第十三話 フォーティチュードは諦めない⑪ ~絶対皇帝と笑撃王~
一方その頃、先頭を走るベオステラル――――ツインジェットはと言うと。
「ど、どうしたツインジェット号!ゴールまであと少しだぞ!頑張れ!頑張るのだ!!」
もう無理だよぉ、とばかりに失速していた。様式美とも言う。むしろ序盤からあれほど飛ばしてよく4コーナーまで持ったぐらいである。これがマイルか中距離であれば最低でも掲示板に載るような結果を残せていただろうだけに、いっそ不憫なまである。
彼の不幸は、あくまで屋根が馬鹿であったということだと名誉のためにここに記しておく。
「お先!」
『わるいけど、さきいくよ!』
「なぁっ!?シリアスブレイカーズ!?」
4コーナー序盤、先頭がフォーティチュードに入れ替わる。
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『さぁレースは最終コーナーに突入していきます!先頭に立ったのはフォーティチュードだ!トラブルを乗り越え、尚加速していく!ツインジェットの先頭はここで終わり!』
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先行集団に付けているアスカンドの上で、ダットは胸を撫で下ろしていた。
先を行くフォーティチュードは元々自分が騎乗する馬だった。いや、その前に自分が所属していたバークレイ厩舎の馬だったのだ。今は袂を分かってしまったが、それでもバークレイ厩舎の若手であった彼はフォーティチュードの有り様をそばで見ていた。
だから知っている。
彼がラグ・バークレイの落馬事故をどれほどトラウマにしているか。失意の中、それでもレースを諦めなかったかを。
他の騎手達がバークレイ厩舎を去っていく中で、最後まで残っていたダットはフォーティチュードの限界を悟っていた。勿論、ミソラも同じ様に気づいてはいただろう。だが、彼女は調教師であると同時に馬主――――経営者でもある。時にドライな判断を求められるし、ましてフォーティチュードはバークレイ厩舎に残った最後の駒である。使わない道理はない。
だがフォーティチュードの心は、すでにヒビ割れであった。それがレースの結果に如実に現れていた。もしも次、例え命を落とすことはなかったとしても────落馬事故が起これば彼は完全に心を壊してしまうだろう。
もうフォーティチュードを走らせてはいけない――――騎手として、出場の判断を悩んだ所でアスカンド騎乗の打診があった。だから渡りに船とばかりにバークレイ厩舎を出奔したのだ。乗る騎手がいなければ出場は取り消される。フォーティチュードはそのまま引退し、当面の間は経営は傾くだろう。だが、ダットが活躍すればバークレイの名を広められる。資金も集めやすくなる。そうなれば、きっと再起の目も出てくるだろう。彼は彼で、バークレイ厩舎再建の別解を探し求めていたのだ。
だから昨日、無名の騎手を乗せて出ると聞いた時にはミソラに酷い怒りを覚えたものだ。
腕も何も無い素人を乗せて、まかり間違って落馬すれば今度こそフォーティチュードは壊れてしまう。今ですらラグの死で自分を責めていると言うのにだ。
案の定、何かのトラブルが起きて落馬しかけた。どうにか持ち直したようだが、ダットの脳裏に二年前のラグ・バークレイの落馬事故がフラッシュバックしたぐらいに危うかった。当事者のフォーティチュードは言うまでもないだろう。腕の程は分からないが、根性がある奴で助かったと安堵したぐらいだ。
(だが、そこまでだ…………)
持ち直しはしたが鞍がズレてしまったのだろう。ろくに鐙が踏めず、無茶な乗り方になっている。あれでは最後まで持つかどうか。
フォーティチュードはアリアホースだけあって頭が良いので騎手を庇ってしまうのは明白。そうなれば失速は免れない。スタートからダットにとって憧れであったラグ・バークレイとのコンビを彷彿とさせるレース運びであったが、それもここまで。
そして。
「行くぞ、アスカンド」
既に3コーナーを回り切る。アーリマの直線は短く、仕掛けるならば遅くとも4コーナーの中頃。先行馬としての勝負所が来た。ここで抜け出し、4コーナーを回り切る時には先頭に立って直線で脚を使い切る。
そうすれば一着――――。
「―――――――――え?」
すっと左から影が差す。
そう、右回り中の左、即ち外から黒い馬体がぬるりと現れ――――そのまま先行集団を、いっそ鮮やかなまでに抜き去って行った。
それはまるで、黒い閃光のようであった。
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『絶対が来た!絶対が来た!ここで絶対皇帝ロートリンゲン!先行集団を大外をブン回して一気に追い抜いていく!いつ見ても凄まじい追い上げだ!そのまま先頭のフォーティチュードに迫っていく!』
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ロートリンゲンという馬を見た時、完璧という言葉が思い浮かぶ。
馬体は軽量種に近いが、アーリマに出ている他の馬と比べると中間ぐらい。毛色は影。ステイヤーとしてやっていける十分なスタミナを持ち、この世界では記録されていないが上がり最速33秒以下に迫る末脚を備え、逃げ、先行、差し、追い込みと変幻自在な脚質を使い分ける。
スペックとして既に完成されているが、この馬の真髄は他にある。
この馬はレースを――――より正確には、マカヤナのコースを熟知している。
競馬場をテレビ中継で見た時を想像して欲しい。直線があって、コーナーがあって、まるで平地を走っているように見えるが実際には違う。直線やコーナーへの配置具合は競馬場によって違うが、どの競馬場にも必ず勾配がついている。比較的平坦と言われる札幌競馬場にも若干の高低差があるのだ。
中山競馬場を模したこのマカヤナ競馬場にも坂はある。高低差2.2m、約140m続く日本一と謳われる所謂中山名物が、マカヤナ競馬場にも。
ロートリンゲンはそれを知っていた。目指すゴールがその先にあることも。
故に、彼は序盤から中盤を飛ばさなかった。スタミナを悪戯に使い切らず、脚を貯めた。ゴール前の短い直線。そこで全ての馬に牙を剥くであろう心臓破りの坂を攻略するために。
本来、それは騎手が覚えて馬を手繰るものだ。
だがロートリンゲンは自ら覚えていた。完璧なペース配分を騎手に言われるまでもなく自ら行い、仕掛ける場所も二回目の4コーナーを回り始めた瞬間と決めていた。
これこそがロートリンゲンの真骨頂だ。
コースを熟知し、完璧なペース配分を行い、有り余るスタミナを過不足無く使い切り、伝家の宝刀とも言える閃光のような末脚でゴールを切る。
いっそ完璧なまでのレース運び。
故に『絶対』。
マカヤナ競馬場に君臨する、絶対なる皇帝――――ロートリンゲン。
黒き閃光が、前方の馬達を撫で斬りにしていく。
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4コーナーを回り切る頃、レイターもフォーティチュードも背中に迫る気配に気づいた。
近い。振り返るまでもなく足音が聞こえるのだ。芝に刻まれる四連続のタップ音は聞いたこともないほど高速。
『れいたー!すごいね!「ぜったい」!!』
「あぁ、もうほんの少し後ろにいるぜ!風よけ代わりにぴったり着かれてる!冗談じゃねぇぞこの殺気!あいつ本当に馬かよ!?」
レイターがフォーティチュードの頭を鬣に埋めながら脇越しに後方を見ると、既に一馬身まで迫っていた。それを目撃した時、レイターは抜き身の剣を手にした戦士が脳裏に過った。馬と言うには余りに鬼気迫る追い上げに、命の危機を覚えるほどの幻覚を見たのだ。
これは強い。
絶対皇帝だなんて大層な異名を持つだけはある。
しかし。
『けど!』
「ああ!」
だとしても、だ。
『今日、勝つのは「絶対」じゃない―――!』
吹き荒ぶ風の中で彼等は互いを信じている。
『―――俺達だ!!』
フォーティチュードは、決して諦めないことを。
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そしてマカヤナ競馬場の全観衆が見た。
『さぁ最終直線です!まず飛び込んできたのは15番フォーティチュード!アーリマの直線は短いぞ!このまま持つか!?すかさず9番ロートリンゲンが後方から襲い掛かる!そして今まさにフォーティチュードを捉え────』
アーリマの最終直線。下馬評通り絶対が来た。このまま食い破って一着でゴールするだろうと。
誰もがそう思った。
だが。
『抜け、ない!なんとフォーティチュードが先頭の景色を譲らない!完全にロートリンゲンと並んでいる!不屈の意地が、執念が絶対の抜け駆けを許さない!』
一番人気と、最低人気が最終直線で並んだままになった。
『フォーティチュード粘る!フォーティチュード粘る!不屈が!不屈がアーリマで魂を燃やしている!』
ロートリンゲンの速度は変わっていない。いや、むしろ上がっている。だと言うのに、フォーティチュードがそれに並走している。
何故か。
『ゴールを前にして、二頭の熾烈な叩き合いが始まったぁ!』
不屈が諦めていないからだ。
●
「最後の正念場だ!根性見せろ!相棒!」
「行け!リンゲン!」
背中から相棒の声が聞こえて、隣からロートリンゲンの相棒の声が聞こえた。
そうだよね、とフォーティチュードは思う。勝ちたいのは誰だって同じ。ロートリンゲンにだって、勝たせたいと思ってくれる人がいる。
だけど。
けれど。
「フォーティ―――!!」
大観衆の中、正面スタンドから聞き慣れた声が聞こえた。馬の目は側面によく見える。だから首をよく向けなくても分かる。いいや、見なくても声で分かる。ミソラだ。手すりに乗り出して叫んでいる。ぐしゃぐしゃに泣きながら。
そんなに泣くなよ、とフォーティチュードは思った。
だって今から自分が―――――。
『かつんだからっ!!』
心に最後の鞭が飛んだ。負ける道理が引っ込んだ。フォーティチュードの不屈に最後の火が灯る。
心臓が嘶く。第二の心臓が燃え上がるような熱を持つ。血潮がマグマのように煮え滾り、筋肉が吼える。
生涯最速とも言える末脚を発揮し始めると同時に、自分の何かがガリガリと削られていく。それだけで体力は尽きそうだ。精神は折れそうだ。気力は果てそうだ。
だと言うのに、未だ絶対は隣にいる。凄まじいと思う。だがあっちも苦しいはずだ。その証拠にまだこちらを抜かせていない。
根比べが始まったのだ。これを崩すには、もう一手いる。
だから探せ。己の心臓に焚べる何かを。
後に残っているものは、燃やせるものは――――さぁ、何だ。
(あぁ、そっか。さいごにのこるのはじぶんだ。じぶんしかないんだ)
限界を超え始めたからだろうか。視界がゆっくりとしていくタキサイキア現象の中で、フォーティチュードはそこに行き着いた。
(ぼくはふぉーてぃちゅーど。うまれたときからからだがよわくて、たつのもやっと。おやにもみすてられて、にんげんのちからがなければ、ここまでいきることもなかった)
ラグ・バークレイに拾われて調教を受けるようになった頃、走るのは好きだけど苦しいのは嫌だと、辛いのも嫌だと伝えたことがある。そんな時、彼はあの笑顔で言うのだ。
『そういう時は笑うんだ。辛い時こそ、苦しい時こそ、笑い飛ばしてやるのさ。そうすりゃ気付きゃ、辛いのも苦しいのも終わってるってもんだ』
それは誤魔化しなのかもしれない。目を背けているだけなのかもしれない。だがそれでも、フォーティチュードは笑うようになった。特にレースの終盤。逃げて逃げて体力がなくなって辛くなった時に。頑張れ、もう少しだ、と自分を鼓舞するために。
そう、だから彼は笑撃王なのだ。
(あきらめなかったのはぼくだ。くっしなかったのもぼくだ。いまはしってるのも、「ぜったい」をくつがえそうとしているのも―――)
自らを構成する全てが剥ぎ取られていく。しかし最後に己の名前に刻んだ歴史だけが残った。
彼の名はフォーティチュード。
その名の意味は。
『―――ふくつだ!!』
ざん、と気合一発、踏み込んだ前脚がまるでスイッチのように身体を作り変えていく。蹄が芝を抉る。大地を掻いた蹄鉄が、後方に土を弾丸のようにして弾き飛ばす。
ぐん、と身体が前へ出る。
頭が自然に下る。加速する。
疲れが消えた。加速する。
ストライドが伸びていく。加速する。
ゴールしか見えなくなる。加速する。
並走する絶対すら眼中にない。加速する。
屋根すら気にせず。加速する。
足の回転が上がる。加速する。
ただ1つ、不屈を証明するためだけに―――フォーティチュードは、今こそ最後の加速を叩き込んだ。
ああ、辛い。
ああ、苦しい。
ああ、限界だ。
だからこそ────。
『笑えよ、フォーティチュード』
追い風に変わった6月の風の中に、先に逝った相棒の声が聞こえた気がした。
『あっは………!!』
笑えなくなった馬が、今こそ笑う。
『あははははははははは!!』
速度が乗った。かつて無いほどに風を受けて。苦しさから解き放たれる。理不尽が壊され、理不尽が来る。客席から悲鳴混じりの歓声が飛ぶ。
不屈の体現者が、今再び、誰もいない先頭を行く。
ゴールはもう、目と鼻の先だ。
●
『絶対か!?不屈か!?絶対か!?不屈か!?』
二頭の叩き合いが続く。直線に入ってからの二百メートルをひたすら並走している。
そんな中で、感情の波がマカヤナ競馬場に高らかに響く。
『不屈が…………!不屈が笑っている…………!?』
フォーティチュードの思念波だ。飛ばされてきたのは笑い声。この二年、競馬場に響くことのなかったその笑い声に、実況も思わず言葉を失って――――。
『――――二年振りの笑撃だぁっ!』
即座に復帰した。流石のプロ根性である。
『残り百!不屈が!不屈が抜け出してきた!笑撃と共に、最後に笑うのは俺だと言わんばかりの凄まじい末脚だ!』
ロートリンゲンがジリジリと下がる。いや、違う。フォーティチュードが加速しているのだ。
一歩、二歩、着実にリードを広げ、絶対を突き離していく。
『残り五十!あの絶対が追い付けない!笑撃が絶対を振り切って先へ行く!完全に抜け出した!差が開いていく!一馬身、二馬身!』
そして。
『フォーティチュード!フォーティチュードが来たぞ!笑撃と共に、絶対を打ち破った!一着はなんとこれはびっくり、フォーティチュード!かつて笑撃王と呼ばれた馬がここに奇跡の復活ぅっ!!』
この日、『絶対』は『笑撃』によって覆された。
次回も来週のこの時間に。




