き消されてしまう。


 動かない。まぶたを持ち上げようとしても、凍りついたように重く、指一本すら思うように動かせない。まるで自分の身体がすでに自分のものではなくなったかのようだ。


 それでも、指先だけはかすかに何かを感じていた。小さな手の温もり——いや、もしかするとそれすらも、ただの錯覚かもしれない。


 雪の静寂がすべてを覆い尽くす中、意識はゆっくりと、音もなく沈んでいく。


 どこまでも深く、深く——終わりのない闇の底へと。





 ——昼が近づく頃、少年はまるで長い夢の底から這い出すように、重たげな瞼を持ち上げた。


 暖かい空気のはずの温もりは感じられず、部屋の空気は氷の刃のように鋭く肌を刺した。

 遠くで風が啼く声が微かに聞こえる。

 その音の向こうに広がるのは、未だ雪に覆われた白銀の世界だと知れる。


 少年は深く息を吸い込み、まるで初めて肺に空気を通すように、その胸を上下させた。そして、ゆっくりとベッドの上に身体を起こす。


「ここは……どこだ……」


 視界に広がるのは、見知らぬ天井。

 壁も家具も、すべてが無機質な白に染められ、最低限の整然とした調度品が整えられている。

 静寂の中に、医療機器がかすかに脈打つような音を響かせていた。


 記憶は霧の中に埋もれ、何を思い出そうとしても、頭の奥に鈍い痛みがじんわりと広がる。

 少年は顔をわずかに歪め、痛みに耐えながら試しに声を発してみた。

 だが、それはまるで空間に染み込むように吸い込まれ、部屋の静けさをますます際立たせる。


「……寒いな」


 薄手のブランケットを肩に掛けるものの、凍てついた足先の感覚は戻らない。

 少年はかじかむ指を小さく擦り合わせる。

 すると──


 ガチャン——


 部屋の扉が唐突に音を立てた。


 白衣を纏った三人の人物が、静寂を切り裂くように足早に入ってくる。

 その中のひとり、眼鏡をかけた若い男が分厚いファイルを抱え、少年の顔をまっすぐ見つめた。

 優しさと緊張がないまぜになった表情は、どこか作り物めいていた。


「体調はどうかな? 少しは落ち着いた?」


 男の声が、氷を溶かすように静かに響く。

 背後に控える二人の女性は、少年の腕に繋がった細い管を手際よく交換していた。

 冷たい液体が静かに体内に流れ込む──薬剤の感触。

 その成分が何なのか、少年には知る由もない。


「ここは……病院、ですよね?」


 掠れた声で問うと、男は淡々とうなずいた。


「そうだよ。君と隣にいた少女が、雪の中で倒れているところを運良く通りがかった人が見つけてくれたんだ。ひどい怪我だったが……。何か思い出せることはあるかい?」


 カルテにペンを走らせながら、男は少年の瞳を覗き込む。

 研究者の目だ──何かを分析し、観察する視線。


「いえ……何も。目が覚めたら、ここにいて……」


 少年は僅かに身を竦めながら首を振った。


「そうか……。では、検査をしよう。何が起きたのか、調べる必要があるからね。少し歩けそうかな?」


 促されるまま、少年はベッドの端に足を下ろした。

 しかし立ち上がろうとした瞬間、視界が揺らぎ、床が波のように歪んだ。

 支えられなければ、すぐに倒れてしまいそうだった。


 看護師らしき女性が素早く肩を支える。その笑みは優しげだが、瞳の奥にはどこか警戒の色が滲んでいる。


 男が先導し、少年は廊下へと導かれる。

 廊下に漂うのは、消毒液の匂い。白い光が均一に床を照らし、わずかに血と薬品の残り香が漂っていた。


 案内された先は、ただの検査室とは思えないほど広大な空間だった。

 壁も床も天井も、すべてが純白。

 窓はなく、天井に冷たい光源が浮かんでいる。中央には大きな椅子──いや、まるで処刑台のような装置。

 その周囲には無機質な機械が整然と並んでいた。

 十人ほどの医師や研究者らしき人々が待機している。

 そのほとんどが白いマスクとグローブを身につけ、まるで精密な手術の準備をするように少年を迎え入れた。


 不安が胸を占領していく。まるで冷たい手で心臓鷲掴みにされているかのように締め付けられる。


「何も心配する必要はないよ。麻酔という物を使うからね」


 誰のものかわからない低い声が、耳をかすめる。


 ──麻酔それがなになのかもわかることなく指示されるまま、少年は中央の椅子に腰を下ろす。すると、白衣を纏ったスタッフたちが手際よく動き、ベルトのような器具で少年の手足を固定し始めた。


 カチャリ——


 カチャリ——


 金属音が響くたびに、少年の背筋が粟立つ。


 医師たちの目は、冷たく澄んでいた。そこには、患者を慈しむ温かさではなく、純粋な「研究対象」としての興味が浮かんでいた。


「大丈夫、少し息苦しくなるかもしれないが……安心して身を預けてくれ。」


 ふわり。


 甘い香りが鼻腔をくすぐる。


 麻酔の気配が、意識の淵に忍び寄る。


 その瞬間、少年の脳裏に稲妻のようにイメージが走った。


 ──白い影


 ── 闇の奥で光る紅い何か


 かすかな耳鳴りと、叫び声。


 それが過去の記憶なのか、ただの幻なのか。


 わからない。


 闇が意識を呑み込もうとする刹那、誰かの声が響いた。


「処置を始める。」


 その言葉は、単なる検査というには、あまりにも冷たく、不吉な響きを孕んでいた。


 少年の意識は朧げで、闇の中を漂っていた。


 かすかに聞こえるのは、幾重にも重なる器具の擦れる音、そして低く鈍い振動。

 その響きが骨を伝い、皮膚の奥へと染み込んでいく。

 金属が硬質な何かを切り裂く、不快な音が鼓膜を苛み、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。


 だが、いくら抗おうとも身体は微動だにせず、喉はひとひらの言葉すら吐き出せない。

 まるで悪夢という名の牢獄に囚われたかのようだった。


「何も……見当たらない……」

「そんなはずは……これでも無いのか」

「なぜだ。なぜあるはずのものが、そこにない……ヘイムダルの鐘はすでに刻み始めてしまったんだろ? くそ、これではまずい……おい早く、早く次を連れてこい……」


 怒りと焦燥が入り交じる声。

 見えぬ誰かの苛立ちが、空気を鋭く引き裂くように少年の耳元で交錯する。

 しかし、それらの言葉の意味を掴むより早く、意識は深淵の闇へと呑み込まれていった。


 ──少年の意識は、そこで途切れた。





— μετά—

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