第十二話 フォーティチュードは諦めない⑩ ~魔の第3コーナーを抜けろ!~
レースを見守りながらマリアーネの胸中は数字に支配されていた。
(55、56、57、58、59、60…………)
競馬に限らず、現代地球で凡そ競技と呼ばれるものに関して数字が関わらないものはまず無い。競う者は他の競技者だけでなく、刻まれたレコードや自分自身の記録も含まれる。
取り分け競馬に関して言えばレース前ならその馬の馬体重や前走、調教時の追い切りタイム、レース中なら通過タイムや上がり3Fが重要視される。前者ならばその馬の調子の良し悪しの判断が出来、後者ならばレースの展開に直結するからだ。
翻って、この世界での競馬は未熟だ。
ここまで一都市を巻き込んだ観光産業で、今日の目玉レースで十万人を超える観客を集めているにも関わらず、そのクオリティは未だ草レースの領域を出ない。
故に、通過タイムの概念や上がり最速という言葉が無いのだ。騎手として未熟なレイターが付け込む隙は、そこにあった。
(61、62、63、64、66、67、68、69…………――――やりましたわね、レイ。予定通り1000m通過タイム72秒。有馬の平均通過タイムの10秒遅れ。前が大逃げしたおかげで後ろは警戒しすぎていますわ)
今回のレースに当たり、フォーティチュードが逃げ馬だと聞いたマリアーネはレイターに一つの作戦を授けていた。
と言ってもそこまで難しいものではない。そもそも逃げを得意とする馬だ。今更脚質に合わない作戦を授けた所で付け焼き刃も良いところだろう。並み居る強豪を押しのけてそれが通用するはずもない。ならば、元の特性を活かしたやり方の方が良い。だから頭、あるいは先頭集団に位置づけしたならば、徐々に速度を下げて脚を貯めろと伝えておいた。
所謂溜め逃げと呼ばれる戦術だ。
これが通用する条件は幾つかあるが、まず馬に逃げて差せる実力が備わっていることが大前提だ。
それは追い切り調教時――――と言うよりは最早レイターの慣らしだったが――――に確認している。軽量種に相応しい軽快さと不釣り合いなまでのスタミナであった。あれならば、道中息を入れれば最後にあの脚を使える。
加えて、それを隠すための好材料がいたのが良かった。そう、ツインジェットの存在だ。
典型的な玉砕型の逃げ馬で、まともに付き合えば破滅は必至。案の定今回も大逃げを打って前に出た。だから一部を除いて全ての観客、全ての騎手は思ったはずだ。逃げて途中で潰れる馬がまた逃げた、と。それに付き合ったフォーティチュードもまた駄目だろうと。
故に、スタート直後のダッシュからの先頭の取り合いを演じ、予定通りに先頭集団に着いてそのペースを徐々に落としていた。前が二頭が馬鹿逃げしているのだから、付き合えば自爆に巻き込まれると他の騎手達に錯覚させたのだ。
実際には向こう正面辺りから徐々にペースを落としてスタミナを温存している所なので、通過タイムはそれほどでもない。サラブレッドの上澄みも上澄みの有馬記念での平均タイムが62秒だ。この世界はまだ未熟なのでそれ以下になるのは必定だが、それでも10秒遅れは狙ってやらねば出来ないほどに遅いのだ。
結果、フォーティチュードは脚を貯め、後続馬は貯め殺しの様相を呈すことになる。途中で気づく馬も出るかもしれないが、逃げた分の貯蓄はフォーティチュードに有利を傾ける。
(仕込みは上々。後は――――)
人事は尽くした。経過も順調。ならば残るは隣にいる、勝負師もどきの盤外戦術を蹴飛ばしてやる。そしてそれはレイターとラティアが成すだろう。
(――――このにわか野郎の手をねじ伏せるだけだ)
沸々と煮え滾るマリアーネの怒りを知る者は、未だいない。
●
序盤で飛ばしたために早くもヘバッてきたツインジェットとの距離を詰めつつ、2コーナーを曲がり再び直線に入る。
逃げ馬としての距離貯金を稼げるのはこの直線から次のコーナーまでだ。以降は一方的に目減りしていくだけ。次の3コーナー、4コーナーを巡ればゴールを目指して後続も一気に差を詰めてくる。何しろ最終直線が他のレースと比べて短い。僅か310mしかないのだ。馬のポテンシャルを最大限発揮するために、3コーナーからロングスパートを仕掛けてくる騎手もいるだろう。
自身の体力と折り合いをつけつつ、フォーティチュードはまた別の感情に囚われていた。
『れいたー』
「何だ?」
『そろそろ、ちゅういして』
「来るのか?」
レイターの尋ねに、フォーティチュードは僅かに迷った。この妙な感覚が単にトラウマから来るものなのか、それとも生物的な本能から来るものなのか判断がつかなかったからだ。
『わかんない。わかんないけど、ぴりぴりする』
だが告げる。その忠告を受けたレイターも頷く。
実際に妨害屋の攻撃は正面スタンドから最も遠い場所――――特に3コーナーが多い。仕掛けてくるのならば、次のコーナーなのは彼も分かっていた。
「分かった。ああ、フォーティ」
『なに?』
「避けなくて良い。気にしなくて良い。何があっても前だけ見て走れ」
騎手として、レイターは未熟だ。
乗っていると言うよりは乗せられているという状況に近い。この数日で前世知識も使ってどうにか形だけはモンキー乗りを習得したが、単純に技量を比べた場合、このレースに出ている全騎手中最下位に位置するぐらいには劣っている。
もしもフォーティチュードがアリアホースではなく普通の馬だったのならば、こうまでスムーズに作戦通りのレース展開にはならなかっただろう。
そんな彼の役割はたった一つだ。言うまでもなく、フォーティチュードの邪魔をしないこと。そして。
「お前を空馬になんかさせねぇからよ」
『うん………!』
意地でもゴールまでその背中にしがみついていることだ。
●
3コーナーの外。遮音や防風を兼ねた林の影からレースを伺う女が一人いた。
外套を羽織り、フードを被っているため詳しい容貌は分からない。だが、手にした杖からして魔導士であることは誰でも察することは出来た。
女は元は旅の魔導士だ。特に目的も無く、冒険者の傍らふらふらと諸国を漫遊していたのだが、気軽な気持ちで賭博都市に足を踏み入れた。帝都にも劣らないのではないかと言うほど綺羅びやかな都市をひと目で気に入った彼女はしばらくここに滞在して――――有り金全部スッてしまった。
高級ホテルに数ヶ月連泊しても余裕だった資金は、日に日に目減りしていき、冒険者として稼ごうにも都市化した影響で治安の良いこの周辺では稼げる仕事も特に無く、ならば増やさねばとギャンブルに手を出したのだ。
最初は良かった。
ポーカーで調子よく勝っていた彼女は、これは自分に才能があるのでは? と錯覚するぐらいに金貨を積み上げていた。ビギナーズラックという言葉を知らなかった彼女は、少し負け始めてもまたすぐに取り返せるからと倍プッシュ。そこから先は負債の倍々ゲームだ。
有り金を溶かし、ホテルも追い出されて途方に暮れていた所で――――彼女は一人の男に声を掛けられた。
割のいい仕事がある――――。
そう声を掛けられて彼女は今、妨害屋の片棒を担ごうとしていた。
確かに割のいい仕事だ。魔術を一つ飛ばして当てるだけで、金貨一枚。溶かした金額にはまだ遠いものの、まぁ手痛い勉強代と割り切ってしまえば良い。報酬さえ貰ってしまえば、さっさと次の街へ行って再び勤労しなければならないのがやや気が重いが自業自得と無理矢理納得させる。
レースに意識を戻せば、そろそろ良い位置に指定馬が迫ってきていた。風魔術の詠唱を開始する。
そして。
「………悪く思わないでね」
何の罪もない馬と騎手を狙う良心の呵責か、意味の無い謝罪とともに風魔術が射出された。
●
高まっていたフォーティチュードの不安感が極限に達した。
経験則や理論ではなく本能が叫ぶ。悪意が来ると。それと同時に彼の瞳は魔力の流れを捉えた。あの時と同じ、風魔術の流れ。
二年前と、状況が重なる。
だからフォーティチュードは注意をレイターに促そうとするが――――。
『れい………!』
その甲斐虚しく飛ばされてきた風魔術は、慈悲もなく正確に左の鐙を支える帯に直撃し、レイターは足場を失ってバランスを崩した。
●
『あぁっとここで二番手に付けている15番フォーティチュードのレイター騎手に馬具のトラブルか!?大きく外側へ体が投げ出されている!!』
●
襲いかかってくる遠心力に逆らうべく、鬣ごと手綱を握る両手と鞍に僅かに引っ掛けた右の脹脛でレイターは耐えていた。既に左の鐙は千切れ飛んでおり、投げ出した左足はフォーティチュードの腹の下で振り子の役割となっている。
(痛ってぇっなぁオイ!サーカスの曲芸師じゃねぇんだぞこっちはよぉっ………!)
胸中で毒づきながらレイターは歯を食いしばる。突如として左足に衝撃を食らった彼は、魔術による狙撃と理解した。腕が良いのか悪いのか、相手はレイターの左足ごと鐙を狙って魔術を飛ばしてそれを断ち切った。どうやら足は繋がっているようだが、ヒリヒリする感覚と熱量から血が流れていることぐらいは分かった。
だが、怪我の具合よりも今の状況だ。
アーリマは右回りのコースだ。つまりコーナー中は左に遠心力が掛かっており、踏ん張るべき左の鐙を駄目にされたなら、体は物理法則に従って外に投げ出される。とっさの判断で鬣を掴み、右足の鐙を外して脹脛を鞍に引っ掛けて耐えて騎座変という形で抑えた。その判断をしていなければ、彼の体はターフに投げ出されていたか両足で着地してしまって失格扱いだったろう。
まだレースは続いている。続けられている。フォーティチュードは走れている。ならばここが、レイターの正念場だ。
(こなくそっ…………!)
両腕と右足、そして腹筋で耐えながらレイターは遠心力に抗う。
体を巡る魔力を全開にして身体強化を施せばすぐにでも復帰できるが、そんなことをすればルール違反だ。馬が身体強化する分には仕方がないことなので容認されているが、騎手には専用の魔道具を付けて運営が監視している。ここで魔力を巡らせればたちまち失格判定が出てしまうだろう。
彼は理不尽な物理法則を前に、自らの筋肉だけで抗わなければならなかった。
(上等だ!こちとら何かに乗ることに関しちゃプロだぞ!舐めんじゃねぇっ…………!!)
レイターは騎手としては未熟である。あくまで素人の範疇だ。
だが、乗り物を手繰ることに関しては別である。
この異世界においても前世の地球と同じような物理法則下にある以上、馬の速度――――つまり、時速60km超過は彼にとって慣れ親しんだ速度だ。
そう、トラックドライバーである彼にとって、その速度と遠心力は常に管理して来た側である。
車体が大きな分、そして商品を乗せる関係上、大型トラックが旋回時に発生させるロールは乗用車のそれとは比較にならない。下道の交差点程度ならばそれでも良いが、例えば山間部の高速、例えばビルの間をすり抜けるように敷設された首都高、例えばインターチェンジの無駄に長いジャンクションなどは頻繁に高速コーナーに直面する。
特に首都高のRのキツイコーナーに関しては、安易に速度を落とせばいいというものではない。高速道路で急速に速度を落とせば後続の事故を誘発するからだ。乗用車と違って再加速が難しく、且つ車線の大部分を車幅で埋めてしまうトラックで安全に、更に商品に影響が出ないように曲がりつつ、速度を必要以上に落とさない為には車体のロール――――即ち、遠心力を管理する必要がある。
レイターはジオグリフのように学があったわけではない。マリアーネのように雑学に造詣が深い訳でもない。物理学などニュートン先生ぐらいしか知らない。だが力学は、体と実地で学んできた人間だ。
(まだ…………まだ…………まだ…………!)
翻って今。
3コーナーの終わり頃。来たるべきその瞬間へ向けてレイターはひたすらに耐える。左に掛かる遠心力で鞍に引っ掛けた右脹脛は攣りそうだし、手綱と鬣を巻き込むようにして掴んだ両手の握力が悲鳴を上げている。腹帯は既にズレ始め、いつ鞍が馬体を回って唯一の足場が踏ん張れなくなるか分からない。
(早く!早く来い…………!!)
レイターは焦れながらも待つ。サスが沈み切り、復元するその瞬間を。
このレースで言うならば3コーナーから4コーナーへ移り変わる僅かな直線。即ち、コーナーの頂点。その瞬間だけは、加わっている遠心力が最小になる。
そこに来たならば――――。
「―――根、性ォォッ………!!」
後は、全身の筋肉だけで再び騎乗するのだ。
●
『おぉーっとレイター騎手!絶体絶命の騎座変から再び騎乗した!ものすごい勝負根性だ!運営の判定は――――セーフ!セーフです!なんとあの体勢から魔力を使わないで筋力だけで復帰した!!レースは続行、続行されます!!』
●
「は?」
自分の起こした結果――――鐙を風魔術で切っても復帰したレイターを見た女魔術師は一瞬何が起こったか分からなかった。特に手を抜いたわけではない。指示通りに、目標の鐙を切ってみせた。役目は熟したはずだ。だと言うのに、落馬も失格もしなかった。
(これで依頼失敗とか難癖つけられても困るわ!仕方ない、もう一発………!)
業腹だが支払いを渋られるよりは良い、と再び風魔術の詠唱をしようとした瞬間だった。
「がっ!?」
女魔術師は、その頭部に無属性魔術を受けて昏倒した。
●
正面スタンドの屋上で、立射の体勢でラティアは狙撃の結果を見届ける。
「びゅーてぃふぉー………」
役目を熟した仕事人は、銃口に小さく息を吹きかけた。
魔導銃なので硝煙も出ないのに、何故か妙に様になっていた。
●
落馬直前から持ち直したフォーティチュードの騎手に、歓声が上がる。それを聞きながら、ニッドは小さく鼻を鳴らした。
(ちっ。使えねぇ………。もう一発ぐらい入れとけよ)
トカゲの尻尾切りをしやすいように、金に困っていた旅の魔導士を使った。役目は果たしたと判断したのか二撃目はない。それを金にガメつい女だ、とニッドは思ったが、実際にはラティアにカウンタースナイプされて沈黙しているだけだ。
(まぁ良い。どの道あんな逃げ方じゃ最後まで持ちゃしねぇよ)
念の為にと配置したが、元々がブービー人気の馬だ。最後の追い上げでは勝てはしないだろう、と彼は思って結果を見守ることにした。
そう、この時に至っても彼は気付かなかったのだ。
マリアーネがレイターを通してフォーティチュードに授けていた作戦の真意に。
●
『れいたー!?』
背中の重心が戻ったことを感覚で理解したフォーティチュードが思わず叫ぶ。
「前だけ見て走れっつったろ馬鹿!俺がどんだけ頑張ってもお前が止まっちゃ勝負になんねぇだろうが!!」
『う、うん!』
再び騎乗したはいいが、スタート時のようにモンキー乗りが出来ない。左の鐙は断ち切られて喪失、無理な体勢のお陰で腹帯に連動して鞍までズレた。結果、右の鐙も変な所に動いてしまったのだ。仕方無しにバイクに跨るようにしてフォーティチュードにしがみつく。
両足の内腿でフォーティチュードの背中をロックし、鬣に顔を埋めるようにして「あぁ、モフい。超癒やされる…………」と胸中で呟きながらレイターは叫ぶ。ケモナーは状況を読まないのだろうか。
「いいかよく聞けフォーティ!俺の仲間が理不尽は壊した!俺がお前の理不尽を覆した!つまり邪魔するものはもう何もねぇ!」
どの道騎手として素人のレイターがフォーティチュードにしてやれることはそう多くない。彼はただルールに従うために用意された斤量に過ぎないのだから。そしてその役割は今、最低限果たされた。
故に。
「道を開いてやったんだ!昔のように走れねぇなんて情ねぇ言い訳はもう通用しねぇからな!?だから走れよ!笑撃王っ!!」
『――――うんっ!!』
かつて『笑撃王』と呼ばれた馬の真価が今、問われる。
●
そのトラブルを見届けて安堵したかのように、僅かな息を入れてロートリンゲンはハミを動かした。
それは手綱を伝って、騎手に意思が伝わる。
「リンゲン………」
それを受けた騎手も察した。もうそろそろ3コーナーが終わる。アーリマの最終直線は短い。最終コーナーの立ち上がりまでに先行集団を抜かしておくなら、確かに今がベストタイミングと言える。
既に十分脚は溜まっている。
『絶対』が『絶対』たる所以の、その閃光のような末脚は今日も再び観客を魅了するだろう。
「分かった。行くぞ…………!」
心臓が吠え、筋肉が嘶き、ギアが上がってロートリンゲンが暴力的な加速をターフに叩き込んだ。
そして今、『絶対皇帝』がその真骨頂を顕にする。
続きは来週。




