第十話 蠢動する悪意と逃亡劇の終わり
王都アルベスタインの王城────その一室で、一人の老人が机の上の書類を処理していた。
禿げ上がった頭頂部に、長年のデスクワーク故に不摂生が蓄積してでっぷりと肥大した身体。しかしその身体に似合わぬ速度で、彼の指先は紙に筆を走らせていた。
ガーデル・バーテックス侯爵。
鉄腕のガーデル、と厳つい名で呼ばれることもある彼ではあるが、その見た目に沿った身体能力しか無い。彼が鉄腕と呼ばれる理由は、その書類仕事の速さ故だ。
国家にて王家に従い辣腕を振るう宰相として、彼のもとには日々膨大な書類が雪崩込んでくる。それを捌くためにひたすら筆を走らせ続けた結果、『アルベスタインの自動手記』、『王宮のアンデッド』、『アンタいつ休むの?』と色々と変遷して今の『鉄腕のガーデル』に落ち着いた。
元々、宰相職は四大侯爵家の家職である。代替りごとに持ち回りで引き継いでおり、この時代はバーテックス家の役目になっただけに過ぎない。
(来たか。この忙しい時に…………)
彼が普段通り黙々と机仕事していると、扉の外────廊下側からドタドタと騒がしい足音が響いた。これほど粗忽な人物など限られている。
「バーテックス卿! ルミリアはまだ捕まらんのか!?」
案の定、ノックもなしに扉が開け放たれ、開口一番に文句が飛んできた。
入ってきたのは口ひげを蓄えた中年の男だ。随分綺羅びやかな服飾をしているが、それが平服だというのだから驚きだ。質素堅実を好むガーデルからしてみれば、華美を通り越して警戒色である。まぁ貴族の服というのは他者に対する威圧も含むので、その感想はあながち的外れではないのだが。
ともあれ、その礼儀もへったくれもないその粗忽者────フリッツ・フォン・ルブラン公爵に対し、内心辟易しながらガーデルは口を開いた。
「ただいまセントールが部下を率いて追跡中です。今しばらくお待ちを、ルブラン卿」
「急げよ! アレに逃げられては…………!」
こちらが反逆者になる、とでも言いたいのだろう。だが。
「どうとでもなりますよ、ご安心を」
「何…………?」
「間違いなくラドック伯の所に身を寄せるでしょうし、そのまま隠遁、あるいは逃げても良し。仮に蜂起した所であるのは揺らいだ王権の不安定な大義。それだけ手痛いのですよ、四年前の儀式の失敗は」
政治的な形勢は、依然自分達にあることをガーデルは理解していた。
王家が王家たる所以。この国における王権は、即ち四年周期で行われる儀式の是非に帰結する。建国後八百年────恙無く連綿と続いてきた儀式が、四年前失敗した。
人というのは、今まで当たり前と思っていたものが崩れ去ると途方に暮れるものだ。それが自分達の生活基盤に直結していると尚更。そこに一筋の光が射せば、縋ろうとするのも無理もない話だ。
そしてガーデルはルミリアを追い出したのではない。あくまで、次代を見据えて別策を取ろうとしいただけであり、それを拒否したのはルミリアだ。まぁ、閉塞感を与えるように追い詰めたのは彼であるが。
大義はない。だが、口さがない者が糾弾するようなクーデターでもない。ただ、そこにルミリアの意思が無いだけだ。
「だ、だが…………!」
「要は国民を納得させるだけの事実が欲しいだけなのです、我々はね。アレが逃げようが死のうが、我々の手に落ちようが────結果は変わりませぬ」
「しかし、アルベスタインの血が無ければ龍脈の制御が…………」
この国においての要、そして『宰相派』最大の懸念点がそこだ。この国に流れる龍脈の制御。それには王家の血が要る。
「ルブラン卿もその血は流れているでしょう? 確かに貴方様のお立場は公爵ですが、故に元々王家の補佐血統。ならばこそ、その資格は貴方にもあるはず」
「だが妖精紋も無いのだぞ? それを…………」
「ならば次代まで、龍脈に頼らぬ国家運営を為されば良いだけのこと。他の国はそれをなしていて、我々に出来ぬという道理はございませぬ。その間に貴方があれに子を産ませ、次代に引き継げばよろしい。もとより、此度の件はそういうお話だったはずですが?」
「う、うむ…………確かに、そうだったな…………」
龍脈制御の周期は四年。一応、次の周期は今年になるが、一度失敗したルミリアに成功できるかどうかは疑問がつきまとう。可ならば良し、否ならば次代を育てる必要がある。そう話し合った結果、このフリッツを擁立しルミリアの婚約者として推したのだが────それすらちゃんと理解していないらしい。
傀儡にするつもりで選んだとは言え、相変わらず馬鹿に話をするだけ時間の無駄だな、とガーデルは顔には出さずに口を開く。
「さぁ、幕下の方々にお声がけを。貴方がそれでは、お身内も不安がるでしょう」
「うむ…………では、私は行ってこよう。よしなに頼むぞ、ガーデル」
結局何をしに来たのかわからないフリッツを見送って、ガーデルは椅子の背もたれに身を預け、顔を覆う。
「全く…………。馬鹿の相手は疲れるわ。あれで公爵とは、気楽なものよ」
深い溜息とともに愚痴を吐き、ガーデルは天井を見つめる。
(ここから先、ラドック伯の動き次第ではあるが…………あれも夫に似て傑物だからな。おそらくは、予定通り蜂起するだろう…………)
今後の動きを握るのは間違いなくラドック家の奥方────そして現当主のジュリア・ラドックだ。
国内法における第一継承権があるからこそ当主の座に収まっているが、元は男爵家の出。それも騎士爵家からの成り上がりだが、ガーデルは彼女の辣腕ぶりを評価していた。何しろ血筋だけの能無しがそばにいるのだ。実力があるのならば出自など問わなくもなる。
なんなら参謀としてこちら側に引き込みたいぐらいだったが、敵であると同時に計画の要でもある彼女に声をかけるわけにはいかなかった。敵に回せば向こうも、こちらの意図に気付いて踊ってくれるはずだ。
(まぁ良い。いずれにせよ計画は順調なのだ。どう転んだ所で────もう結末は決まっている)
そう、既に計画は走り出したのだ。
止めることはもう、ガーデルにも出来はしない。
●
シリアスブレイカーズには前衛職が二人いる。レイターと、もう一人────リリティアだ。
パーティ結成当初、三馬鹿は『聖女、まして回復役は後衛職だろ?』と首を傾げたものだが、それは彼等の前世の価値観だ。この世界においての聖女という称号は、完全な実力主義で成り立っている。
確かに回復術式の優秀さは必要だが、それはあくまで大前提だ。十から零まである術式階梯を、その時代で尤も深奥まで扱えることと、それを不足なく扱えることが問われる。この不足なく扱えること、というのがかなり曖昧であり、おおよその基準は初代聖女になっている。
例えば同時代に複数人、第二回復術式まで使える聖女候補がいたとして、その中から選ぶのに求められる要素が単純な戦闘力────つまり、殴り合いなのである。
その事実を知った時、あの三馬鹿が揃って天を仰いだ。『聖女ってアレだろ? お清楚、お淑やかを煮詰めた存在なのになんでそんなに蛮族ライクなの?』と。
前述したように聖女選定は完全な実力主義で成り立っている。そう、最初の聖女────『鉄血聖女』と呼ばれたトーコ・ヨコイに倣って、だ。
その最初の聖女からして、神器片手に軍を率いて味方に補助術と回復術をバラ撒きながら敵軍に突撃するタイプの暴走聖女なのだから、その系譜がどうしてもそうなってしまうのだ。
そしてその基準を満たした上で、鉄血聖女が用いた神器────『回聖天理』に選ばれることが聖女の条件となる。
この回聖天理と呼ばれる神器────見た目が棘付き棍棒の為か、必然的に聖女に求められるが後衛ヒーラーではなく前衛ヒーラーになってしまったのである。
故に、リリティアもまた近接戦闘技術をそれなりに修めており、特にここ最近は三人娘で行動することが多いために、戦闘時は前衛を買って出ることが多い。
翻って今。
「死ね!」
「おいおい、口悪いな。聖女なのに。────いや、だからか?」
槍を構えたリヒターに対して、リリティアは躊躇いもなく棘付き棍棒をぶん回していた。それに対するリヒターは気負うこと無く体捌きだけで回避していく。
決してリリティアが遅いわけではない。
一般的な冒険者から見れば驚異的な瞬発力であるし、その凶悪な武器は見た目に違わぬ強力な破壊力を約束している。だが、それは回聖天理による使用者への補助有りきだ。
センスはある。修練はしている。だが、彼女はまだ十四歳の小娘。
熟練を超え、練達を超え、術理の深奥に至っている師範級相手には荷が勝ちすぎた。
「ちぃっ!」
リリティアが棍棒を振り回し、振り下ろす度に一般人からしてみれば心胆寒からしめる風圧や爆砕音が鳴り響くが、リヒターは呆れた表情で肩を竦める。
「あのなぁ、聖女サマ。勝つってんなら、棒切れ振り回すのにだって技ってのは必要なんだぞ? そんな力任せに振り回してるだけじゃぁ、こうだって────よ!」
「がっ!?」
かと思えば、次の瞬間にはリリティアの懐に踏み込み、槍の柄を首に引っ掛け、同時に踏切り足でリリティアの足を払って投げ飛ばす。綺麗に半回転したリリティアはそのまま背中から地面に叩きつけられ、悶えた。
「硝子ノ鋼!」
そんなリリティアを守るべく、カズハが符を投げてリリティアとリヒターの間に障壁を展開。ハニカム構造の光の壁が出現するが。
「硬さはあるが────そんだけだな、っと!」
腰を落とし、槍を構えたリヒターが一突きしただけで砕け散った。吹き散る燐光で、その一撃に魔力が乗っていたことがよく分かる。先程、カズハの障壁を割ったのもそれなのだろう。
「じゃぁ、これはどう!?」
「おっと! なんだそりゃ? 見たこと無い魔道具だな。ま、飛び道具なら対処法は弓とそう変わらんか」
そのままだと態勢を立て直そうとしているリリティアに追撃されかねないので、ラティアが魔導銃で牽制するが、それも槍で迎撃され弾かれる。時間を稼ぐために連射して追い立てるが、軽いステップで回避されて以降は直撃コースにすら乗らない。
(これは…………駄目ね。流派の聞き覚えないけれど、流石に秘伝を名乗るだけあって────出鱈目だわ)
攻めの手を止めないまま、しかしラティアは胸中で状況を冷静に把握していた。
大枠での魔法使いが十から零までの術式をどれだけ使えるかでランク付けされているように、戦士にもそういった枠組みがある。
前提として、この大陸において二大武術とされている流派がある。
魔法と武術による混合を主とするアルバート流。
魔力による身体能力強化を術理とするエンライ流。
そのどちらもおよそ1500年ほど前に唐突にこの世界に生まれ、根付いた。以降、暖簾分けが如く様々な派閥は増えたが、基礎となる流れはこの二つだ。いくつもある派閥の中でも共通するルールがあり、それが伝位だ。
初伝、中伝、奥伝、皆伝────そして秘伝。
リヒターは先程、アルバート流セントール派の秘伝と名乗った。つまりそれは、魔法と武術を混合させるアルバート流の中のセントール派を修め、且つその中で最高位であることを示している。
ざっくりとランク分けするのなら、所謂師範級であり、対応するならば同じく師範級の人間を連れて来ねば同じ土俵にすら立てない。
順当な実力比較を述べるならば、三馬鹿ではレイターが該当する。
即ち、三人娘にとって相手の実力は遥か格上だ。最低でも三馬鹿の内の一人でも連れてこないと話にもならないだろう。流石にアルベスタイン王国最高戦力と言われるだけある。
(あの三人なら別でしょうけど、わたし達だけじゃ…………)
そんな格上のリヒターが速攻で三人娘を殺しに来ないのは、リリティアという枷があるからだ。
聖女本人、そしてその仲間を殺した場合の影響を考えてラティアやカズハにも積極的に攻撃してこないのだろう。そうでなければ、とうに身体に風穴が空けられている。
「さて、じゃぁそろそろ終わるぞ」
ひたすら回避して見に回っていると思われたリヒターがそんな言葉を口にして、ラティアははっとする。直後、精霊から警告色が視界に飛んできて状況を察した。
「リリティア! 動かないで!」
「え?」
リリティアが自らへ回復術式を行使し終えて、再び戦列に復帰しようとした直後、ラティアに警告されて動きを止める。その僅か数センチ鼻先で、白刃が突然現れて虚空を切り裂いた。止まらなければ、リリティアは直撃を受けて右肩から下を失っていただろう。
「へぇ、勘がいいな。どうせ自分で治せるだろうし────手足の一、二本ぐらいは貰うつもりだったが」
絶句するリリティアに、飄々とリヒターは告げる。
「ま、大した技じゃねぇさ。残光なんて言っても、所詮は斬撃を置いておくだけの術理だしな。時間も貰ったし、逃げ回っている最中にかなり置いた。────もう、お前さん達に逃げ場はねぇぞ」
無論、リリティアを抑えるために一旦見に回ったのだろうが、その間にも遅効性の斬撃をこの周辺に仕込み続けていたという。
この場に三馬鹿がいたのなら、『ガチムチパワーファイターの見た目で設置キャラかよ!? なんという見た目詐欺!!』と突っ込んでいたことだろう。
三人娘の動きが止まる。遅れてくる斬撃が何処にあるか分からない。どれだけ仕込まれているかも分からない。任意発動できるのかも分からない。だが、あの白刃の威力は確実に身体を刻む物だと察することは出来る。
故に完全に硬直した。何しろ相手はカズハの障壁を容易く貫く相手だ。術式に任せて突撃しても、切り刻まれることは明白。
そして動かなければ、リヒターが足を止めた三人娘を殺しに来る。
故に事ここに至って、詰みを三人は自覚した。
「────降ってもいいわ」
そんな中、ラティアがリーダーとして口を開いた。いや、相手が動く前に開かざるを得なかった。
「おいおい。お前さん達、自分が交渉できる立場だと…………」
「わたし達がこの国にいる理由、知ってる?」
「そいつぁ…………」
彼女の言葉にリヒターは言葉を詰め、目を細める。
ただの冒険者ならば気にすることはなかっただろう。だが、この場には|リリティア・ハーバード《聖女》がいる。無論、三人娘からしてみればただの事故と偶然の積み重なりなのだが、そんな煩雑な事情をリヒターが知る由もない。
そして目下、国政が不安定なのだ。そんな状況で、追加で特大の国際問題を抱え込むのはよろしくない。いや、事を構えた時点で結構な国際問題ではあるが一応、正当防衛を主張できるぐらいにはリリティアに攻撃させたのだ。とは言え、これ以上は好ましくないだろう。
その迷いを肯定と見たラティアは、畳み掛けるように条件を付ける。
「条件はわたし達の身の安全。客分として扱うことね」
「姫様にはつかねぇのか?」
「目的地まで同道していただけだもの」
「ラドック領に、何がある?」
「それを含めての交渉よ」
幾分迷いを見せたリヒターであるが、ややあって大きくため息を付いて頷いた。
「……………………妙な真似はすんなよ。力の差は分かってるだろうが────次は、風穴を空ける」
こうして、三人娘は虜囚の身となったのだ。
●
陽が落ちて夜の帳が支配する森の中を、駆ける一筋の光があった。
魔力の羽を羽ばたかせて、木々を縫うようにして奔るその光は、しかし人が走る程度の速度しか出ていなかった。
強い光ではない。不定期に、まるで息切れのように細かい明滅を繰り返し、月明かりだけを頼りに夜の山間部を駆ける。何も知らぬ他国人が見れば鬼火と見て、この国に根付くものなら妖精と見るかも知れない。
(あと…………少し…………!!)
そう、妖精────それに変化したルミリアだ。
リリティアに投げ飛ばされたルミリアは、直後に展開されたカズハの障壁によって防護されながら落着。そしてそのままラドック領を一人目指した。
イドラ渓谷を通る際、四人で決めた作戦の内の一つだ。
最悪、三人娘が囮になってルミリアを逃がすというもの。尤も、まさかあんなぞんざいにぶん投げられるとは彼女も思わなかったが。とは言えその甲斐もあって既にホール子爵領を抜けて、ラドック領まであと一息という所まで迫っていた。
だが。
「いたぞ! あっちだ!!」
その背後に、物々しい騎士達の追撃があった。
何しろルミリアも妖精化したまま飛んでいる。魔力の燐光を吹き散らして飛ぶ彼女は、彼等にとっていい灯台となることだろう。しかし妖精化を解いた所で、箱入りの彼女ではこの森を走ることはおろか、歩くことすら覚束ない。その上、追撃者にはミュール・グレイがいる。
狼獣人で身体能力が高く鼻が効く上に、魔力を《《色で視る》》という『百眼』と呼ばれる特殊な魔眼を持っているため、追跡者としては最上位だ。妖精化を解いて、人の姿に戻って身を潜めたとしても、獣人特有の嗅覚で匂いを辿って場所を特定される。
結果として、ルミリアは妖精化したまま休憩すること無く夜の森をぶっ続けで飛ぶことになった。
(あと少し…………あと少しなのに…………!!)
ラドック領まであと少しではある。だが、この数時間の追走劇の影響で、そろそろ魔力が底をつく。最初の内は高度を上げてショートカットすることで距離を離したりしていたが、流石に騎士団の体力を前に魔力消費の根比べは分が悪すぎた。
ルミリアの魔力量は常人に比べてかなりある方とは言え、数時間飛ばしっぱなしは初めてのことだ。緊張と疲弊、それらが折り重なって彼女の気力、体力、魔力を徐々に奪っていき────今、森を抜けて街道へ出たが。
「あ…………!」
「全く────大人しくなさいませ。姫殿下。こちらも貴女を傷つけたくはない」
魔力の────いや、気力の限界と共に大地に転がったルミリアは、息を荒くしながらもまだ余裕を持ったミュール率いる騎士団に追いつかれた。妖精化も解け、人の姿に戻って完全に詰みとなった。
宰相派に取り込まれたとは言え、騎士の名を冠する者達だ。王族相手に手荒な真似はしないだろう。だが、それでも。
(────助けて! シャノン!!)
彼女はその名を胸中で叫び。
「────全く、人の領地で随分派手にやってくれるじゃないか」
直後、そんな声が夜に響いたかと思うと、轟音がルミリアの横を走り抜けた。
状況よりも音の認識が先であった。轟、と突風が耳朶を打つのとほぼ同時に、ルミリアの眼前、そして近衛騎士達の背後の森の木々が薙ぎ倒されたのだ。そしてルミリアは声が聞こえた方向────背後の足音を捉えて振り返った。
月光に照らされて立っていたのは、一人の女だ。
背が高い大女だ。百八十に届くではなかろうか。灰の軍服に身を包んだその女は腕を浅く組み、寒々しい青い瞳が見下すようにして騎士達を睥睨していた。
「王国を守護すべき騎士が何たる様か。弱いだけならまだ救いがあるが、守るべき主君に刃を向けるとは」
「あ…………」
その大女の酒焼けした声に、ルミリアは脱力した。望んでいた者ではないが、知っている声だ。懐かしい声だ。
「貴様…………何者だ!?」
「何者? どうも貴様ら、立場が分かっていないようだ。────穿て、『氷華砕』」
短縮詠唱と起動式と同時、女の背後に魔法陣が出現し、直後に尖った氷塊が超高速で射出されて近衛騎士達の足元を穿ち、その着弾の衝撃で十名ほど纏めて吹き飛ばした。
「────これで理解したか? 我が領地で跋扈する賊共」
●
立ち上がった砂煙の向こう。月明かりを頼りに目を凝らし、氷のような青い瞳を見つけてミュールは遂に思い至る。
騎士の家系にありながら、魔術を得意とする騎士が昔いたことを。その者は女の身で、単純な力では男に敵わないからと魔術を磨き、やがて王族付きの近衛騎士にまで上り詰めた。騎士爵の出で、そこまでの出世は栄華栄達を極めたと言ってもいいが、ある日突然辺境伯家へ嫁ぐことになって辞職。
以降も嫁いだ領地で辣腕を振るっていたのを知っているが、敢えて騎士団に所属していた時の名を口にするのならば────。
「ジュリア・フォルスマイヤー────いえ、ラドック伯…………!」
「旧姓で呼ばれるのは久し振りだ。なら、死んでない理由は分かるだろう? ────その時じゃないのさ、《《まだ》》な」
ジュリア・ラドックが口元を歪めてそう告げた。その言葉にミュールが背後を振り返れば、吹き飛ばされた部下達は倒れてはいるもののまだ息があった。手足が不自然に折れ曲がり、もう再起不能ではないか、と疑問視するほど重傷な者も多くいるが。
「さぁ、とっとと私の視界から去ねよ、雑兵。そこから先、一歩でも我が領地を踏み荒らせば────次は、その素っ首を消し飛ばすぞ」
ざ、とジュリアが歩を進めてルミリアを庇うようにして前に出る。
それに合わせるようにして、ミュールも一歩引いた。同時に逡巡する。判断に迷う。目標であるルミリアは眼の前であるが、現状の戦力でジュリアに対抗できるかと自問すれば否と返ってくるからだ。
相手はたった一人────ではあるのだが、そのたった一人が異常な戦力であることをミュールは知っていた。かつて、まだ彼が新任だった頃行われた騎士団の親善模擬戦で、一対二百という状況下で圧倒的な勝ちを収めたのがこの女だ。
新人の鼻っ柱を叩き潰すという名目で組まれた、一種のエキシビジョンマッチではあるが、その場にいた全員が地獄を見た。
何せこの女、「気合と根性、それから足腰が弱いな、新兵。では────まずは踊れ」とイイ笑顔で得意の氷魔術を大量に、そして超高速で雨霰と射出して新人たちの足元へ叩きつけたのだ。
所詮氷の礫だ、と甘く見た新人は金属鎧や盾ごとぶち抜かれ、恐怖した新人はわたわたと無様なダンスを体力が尽きるまで踊らされ、逃げ出す新人には「士道不覚悟はケツにぶち込むがよろしいか?」と警告した後でマジ実行。
尚、ミュールはぶち込まれた側である。今、相対して尻が疼くのは気の所為ではないだろう。
対集団、対軍に対して無類の強さを発揮するのがジュリア・ラドックという女だ。そして容赦が無い武断派だ。やると言ったらやるだろう。今度はケツが割れるだけでは済まない。
その上。
「くっ…………退くぞ!」
「よ、よろしいのですか? 副長。供回りもいない今なら…………!」
「むしろだからこそ、だ。同士討ちしない状況こそ、あの方の真骨頂だと思え。それに供回りなら、いる」
視線を巡らせれば、魔力の流れが見て取れた。魔眼持ちのミュールには、周囲に潜んでいる兵が見えたのだ。ジュリアの私兵であろうことは確実だろう。彼女の攻撃の範囲から逃れているが、隙を見せればすぐにでも襲いかかってくるだろう。
「分かってるじゃないか。ならば雑兵と呼んだ非礼を詫びよう。────名は?」
「アルベスタイン第一騎士団副長、ミュール・グレイ。貴方の、二つほど後任になります」
「ほぉ、百眼のミュールか。噂には聞いている。だが流石の魔眼持ちも、伏兵は見通せても大局は見えなかったか?」
「────私は、騎士です。私情に左右されず、上の命令を受けて動くべきです」
その言葉にジュリアは目を細める。
「つまり、貴様はその程度ということか。全く…………不甲斐ない話だ」
「何を…………?」
「いや、何でもない。ならば雑兵から格上げしてやる。────とっと失せろ走狗! そのご自慢の眼を撃ち抜かれん内にな!!」
威圧され、ミュールは歯噛みしながら部下を連れて引き上げていった。
●
「────どうされますか?」
「行かせてやれ。いずれにせよ、そう遠くない内に戦場で相まみえるのだし────おそらくは、セントールの布石だ。アレは戦後の役者であって、今の主役ではないのだろうよ」
「御意」
その姿が消えた段階で暗がりから問いかけがあり、ジュリアは姿を見せない相手にそう告げてルミリアに向き直った。
「ジュリア様…………いえ、ラドック伯…………」
見上げる彼女の姿を認め、ジュリアは小さく微笑んで膝を突き。
「昔の呼び方で構わないさ、姫様。それにしても…………こんなボロボロになって」
「う…………うぅ…………うぅぅぅうぅ…………」
抱き締めてくるジュリアに縋り付くようにして、ルミリアは嗚咽を漏らした。
不敬だな、と思いつつも傷ついた少女を癒やすようにして、ジュリアはしばらくそのままでいた。
こうして、妖精姫の逃亡劇は涙とともに幕を下ろし────アルベスタイン王国の未来を巡るキャスティングが、遂に完了した。
次回はまた来週。




