第三十九話 泥を喰む愚か者達
シリアスさん「どうしよう………私、過去一仕事している………!」
地獄のような光景に、そのケッセル軍の青年兵士は身を震わせた。
楽な仕事のはずだった。
魔物は強い。普段ならば人里から人里へ旅する時や、少しでも人の集まる場所から離れれば現れる奴らは、戦闘職と言える冒険者や軍人でないと安全に処理することも出来ない。元々ただの農民であった青年もその恐ろしさは良く知っていた。
最弱、と称されるスライムやゴブリンでも一般人にとっては脅威なのだ。しかしそんな魔物達が様々入り乱れているのに、素直に人間の言うことを聞いて味方なのだからこの戦争は勝ったな、と緩んでいた。青年のみならず途中参戦した領民、更には元々のケッセル軍人もだ。
そう、思っていたのだ。
「何なんだよ、これは………」
最初は良かった。
トライアードへ侵攻して、砦を落とすまでは皆が皆、意気揚々だったのだ。即座に敵軍が撤退したためそれほど略奪は出来なかったが、もっと深くまで侵攻できれば自分もお溢れに預かれるはずだと。
様子がおかしくなり始めたのは、最初の村からだ。
着の身着のままで逃げ出したのか、村人がいなかった。やけに情報伝達が早いが、まぁそれは良かった。そこまではまだ、常識範囲であったからだ。その次の村から人はおろか、食料や金目のものも無くなっていた。田畑は焼き払われ、井戸には毒が投げ入れられ、略奪を戦略として取り入れているケッセル軍は補給に難儀することになる。
進行ルートの変更を余儀なくされ、大軍故に鈍い動きでの進軍となっていく。そしてろくに補給がままならず、味方であるはずの魔物が空腹からタガが外れ始め、ケッセル軍の一部を襲い始めた頃―――あの悪鬼達がやってきた。
まるで祝詞のように警句を繰り返し、電光石火の如く奇襲し、嵐のように去っていく。
掲げている旗からトライアード軍なのは分かる。だが、鎧に刻まれている蓮の花を徽章とする部隊などあっただろうか。少なくとも直近で軍属となった促成軍人である青年の知識にはなく、しかしその精強さと悪辣さは嫌と言うほど思い知ることになる。
進軍ルートに糞便を塗りたくった遅効性のブービートラップの数々を仕掛け、軍列の中頃になった時に発動させる。そして襲撃に浮足立ったところを気を逸らした先頭や後方の補給隊目掛けて突撃してくるのだ。更には幾つかの首級を上げると即座に撤退し、一息ついた頃には再び襲撃してくる。
その襲撃は夜も朝も関係なく、いつ終わるともしれない恐怖にケッセル軍は慄くことになった。
何人もの傷病者を生み出し、幾つもの部隊欠損を起こしながらようやっと決戦の地に辿り着いた時にはほっとしたものだ。やっとこの地獄が終わる。数の上ではこちらが上なのだから、まともにぶつかり合えば勝利は揺るがない―――そう、思っていたのだ。
蓋を開けてみれば、それこそがまさに地獄の釜の蓋であった。
大地が変形し、神罰が如き炎の柱が降り注ぎ、まるで絵画にあるような地獄が展開される。人も魔物もありはしない。等しく、そして残らず燃やし尽くされる。
どうにかみっともなくも生き延びてみれば―――彼の前に2千人の悪鬼達が立ち塞がった。
掲げるはトライアードの旗、鎧には蓮の花の徽章。
血と泥と傷に、鎧も、手にする大槍も、自身さえも汚しながら―――その悪鬼達は、まるで敬虔な司祭の如くあの祝詞を唱える。
「ぶっ倒れるまでインファイト」
青年は知らない。かつて悪鬼達が腐った自分を叩き直し、泥に塗れ、本当の弱さと強さを知った事を。
「ぶっ倒れるまでインファイト」
青年は知らない。悪鬼達が恐れを捨て、揺らぎを捨て、愚連隊の名のまま愚直に10年の時を駆け抜けた事を。
「ぶっ倒れるまでインファイト」
青年は知らない。領内で既に精強と謳われながらも何故、未だ愚連隊の名に拘るのかを。
「ぶっ倒れるまでインファイト………!」
そして青年は知るはずがない。悪鬼達の隊に、何故蓮の名前が付けられているのかを。
「お、おぉおぉおぉおおぉおおっ!」
近くにいた仲間が吼える。蛮勇を振るい、手にした武器さえ手放して悪鬼の一人しがみついて動きを止める。
「い、今だ!やっちまえ!!」
そして仲間は青年に向かってそう叫ぶ。
「く、くそっ!」
震えは止まらない。だが身体は動いた。ここで動かねば自分が死ぬ。半ば反射的な動きだ。
だが―――。
「やった………!」
その槍の一突きは、確かに悪鬼の鎧を貫いて腹に突き刺さった。
●
その男にとって死はいつでも身近にあった。
元は孤児の出だ。両親など知らず、気づけば似たような連中と肩を寄せ合って誰かの糧を盗んで生きてきた。それを今でも悪いとは思っていない。生きるためだ。仕方がないと開き直る気はないが、単に持ち得る稼げる手段が非合法であっただけのこと。貴族が領地を運営するように、農民が畑を耕すように、商人が商いをするように、盗人が盗みを行っただけ。
泥に塗れ、泥を喰み、暗い未来へと向かって歩む愚か者。報われることはなく、褒められることもなく、ただ日々埋没し、約束されていたのは末の野垂れ死に。
そうであったはずだ。そうでなければならなかったはずだ。
だが、どんな人間にも転機は訪れる。男の場合は―――。
「敢えて言おう。―――カスであると!」
救いの主の、罵倒付きであったが。
そこからの日々は目まぐるしかった。今までが生温く思うほどの訓練に、だけど腹いっぱい食える環境。弱かった腕っぷしも授けられた知恵で補い、いつしか訓練で身体が鍛えられてくるといつの間にか強くなっていた。
それは男だけではなく周囲もだった。やがて連れ立って外に出て、冒険者の手に負えないような魔物の討伐任務を主立ってやるようになると、領民から感謝されだし、それに伴って志願者も増えだした。
しかし、創設者である救いの主は一部を除いて拒否した。驚くべきことに父である領主、ラドグリフの要請であっても蹴った。それも内々でも無く、評定の時にだ。
父親、そして領主の顔に泥を塗ってでも断るというそのあまりの頑なさに皆が驚き、ついには直談判する者さえ出る始末。特に士分階級の次男以降の食い詰めが多く、騎士家である自分よりも何故庶民ばかり集めるのだとやっかみの対象にもなっていた。
だが、あの救いの主は隊を批判する一部に毅然とこう言った。
「どうして愚連隊に蓮だなんて名前をつけたと思います?」
あまりに騒ぎになるものだから、主だった者たち全てを城内に集め、当時8歳であった救いの主は一席ぶつ。その堂々たる佇まいは、まるで歴戦の政治家のようでもあった。
「蓮の花は不思議な植物でしてね。泥水が濃ければ濃いほど綺麗な花を咲かせるのです」
蓮の花は、綺麗な水でも、肥沃な土でも育たない。
「彼等は汚泥の中で暮らし、生き、精神すら底に沈めてきた。きっかけは確かに与えましたが、苦難に崩れ、夢に挫折し、間違いばかりの人生を歩み―――それでもと与えられたきっかけで根性を見せてものにしたからこそ今の彼等があるんですよ」
泥の中で、他者から見れば汚れの中の栄養を吸い取って成長する。
「それに引き換え君達はどうだ?騎士家に生まれ、その家柄を随分と誇るが自らの手で何かを為したか?」
思い返せば、隊に入れなかった者達は皆、口を開けば自らの出自であった。直談判してきた者達もだ。
「僕も貴族だ。だがトライアードの名を他人に誇ったことなど一度もない。その名と誇りは先祖が積み上げ、長兄が継ぐべきであり、僕はいずれ在野に下ってただのジオグリフとして生きるからだ。いずれ捨てる名に、如何程の価値がある?」
確かに救いの主はトライアードを名乗ることはあっても、その知恵も、その馬鹿げた魔力も、変わった魔法ですら自分で作り出したものだと言っていた。一度として、少なくとも隊員の前でトライアードの権力を振りかざしたことはない。あの出会いの大乱闘ですら、彼は一個人として戦っていた。出自を知ったのは、男が敗北して警備隊に引き渡された時だ。
「彼等は始まりから自分一人で戦ってきた。間違いもする。迷いもする。転びもする。泥だらけにもなるし、汚れだってする。だが彼等は家族や仲間の手助けはあっても、最後には自分の足で立ってきた人間だ。だから生まれ変わる権利を手に入れた」
蓮の花の命は短い。わずか4日。それでも種を残し、再び咲き誇ることから生まれ変わりの代名詞になることがあるという。
「士分問わず、愚連隊に入れたのはそういう人間だ。そういう人間でなければならないのだ。みっともなくとも、一人でも、例え泥中でも足掻くことを忘れぬ人間でなければ。僕の態度を頑なだとか、何故庶民ばかりだとか足りない頭で考えもしないで良くも言う。逆に問おうか―――直談判すら家名と親同伴の君達に、彼等以上の価値があるか?」
家名を笠に着て、自ら足掻きもしないで親に頼る。直談判に来たのは、そういう連中だ。入れなかったのは、そういう連中だ。士分でも入れたのは、身一つで門を叩いた者だけだ。
「否だ!泥に塗れ、生まれ変わる覚悟の無い者、今に満足しているような温い連中に、隊に入る資格はない!そして、被った泥一つ、傷一つ誇れぬ人間など信用できるか!!」
故に、この時に男―――否、隊の在り様は定まった。
泥を喰み、血に塗れ、されど得た傷を誇って何度でも愚直に咲き続ける蓮の花―――ロータス愚連隊であると。
そう。
ここで折れれば、このまま倒れれば、自身の誇る《《傷に傷がつく》》。
それは許せない。許してはならない。愚連隊である自分が、命をただで散らしてはならない。
意識が再起動する。気づけば腰の剣に手が伸びていた。
そしてまた、今も生きるために、生きる場所を守るために、救い主によって齎された警句を口にする。
「―――ぶっ倒れ………!」
合言葉を口にしかけて止める。
否だ。
救い主はきっと、その先を望むはずだ。生まれ変わることを彼らに望んだ救い主ならば。
だから、続けるとするなら―――。
「―――てもっ!」
勝ったと安堵する敵を、血反吐を吐きながら睨みつける。
青年だ。多分元は農民。その顔の幼さが、傷の無さが、「今回の戦は楽だから」と信念無くやってきたのだろうと察するぐらいには甘ったれだ。
そんな人間に負けるのか。
そんな人間に殺されるのか。
―――否だ。
冗談ではない。
自分の命は安いだろう。名もなく死にゆく一兵士に過ぎないのだろう。
されど、あの泥に塗れた日々は、それを誇りできたあの日は、誇りを胸に槍を掲げる今は―――決して安くはないのだ。
タダでなど、絶対にくれてやるものか。
男は自らを貫く槍の柄を掴み、握力だけで粉砕する。
失われていく血液と反比例するように、心の臓が熱くなる。冷たくなりつつある指先に、かつてないほどに力が宿る。踏み込んだ足が、具足越しに砂粒が分かるほど感覚が鋭敏になる。
剣を引き抜く。陽光に照らされる刃は、まるで蓮の花弁のように鮮やかに―――。
「―――ィィィィイン、ファイトォォォォオォッ!!」
その銀閃は、彼の生き様のように綺羅びやかに疾走った。
●
「ひっ………!」
青年が突き刺した槍が握り壊されたと認識したと同時、翻った剣閃に気づき、その時には全てが手遅れだった。
世界が回る。
いや、回っているのは青年の首。
今際の際に過ぎるは疑念。何故、殺したはずの悪鬼がまだ動くのか。その一端を、回る世界で認識した。
(治って、いく………?)
悪鬼が突き刺さった槍の破片を胸から引き抜けば、その先から傷が塞がっていく。青年は知る由もないが、ルドグリフの補助魔法の一端だ。
そう、即死さえしていなければ、緩やかではあるが自動回復する。但し、ただ回復するだけだ。痛みはある。ショックで死ぬことも。そもそも失血すら補うことは出来ない。壊れたまま整復するので、後遺症さえ残る可能性すらある。ただ死を先延ばしにするだけの効果。リスクがないはずがない。
だが、彼らはそれを望んで受け入れ、痛みも苦しみにもゲラゲラ笑って耐える。
今までの人生難に比べれば何するものぞ、と。
(化け、物………い、や………)
悪鬼は傷だらけのまま剣を振りかざし、戦叫。呆気にとられたまましがみついていた青年の仲間を、返す刀で斬り殺すと更に前へと出る。首だけになって地に落ちた青年は、薄れゆく意識の中で、尚も戦いへと赴く悪鬼の背中を見てどこか憧憬にも似た感情を覚えた。
(英、雄………)
そして青年は死の間際に知った。
血と泥に塗れた悪鬼だけが許される伝説に、自分は敗れたのだと。
次回はまた明日。




