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ホラー小説

バーチャルかくれんぼ

作者: 真霜ナオ

初投稿作品になります。お手柔らかにお願い致します。

 温暖化の進行によって、酷暑と呼ばれるような日々が続く昨今。

 子どもたちにとっての遊び場は、いつしか日の当たる屋外から、エアコンの効いた快適な屋内へと変化していた。


 その中でも、室内にいながら離れた場所にいる相手ともやり取りができる、オンラインゲームの世界にハマる人間も少なくはない。

 ことVRを使用したバーチャルの世界は急速に進化し続けており、今や現実との境目がわからなくなるくらい、リアルな世界観が売りとなっているソフトも続々と登場していた。


 以前と変わらず、自身の姿とはまるで異なったアバターを使う人間も多い。

 しかし、近年ではプレイヤー自身が本当にゲームの世界に入り込んだかのような、没入感の高いゲームが人気を集めていた。


 それに伴い、一人称視点のゲームはもちろん、使用するキャラクターにも変化が生まれ始めている。現実世界の自分自身に、限りなく似せたアバターを作って遊ぶ人間が多くなったのだ。

 リアルに近い容姿でのゲームプレイは、現実世界に繋がる男女の出会いなどにも一役買っているようだった。もちろん、友人同士での遊びにおいても活躍してくれる。


 離れた場所に住んでいたとしても、同じ景色や体験をリアルに共有することができるのだ。ただ単に同じゲームをプレイするというだけではなく、共に旅行をしたりするような思い出作りをすることもできる。

 これまでゲームに興味が無かった層にまでも、圧倒的な人気を見せていた。


 新沼春人(にいぬま はると)もまた、そんなバーチャルの世界に夢中になっている一人だ。

 高校生活も二年目に突入し、夏休みになると春人は部屋に篭りきりのような状態になっていた。心置きなくゲームに熱中できる長期休みを、逃す手はない。

 もちろん課題は山のように出てはいるのだが、それは追々片付ければいいだろう。


 実家に住んでいるということもあって、朝から晩までゲーム三昧、というわけにはいかない。時には親が乱入してきて、その会話がボイスチャットに入ってしまい、友人に笑われることもある。

 それでも深夜にかけての時間帯であれば、そんな家族の邪魔も入らないのだ。


 せっかくの夏休みではあるが、昼間ともなれば40℃近い。外に出るだけでも蒸し焼きになりそうな暑さなのだ。直射日光の当たる場所ならば、気温はさらに高いことだろう。

 そんな中でわざわざ出歩くような気にはなれなかった春人は、友人からある誘いを受けていた。


VRを利用して、『バーチャル肝試しをやらないか』というものだ。


 近年発売されたソフトの中には、世界観のリアルさを活かした自由度の高いゲームも多くなってきている。遊び方は人によって様々で、奇抜な遊び方を特集したまとめサイトまで登場するほどだ。今回誘われたゲームもそんなソフトのひとつだった。


 ゲームの中には選択できるマップが複数存在しており、設定を変えることでFPSゲームとして遊ぶこともできれば、バーチャルな旅行体験をすることもできる。

 そんなマップの中から廃校を選択して、肝試しをしようというのだ。


 実際の廃校に足を踏み入れれば、不法侵入として扱われてしまう。そもそもが建物の老朽化で危険度も高い上に、変質者が潜んでいたっておかしくはない。

 そういった危険性をゼロにした上で楽しむことができるのも、バーチャルの世界の良いところだった。


 六畳ほどの自室の中で、パソコンに向き合った春人はヘッドホンを装着する。少し値は張ったが、遮音性が高く音質も良いものだ。少ないバイト代を注ぎ込んだが悔いはない。


 ゲームを起動してから、接続したVRゴーグルで目元を覆う。こうすると、一気に現実世界から遮断されたような気分になる。春人はこの瞬間が好きだった。

 少し待つとタイトル画面が現れ、春人は慣れた手つきでゲームパッドを操作していく。

 フレンドからの招待を受けて画面が切り替わると、そこは見慣れない古びた教室の中だった。今回の目的地として選ばれたのは、廃墟と化した二階建ての木造校舎だ。


「……うわ、超リアル」


 このゲームの売りは、自由度の高さに次いだマップのリアルさだった。

 実在する場所を参考に制作されたとの噂だが、とても作り物とは思えない。目の前にある机を見ても、普段教室で目にしている机そのものと同じなのだ。実写だと言われても信じてしまうだろう。


 違いがあるとすれば、廃校という場所柄、机の脚が錆びていたり天板の部分が欠けていたりすることくらいだろうか。机と椅子の低さから見て、ここは小学校をモデルにしたマップなのだろう。


「エグいなこれ、マジで廃校じゃん」


「ッ!」


 突然聞こえてきた声に、驚いて机から顔を上げる。教室の入り口に立っていたのは、よく見知った友人の姿だった。


「ビビらせんなよ、お前がこのマップにしたんだろ。他のみんなは?」


「招待飛ばしたからもう来るんじゃね?」


 そう言いながら春人の方へと歩み寄ってきたのは、馬場勝行(ばば まさゆき)。春人のクラスメイトの一人であり、今回肝試しをしようと提案してきた人物だ。

 綺麗に刈り上げられた後頭部を撫でつけながら、勝行は教室内をぐるりと見回す。


「女子がいりゃ盛り上がるとは思ったけど、リアルすぎて西村とか泣いちまうかもな」


 案じているかのような口振りとは正反対に、勝行の口角は意地悪く持ち上がっている。そうなるかもしれないとわかっていて提案してきたのだ、春人には泣かせる気満々だと言っているようにしか見えない。


 そうこうしているうちに、招待を受けた友人たちが淡い光の中から次々に姿を現していく。


「ヤバ、廃校リアルすぎでしょ!」


 最初に現れたのは、麻木惠美(あさぎ えみ)だ。茶色がかったショートボブの髪に、吊り気味の猫目は気の強そうな印象を持たせる。──実際に気が強く口が達者で、春人は何度も言い負かされた経験がある。

 勝行と一緒に悪ノリすることも多い彼女は、好奇心旺盛な性格をしている。今回の誘いにも、真っ先に参加の返事をしていた。


「コレ絶対出るじゃん! バーチャルお化けってスクショ撮れんのかな」


 続いて現れたのは、遠藤洋司(えんどう ようじ)だ。校則に従って普段は黒髪だが、アバターだけは金髪に変えているという髪は後頭部でちょろんと結ばれている。

 勝行とは悪友で、クラス内ではチャラ男としても有名だが、実は奥手なのだという事実は仲間内での秘密になっている。お調子者だが、根は悪い奴ではない。


「……私、やっぱりやめとこうかな」


 最後に現れたのは、怖いものを大の苦手としている西村一穂(にしむら かずほ)だ。長い黒髪をお団子にまとめ、楕円形の赤い眼鏡をかけている。

 グループチャットでの誘いが来た際には、彼女は来ないだろうと春人は予想していた。しかし、女子一人では心もとないという理由で、惠美が強引に説得をしたようだ。


 比較的何事にも動じない自信のある春人ですら、あまりにもリアルな廃校という場に少しの恐怖を感じたのだ。怖いものが苦手な一穂であれば、その心中には相当の恐怖心や後悔が渦巻いていることだろう。


「大丈夫だよ一穂! アタシもいるし、男共も三人もいるんだし! ちょーっと頼りないかもしんないけどさ」


「ちょっと待て、他はともかく俺は頼っていいだろうが」


 励ます惠美と勝行のやり取りに、強張っていた一穂の表情が少しだけ和らぐ。近年のVRは、プレイヤーの表情もある程度の反映をしてくれることに、春人は場違いな感動を覚えていた。


「とりあえず、リアルと同じで23時くらいの設定にしてきたから結構暗いし、各自アイテムに懐中電灯入ってるだろ。それ使って照らしてくれ」


 勝行の指示に従って、アイテムボックスを開いてみると、確かに懐中電灯だけが入れられている。それを選択して試しにスイッチを入れてみると、より臨場感が増したように思える。


 裸眼で見える校舎の中は、窓から射し込む月明かりのみが頼りとなっている。ある程度は目視することができるが、やはり明かりがある方が安心感は段違いだ。何より本当に廃校を訪れているようで、リアリティが増すようにも感じられた。



「勝行、コレってマップは使えない設定?」


 洋司が問いかけると、勝行が頷いたのが見える。春人の方でも確かめてみるが、確かにこのゲームで使用できるはずのマップを開くボタンは反応を見せない。


「おう、その方がリアルっぽいだろ。実際に廃校探検行ったとしたら、マップなんかねえんだしよ」


 確かに勝行の言う通り、リアルの世界ならマップを見ながら肝試しはしないだろう。

 どこに何があるかわからない、その不明瞭さが肝試しの恐怖を引き立たせてくれるのだ。


「んじゃ行くぞ、遅れんなよ」


 そうして勝行は、教室の出口へと向かっていく。その後ろに洋司、怖がる一穂をぴたりと腕に張り付かせた惠美が続いていく。

 必然的に最後尾となった春人は、歩くたびに軋む床の音のリアルさに、恐怖と感動を覚えていた。


 VRの世界では、リアリティを追及するのであれば、映像のほかには音にこだわるしかない。商業施設などで体験できるVRであれば、揺れや匂いなども追加されるのだが、さすがに自宅で体験できる範囲には限界がある。

 それでも教室の引き戸を開ける音や、時折どこからか吹き付けてくる隙間風の音は、まるで本物そっくりのものだった。


 ゲームパッドを伝って、繊細な振動も感じられる。そんな技術の進歩に感心していると、先頭を歩く勝行が廊下の突き当りにあった教室の扉を開けていく。

 一穂の小さな悲鳴に、室名札に明かりを向けると、そこには『理科室』と書かれていた。

 入室していく彼らに続いて中を覗いた春人は、入り口のすぐ傍に人体模型が置かれていたことに驚く。それと同時に、一穂が悲鳴を上げた理由も理解できた。


(これは西村じゃなくてもビビる)


 口には出さなかったが、より一層密着して歩く女子二人の姿を見て、春人は少し同情してしまう。──正確には、一方の女子は特に怖がっている様子はないのだが。


「理科室もスゲーな、ホルマリンとか中身まできっちり入ってんじゃん」


 そういう勝行は、手近なホルマリンの瓶を手に取ってしげしげと眺めている。マップ内には触れられないものもあったりするが、基本的にはどのオブジェクトも触れることができるように作られている。

 蛙らしきものが入ったホルマリンの瓶は、埃で汚れていて中身をはっきりと視認することはできない。勝行が腕を振る動きに合わせて水音まで聞こえてきた。


「ウチの学校にもあるけどさ、あんまこういうのマジマジ見たりしねえもんな。キッモ」


 瓶をライトで照らす洋司は、渋い表情をしながらも瓶にその顔を近づけている。

 春人も棚に置かれたホルマリンのひとつを覗いてみるが、あまり見ていて気持ちのいいものではない。どこからともなく、薬品の匂いすらしてくるような気がした。


「学校の中だとさ、やっぱ理科室と音楽室とかがホラーの定番だよね」


 ホルマリンの瓶には特に興味が無いのか、惠美は周囲をライトで照らして新しい何かを探している。一穂はどこを見ても怖いのだろう、もはや惠美の二の腕に顔面を押し付けたような状態だった。


「あとトイレ! 花子さんとか出てきたりしねえかな」


「そこまでプログラムされてたら凄いな」


 怪談話の定番ともいえる名前が挙がると、春人はホルマリンの瓶から洋司へと視線を移動させる。肝試し用のソフトではないとはいえ、これだけのリアリティがあるゲームならば、そういったサプライズも仕込まれているかもしれない。

 とはいえ、そんなサプライズが本当にあるとすれば、とっくにネット上で広まっているのだろうが。


「…………」


「……? 勝行、どうかしたか?」


 この話の流れで、次はトイレに行ってみようと真っ先に提案してきそうな勝行が、なぜか黙ったまま瓶を見つめている。それを不思議に思った春人は、彼に声をかけてみた。

 他のメンバーも同じだったようで、自然と勝行に視線が集まる。


「……なあ、いいこと思いついたわ」


 手にしたままだった瓶を棚に戻した勝行は、ニヤリとした笑みを浮かべる。それはろくでもないことを考えている時の彼の顔だと、春人は直感した。


「肝試しもいいけどよ、固まって動いてちゃ怖さ半減だろ」


「確かに……」


 雰囲気で恐怖を味わうことができるとはいえ、五人ならば十分な団体行動だ。この場所へ一人で来ていたらと想像すると、バーチャルの世界と理解していても、より恐怖を感じていたかもしれない。


「かくれんぼしようぜ」


 その予想外の発言に、目を丸くしたのは春人だけではなかった。

 怖いもの知らずで男らしくもある勝行の口から出るには、到底似つかわしくない単語が飛び出したのだ。


「い……いや、かくれんぼって……!」


 思わず笑いだしたのは洋司だが、その頭はすぐに勝行によって叩かれる。実際には叩く動作をしただけなので洋司にダメージはないのだが、視界は揺れたのだろう。現実世界でも同様のツッコミを受けることのある洋司は、その動作だけで笑いを飲み込む。


「マップ自体そこまで広くはねえが、一人で歩き回るには結構雰囲気あるだろ。隠れる側も探す側もよ」


「……うん、みんなで歩き回るより面白そうかも」


 それに賛同したのは、惠美だった。その横では、可哀想なほど顔面蒼白になっている一穂の姿もある。彼女には五人固まって歩くだけでも精一杯だったのだ、当然だろう。


「や……無理、私……ホント無理……」


 嫌々と首を振る一穂は、今にも泣き出しそうだ。ただでさえ怖がりな彼女を一人ぼっちにするような真似は、さすがに可哀想に思えて意見しようと口を開きかける。

 けれど、そんな春人よりも先に惠美が彼女の説得に入ってしまう。


「大丈夫だよ、一穂。リアルならともかく、ここはバーチャル。ゲームの世界なんだよ?」


「そうそう、リアルだったら俺だってココでかくれんぼとかヤだし」


 洋司も加わり、ここはあくまでもゲームの世界であるのだと強調する。現実世界なら危険が伴うこともあるかもしれないが、どうしても怖くなったらゲーム自体から逃げ出してしまえばいいのだ。


「どうしても無理ってなったらゴーグル外しちゃえばいいし、チャットしてくれたらアタシが迎えに行くし!」


 二人からの説得に、悩むように一穂が俯く。ここで彼女がリタイアしたとしても、それは仕方のないことだ。そもそもが乗り気ではなかったのだから。

 けれど、説得に応じた彼女は小さく頷いてから顔を上げた。


「……わかった。怖いけど、ゲームだもんね。私もやるよ」


「さすが一穂、そうこなくっちゃ!」



 そうして、五人でかくれんぼをすることが決まった。

 バーチャルの世界でかくれんぼをするなんて、全員が初めてのことだった。幼い頃にリアルの世界でかくれんぼをした経験はあるだろうが、バーチャルの世界でそれをやるという発想が無かったのだ。


(そもそも、高校生にもなってかくれんぼすることになるとは思わなかったけど)


 理科室を出た五人は、最初に集合した教室へと戻っていた。

 ルールは簡単で、視界の右上には20分の制限時間が表示されている。その制限時間の間に、鬼は校舎内のどこかに隠れている四人全員を見つけるというものだ。

 マップの外には出ることができない仕様になっているので、屋外に隠れることはできない。

 じゃんけんの結果、鬼をやることになったのは春人だった。


「それじゃ、また後でね」


「万が一ゲーム抜けるってなったらチャットで報告な」


 そう声をかけて、各々が教室を後にしていく。その背中を見送ってから、春人は静まり返った教室の中央で一人立ち尽くしていた。

 全員が隠れるまで、5分ほどをここで待機していなければならない。

 先ほどまでは見慣れた友人たちの姿があり、声も聞こえていたのでさほど恐怖は感じていなかった。けれど、勝行の思惑通りというべきか、一人きりになると話は違っていた。


 始めは聞こえていた複数の足音も次第に遠ざかる。耳に届くのは、老朽化した建物が時折軋むような音と隙間風、そして自身の心音が聞こえてきそうなほどの深い静寂だ。

 普段はより深い没入感を演出してくれる高性能のヘッドホンが、今は少しだけ恨めしい。

 とはいえ、こんなにもリアルな恐怖を体感できるのは今だけなのだ。怖いという感覚も楽しもうと、春人は時間が経つのをじっと待ち続けた。


 随分と長時間に思えた数分が経過し、春人はようやく動きだす。教室を出て、廊下の突き当りに理科室があるということ以外、この校舎の構造はまったくわからない状態だ。

 まずはどこから探していくべきかと考えながら、手近な教室を覗いてみる。人影は見当たらないが、わかりやすく隠れているはずがない。机の下はもちろん教卓の下や、ロッカーの中などを手当たり次第に探していくが、人影はなかった。


 自分の足音だけが異様に響く校舎内に、懐中電灯の明かりがやけに恐怖を煽る。教室から出て視線を向けた廊下の先は真っ暗で、別の世界に続いているのではないかと思えた。


「誰でもいいから、まずは一人見つけたいな……」


 解散前に繋いでいたボイスチャットは、場所がバレてしまう可能性があるので全員オフになっている。必要になれば文字でのチャットも打てるのだが、最初にそれを打つとすればギブアップした一穂だろう。

 一番怖がりな女子が頑張っている以上、自分が最初に音を上げるわけにはいかない。


 続いて廊下を進んでいった先に、青と赤でそれぞれに男女のマークが描かれたトイレがあった。逃げ場のない場所だが、ここに隠れている人間もいるかもしれない。

 廃校とはいえ、真っ先に女子トイレに入るのは憚られる気がして、春人は手始めに男子トイレのドアに手をかける。ゲームパッドで操作をしているので、重さを感じることはない。


 けれど、ドアを開く際に伝わる微妙な振動や軋む音が、本当に目の前のトイレのドアを自分の手で開けているかのように錯覚させた。

 中には手洗い場のほかに五つの小便器と、三つの個室があった。中はかなり薄暗い。

 足を踏み入れると、先ほどまでの廊下とは異なりタイルの上を歩く音がやけに響いて、思わず動きが止まる。横を見れば、洗面台に備え付けられた鏡は汚れている。そこに、ぼやけるように映り込む自身の姿に心臓が跳ねた。


(っ……鏡にも映るのかよ)


 昔プレイしたホラーゲームの中には、プレイヤーの姿が映らないものも多かった。それを心霊現象だと笑ったこともあったが、鏡に映り込むという当たり前のことが、今はとても心臓に悪い。

 深呼吸をして、改めてトイレの中を見る。隠れるとすれば個室の中しかないのだが、耳を澄ませても物音はしない。しかし、息を殺して潜んでいる可能性もゼロではない。

 意を決して、春人は手前の個室から順に扉を開けていくことにした。


 中に人がいなければ、始めから扉が開いたままのタイプの個室であれば良かった。けれど、残念ながらこのトイレはそうではない。中に誰かがいたとしても、それは霊ではなく友人なのだから、恐れる必要はないのだと言い聞かせる。

 思い切って一つ目の扉を押してみると、そこには和式の便座があるだけだった。次いで二つ目の扉を開けた結果も同様だ。


「うわ……っ!」


 残る三つ目も空振りに終わるだろうと油断していた春人だが、開けた瞬間思わず声を上げてしまった。中には幽霊も人間もいなかったのだが、赤黒い色をした大きなムカデが、便器の中で蠢いていたのだ。

 顔を顰めながら、春人はすぐにトイレの扉を閉めてその場から足早に遠ざかる。


(廃墟だからって、虫までリアルに再現されてるとか聞いてねーし……!)


 叫びたくなる衝動を、心の中でどうにか留める。鳥肌の立った腕を擦りつつ、次に女子トイレも覗いてみたが結果はハズレだった。


 続いて見つけたのは、保健室と書かれた室名札だった。

 ここも隠れやすい場所ではあるだろうと踏んで、春人は思いきりドアを開いてみる。音に驚いて反応があるかと思ったが、自分の立てる音以外に特に聞こえる物音はなかった。


 保健室のベッド周りのカーテンはすべて閉じられていて、誰かが隠れていてもおかしくはない。校舎全体が隠れ場所とはいえ、一人くらいは早めに見つけておきたいものだ。

 念のために机の下や棚の影などを確認してから、二台あるベッドのカーテンを順に開いていく。ベッドの下も覗いてはみたが、ここもまた空振りに終わってしまった。


(クソ……一人も見つけらんないとかさすがにバカにされるだろ)


 視界の右上に表示されているタイムリミットは、無情にも減り続けている。急いで次の場所へ移動しなければならないと、春人が踵を返しかけた時だった。


「…………?」


 何か物音がしたような気がして、立ち止まる。近くに誰かがいれば足音などは聞こえる設定になっているが、基本的に隠れた場所から移動をするのはルール違反だ。

 気のせいかと思ったが、再び歩き出そうとした時、今度は確かに声が聞こえた。


「モ……イ……」


 女性の声にも聞こえたが、それは惠美や一穂の声とは違うものに思えた。


(西村がギブアップして俺を探しに来た……?)


 始めはそんな風に思いもしたのだが、そもそも自分たちには文字チャットという手段がある。ギブアップするほどの恐怖に晒されている彼女が、わざわざ一人で春人を探しにやってくるだろうか?

 少しずつ、足音が近づいてくるのがわかる。それは、靴音ではなくペタペタと、裸足で廊下を歩いている音に聞こえた。呼吸が僅かに浅くなる。


 ここは招待された友人同士だけが遊ぶことのできる場だ。同じソフトを遊んでいるユーザーであっても、招待されなければ入ることはできない。そんなプライベートな空間に、見知らぬ誰かが存在するはずがないのだ。


(勝行か洋司が、誰か勝手に招待したのか?)


 あの二人のことだ、可能性は否定できない。けれど、かくれんぼをしている最中に、断りもなしにそんなことをするだろうか? 少なくとも、人数が増えたのであれば鬼である自分にチャットで事前に報告をするべきだ。

 考えを巡らせている間にも、足音と声は着実に近づいてくる。


「モウ、イイ、カイ」


「……!」


 やはり女性の声ではあったが、春人には明らかに聞き覚えがない。隠れている人間を探す立場であるはずの春人は、反射的にカーテンを閉めて、一番奥のベッドの下へとその身を滑り込ませた。そして、慌てて懐中電灯のスイッチを切る。

 ベッドの下は埃だらけで不衛生そのものだったが、今はそんなことを気にかけている場合ではない。バーチャルの世界で、そもそも気にかける必要もないのだが。


 何者かはわからないが、直感的に彼女に見つかってはいけない気がした。

 目線を向ければ、カーテンの裾の隙間から保健室のドアまでが見通せる。近づいてきた足音がピタリと止まったかと思うと、開いたままだったドアの向こうから真っ白な二本の足が、部屋の中に入ってくるのが見えた。


 ゆっくりとした足取りで、何かを探しているように時折動きを止める。その足元を見る限り、同い年くらいか、もう少し下の少女のようにも思えた。


「モウ、イイ、カイ」


 彼女は誰なのか、どうやってこのサーバーに入ってきたのか、もしかしたら違法な手段を使った荒らしなのかもしれない。必死に可能性を探る春人だったが、ただひとつわかるのは、彼女に見つかってはいけないということだけだ。

 早く去ってくれという願いも虚しく、彼女は隣のベッドの下を覗き込んだようだった。次は間違いなく、春人のいるベッドの方へと向かってくるに違いない。


 ここは部屋の一番奥のベッドで、隣にあるのは壁と、システムの仕様上で開けることのできない窓だけだ。抜け出すのなら、彼女の横を通り過ぎるほかない。

春人にはもはや、逃げ場がなかった。


 ペタリ、ペタリと近づいてきた足音が、春人のいるベッドの前で止まる。目の前には女の子らしい小さな踵があって、瞬きも忘れて凝視してしまう。次の瞬間、彼女は倒れ込むように床に這いつくばって春人を視界に捉えた。


「ミ、ツケタァ」


「うわああああああああ……ツ!」



 叫び声と共に、春人の視界が眩しいほどに明るくなる。思わずきつく目を瞑ると、次に後頭部に衝撃が走った。


「ちょっと、何叫んでんのよ。近所迷惑でしょバカ!」


「…………え……姉貴……?」


 痛みと共に目を開けると、そこにいたのは自宅にいるはずの春人の姉・春歌(はるか)だった。その手には、VRのヘッドセットとヘッドホンがある。

 周りを見れば、そこはつい今しがたまでいた廃校ではなく、見慣れた自分の自室だった。


「イヤホン借りようと思ったらまたゲームやってるし、こんな時間までVRやってたら頭おかしくなるよ」


 そう言いながら、春歌は慣れた手つきで机の上の引き出しを漁る。すぐに目当ての物は見つかったようで、それを片手に部屋を出ていった。その姿を目にしてもまだ、春人にはリアルの世界に戻ってきた実感が湧いていなかった。


 バーチャル世界の中で、彼女と目が合った瞬間、本能的に終わったと思ったのだ。

 長い黒髪の隙間から覗く瞳は暗く濁り、口元には歪んだ笑みが浮かんでいた。その姿を、現実のことのように鮮明に思い出せる。


 心臓が痛いほどに鳴り続けているのは、突然ゴーグルを外されたからではないことは、春人自身が一番よくわかっていた。


(姉貴が来なかったら、俺……どうなってたんだ……)


 バーチャルの世界での出来事なのだ、普通ならばどうにかなっていたとは思えない。けれど、とてもそうは言い切れない心境になっていた。


 ゲームはまだ起動したままだったが、再びゴーグルを装着する気になれなかった春人は、まだゲーム内で隠れているであろう友人たちに文字チャットを送る。

 調子が悪くなったので抜けるという内容には、心配する声やビビったのだろうと茶々を入れるメッセージが入り混じった。彼らも今夜はここまでにするらしく、終わりにするという連絡を受けて、春人もゲームを終了させたのだった。



*  *  *



 翌日、昼近くまで眠っていた春人は、スマホの着信で目を覚ました。

 着信は惠美からのもので、寝ぼけ眼を擦りながら通話ボタンをタップする。こちらが応答するよりも先に、通話口の向こうから惠美の声が聞こえてきた。


「春人、ちょっといい?」


「ん……なに、どうかしたか?」


 欠伸を漏らしながら返事をする春人とは異なり、惠美の様子がどこかおかしい。布団の中で寝返りを打ちながら問いを投げる。

 低反発の枕に自身の体温が移って、このままならいい感じに二度寝ができそうだ。


「あのさ……一穂と連絡取ってたりしないよね?」


 問いに問いを返されて、寝起きの頭は上手く回ってくれない。春人と一穂は同じグループで遊んだりすることはあるものの、個人的な繋がりはないといってもいい。むしろ中学時代から付き合いのある惠美との方が、よほど仲は良いはずだ。

 だというのに、なぜわざわざそんなことを聞いてくるのだろうかと当然の疑問が湧く。


「ないよ、西村と個別に話すことないし。昨日ゲームしてから今まで寝てたし」


 一穂どころか、誰とも連絡を取っていない。そう言い切る春人に、惠美は思案するように口を閉ざしてから思いがけないことを告げてきた。


「……一穂、行方不明だって」


「…………は?」


 言葉の意味を理解できずに、春人はだらしなく寝そべらせていた上体を起こす。スマホを持ち直して彼女の声に改めて耳を傾ける。


「一穂のお母さんから電話があって、昨日は家にいたのに今朝になったらいなくなってたって」


「いなくなってたって……どっか出掛けただけじゃなくてか?」


 未成年とはいえ、もう高校二年生なのだ。一人でどこかに出掛けたとしても不思議ではないし、行方不明と断定するには尚早すぎるように感じられた。

 しかし、スマホの向こうから聞こえる惠美の声は、いつものような明るさが感じられない。明確に緊急事態なのだと告げているような、切羽詰まった声色だった。


「アタシも最初はそう思ったんだけど、玄関にはチェーンが掛かってたし、靴とか鞄も置きっぱなしだったって……家中見たけど、窓とか全部閉まってたって」


 彼女の言っていることが事実なのであれば、家は完全に密室状態だ。よほど巧妙なトリックでもない限り、一穂は神隠しのようなものにあったことになってしまう。そんなことが現実に起こり得るのだろうか?


「それに、ゲームがつけっぱなしだったんだって」


「……!」


 その言葉に、なぜか昨晩のあの少女の姿がフラッシュバックする。

 仮に彼女の意思で出掛けたのだとすれば、靴などは無くなっているはずだし、ゲームも消していくはずだ。そうでないとするならば、ゲームをしている最中に、彼女に何かがあったのだということになる。


「……惠美、これから時間あるか?」



 通話を終えて手早く身支度を済ませた春人は、家の近所にあるファミレスへと自転車を走らせる。肌を焼くような直射日光を浴びているはずなのに、そこに到着するまで春人はなぜか寒気が止まらなかった。


 駐輪スペースに自転車を停めて店内に足を踏み入れると、節電のためか少し蒸し暑さを感じる。それなりに埋まる客席に視線を巡らせると、既に惠美と勝行が四人席に向かい合うように座っているのが見えた。

 勝行の隣に腰掛けて、ドリンクバーを注文する。ほどなくして洋司も到着し、改めて四人で向かい合うと最初に口を開いたのは勝行だった。


「西村、行方不明ってマジなのか?」


 一緒にゲームをしていたということで、惠美は昨日集まっていたメンバー全員に一穂のことを聞いて回っていたらしい。もちろんその行方を知る者は誰もおらず、春人は何か手掛かりになることがあればと全員を集めることにした。

 一穂の両親が警察にも通報はしているようだが、最後の消息がゲーム内ということもあって、現状で彼女の行き先に繋がりそうな情報を得ることはできていないようだ。


「少なくとも、昨日は普通にゲームしてたし……怖がらせちまったかもだけど、だからってそれが原因ってワケでもないよなあ?」


 コーラの入ったグラスをストローでかき回しながら、洋司が申し訳なさそうな声を出す。

 確かに昨日ゲームをしていて、一番怖がっていたのは間違いなく一穂だっただろう。けれど、洋司の言う通りそれが失踪の原因になるとは思えない。


「一穂って何も言わないで出掛けたりするような子じゃないし、今までこんなことなかったから……行方不明っていうか、消えちゃったとしか思えないんだよね」


 一穂は傍から見ても大人しい女の子で、両親に心配をかけるようなことをするタイプではない。それは付き合いの浅い春人たちの目から見ても明らかだ。

 だからこそ、故意の失踪だとはとても思えない上に、状況がどう考えてもおかしい。


「……昨日俺が抜けた後、お前らもすぐ抜けたの?」


 春人の問いに、三人の視線が一斉にそちらを向く。この場に全員を集めて聞きたかった話が、ゲームを抜けた後のことだった。


「ああ、抜けたぜ。鬼役が急にいなくなっちまったし、仕切り直すには時間も遅かったしな」


「春人からチャット来て、すぐ解散しようって話になったよね」


「俺も眠かったし、みんなやめんなら俺もやめるか~って」


 どうやら、春人が最後に見たチャットの通り、メンバーはあれからすぐにゲームをやめたようだった。つまり、あの場で奇妙な体験をしたのは春人だけだったということになる。

 ぽつぽつと浮き上がってくるメロンソーダの泡に、悩みながら視線を落とす。


「……あのさ、バカみたいな話かもしれないんだけど」


 それを話すかどうか、春人には迷いがあった。自分でも、あれは夢かなにかだったのではないかと思ったからだ。けれど、現実の世界でも不可思議なことが起こっている。それが、無関係なものだとはどうしても思えなかった。


「西村が行方不明になったの、俺はあのゲームが原因かも……って思ってる」


 その発言は、先ほどの洋司の発言を、真っ向から否定することになる。意味合いは異なるのだが、それがわからない三人はそれぞれに春人の言葉を否定する声を発する。


「ハ? ゲームが原因って……お前マジで言ってんの?」


「いやいや、さすがにあり得ないっしょ。いくら怖かったからって、それが何で失踪するって発想になんの」


「アタシも、ゲームのことは関係ないと思うけど」


 三人の反応は予想できたものだ。春人自身、逆の立場であったとすれば同じように否定の言葉を返していただろう。けれど、否定しきれないだけの経験が瞼の裏に焼き付いていた。


「怖がらせたからとか、そういうことじゃなくて……俺さ、昨日いきなりゲーム離脱しただろ? お前らのこと探してる最中に姉貴が部屋に来て、急にゴーグル外されてさ」


 昨晩のことを思い返しながら、春人はゆっくり言葉を紡いでいく。現実の世界に戻る直前のあの感覚は、今でも鮮明に肌に焼き付いているようだった。


「けど、その直前に……女の子を見たんだ」


「女の子?」


 不思議そうに瞬きを繰り返す惠美に、春人は頷いて胸元で両手を組む。


「お前らを探してる最中に、急に声が聞こえてきてさ。よくわかんないけど、見つかったらいけない気がして……保健室のベッドの下に隠れてたんだ」


「女の子って……俺ら以外入ってこられるはずねえだろ、誰も招待してないよな?」


 春人の言葉に怪訝そうな表情を浮かべる勝行が尋ねると、二人は揃って頷く。やはり、メンバー内の誰かが突発的に知り合いを呼んだわけではないらしい。


「俺もそう思ったよ。けど俺たちと同じで、かくれんぼしてたっぽくて……その子に見つかった瞬間、もうダメだって思った」


 目が合った瞬間、言い表しようのない恐怖に襲われた。あの場所がそう錯覚させたのか、思い込みによるものなのかは春人自身にもわからない。

 指先は冷えている。だというのに、重なる指の間には嫌な汗がじわりと滲む。


「こんな時にバカな話してるって自分でも思うよ。けどさ、仮に……仮にな。西村があの子に見つかったんだとしたら、まだあのゲームの中にいるんじゃないかって……」


 客観視するまでもなく、本当に馬鹿げた話をしていると春人は実感していた。

肝試しもかくれんぼも、あくまで仮想空間の中で行われていた出来事なのだ。そこで体験する感情や視覚的な情報は別としても、起こった出来事が現実に干渉することなどあるはずがない。


 賑やかな店内で、春人たちの座るテーブルだけが静まり返っていた。顔を上げていられずに、グラスの中身へと視線を落としかけたところで、聞こえたのは思いのほか落ち着いた声だった。


「……だったら、探しに行ってみるのもアリかもな」


 そう呟いたのは勝行だ。くだらないと一蹴されるか、こんな時に口にする冗談ではないと怒られるのではないかと思っていた春人は、間の抜けた顔で彼を見てしまう。

 その提案に続いたのは惠美だ。


「バカな話だとは思うけど……確かに、ゲームがつけっぱなしだったっていうのは引っ掛かった」


 口元に手を当てて、惠美は真剣な表情でその可能性を考えてくれているようだった。そんな二人の様子を戸惑いつつ眺めていた洋司は、汗をかいたグラスの中身を一息に飲み干す。

 溶けきらなかった細かい氷が、ジャラジャラと音を立ててグラスの底に溜まっている。


「俺は正直信じらんねーけど、二人がそう言うなら……行ってみるか?」


 ゲームの中に人間が取り残されていると言われても、洋司の反応が正しいのだろう。けれど、タチの悪い冗談を言っているような春人の言葉を、友人たちはひとつの可能性として考慮してくれた。


「……ありがとう、みんな」


「俺らがゲームやってる間に、見つかったって報告が入りゃいいんだけどな」


 冗談交じりの勝行の言葉に、全員の間に自然と笑みがこぼれる。

 目的が決まると軽く腹ごしらえを済ませてから、一度解散することとなった。本来であればすぐにでもゲームの中に向かいたいところではあるのだが、時間帯なども含めて昨晩と同じ条件で行う方が良いような気がしたのだ。



*  *  *



 夕食や入浴を済ませた後、邪魔が入らないよう春人は念のために部屋の鍵もかけておいた。昨晩はそれで救われた部分もあるのだが、今日は途中で投げ出すわけにはいかない。

 待ち合わせ時間の少し前にゲームを起動して、ヘッドホンとゴーグルを装着する。少しして勝行からの招待が届いて、春人はプライベートルームへと入室をした。


 一度暗くなった視界が徐々に明るさを取り戻していくと、そこには記憶に新しいあの教室があった。昨晩とは異なり、すでに全員が集まっている。


「全員来たな。一応、昨日と同じで使えるのは懐中電灯のみにしてある」


 なるべく条件は同じ方が良いだろうという春人の言葉に従い、勝行がゲームの設定をしてくれていた。手元には懐中電灯があり、それのスイッチを入れると足元が照らされる。


「俺は鬼だったからこの教室にいたけど、西村がどこに隠れてたかわかるか?」


「途中までは一緒だったんだけど……アタシは二階の教室に行って、一穂とは階段で別れたから上か下かわかんない」


 昨晩の行動を思い出そうと記憶を辿る惠美だが、自身の隠れ場所を探すことを優先していたのだろう。一穂の足音が、どの方向へ向かったのかも覚えてはいないようだ。


「ボイチャは使えるようにして、オレと惠美は一階、春人と洋司は二階に分かれるか」


「そうだな、手分けした方が見つけやすいと思う」


 勝行の提案に反対する者はおらず、合流地点を一階の端にあるこの教室に決める。早速二手に分かれると、春人は洋司と並んで木造の階段を上っていく。

 廊下を歩くよりも軋む音が大きく感じられる階段は、よく見れば所々に亀裂が生じており、今にも崩れ落ちそうだ。これが現実の世界であったなら、底が抜けてもおかしくないかもしれない。


「うえ~、昨日も思ったけどマジでリアルだよなあ。俺ずっと職員室に隠れてたんだけどさ、ぶっちゃけ春人さっさと見つけてくんねーかなって思ってた」


 階段の上を懐中電灯で照らしながら、洋司は深いため息を吐き出す。女子がいた手前、口にはできなかったのだろうが、やはり一人きりになると恐怖を感じていたのだろう。


「ハハ、俺も早く誰か見つからないかなって思ってたよ」


 階段を上りきった先には、一階と同じような風景が広がっている。廊下の先は暗闇に包まれていて、懐中電灯の光をもってしても視認できそうにない。

 特にそうと決めたわけではないのだが、二人は自然と端の教室から覗いていくことにした。


「建物とかもそうだけどさ、音とかも超リアルだよな。ここに一人で西村隠れさせてたって思うと、結構罪深いかも」


 建付けの悪いドアをスライドさせる。その振動や音もリアルで、後ろに続く洋司がわざとらしく怯えた声を出していた。

 中を覗いてみると、そこは最初に集合したのと同じ造りの普通の教室だ。見回しても人影はなく、隠れられそうな場所はあまり多くはない。


「……西村、いるか?」


 呼びかけてみるものの、応答はない。もしも彼女がここにいるとすれば、返事をしてくれるはずだろう。すでにかくれんぼは終了しているのだ。


「一応、入ってみるか」


「え、入んの?」


「念のために……怪我してたり、倒れてたりするかもしれないし」


 バーチャルの世界なので、言いながらそれはないだろうと春人自身も考える。けれど、そもそもが「ゲームの世界に現実世界の人間が取り残されているかもしれない」という可能性のもとで、こうして探しに来ているのだ。


 もはやどのような行動も、馬鹿げていると思われようと同じだと、教室内に足を踏み入れていく。二人で手分けをして机の下を覗いたり、ロッカーの中や、隠れられそうな場所を一通り探していく。


「……ココにはいないっぽいな」


 粗方見回ってはみたものの、それらしき姿は見当たらない。続いて隣の教室も同様に探してはみたのだが、結果は同じだった。──隙間から飛び出してきたゴキブリに驚いて、洋司が甲高い悲鳴を上げたこと以外は。


 その後、トイレの個室や図工室なども探してみたが、やはりどこにも一穂の姿は見当たらない。少なくとも、これまで覗いた部屋の中はどれも見落としはないはずだ。


「勝行、そっちはどうだ? 二階は誰もいなかった」


 集合場所へ戻る前に、ボイスチャットを使用して一階を探索している二人に声を掛ける。少しの雑音が入った後、勝行の声が聞こえてきた。


『コッチも収穫ねえな、一応あとひと部屋見たら終わるから合流地点向かうわ』


「了解」


 一階は残りひと部屋だというが、この調子だと一階にも一穂はいないのだろう。やはり自身の考えすぎで、ゲームの世界に人間が取り残されるなんてあり得ないのだと、春人は自嘲する。

 ゲーム内の映像や音があまりにもリアルすぎて、錯覚を起こしてしまったのだろう。


「それじゃ、俺らは先に戻るか~」


「ああ、そう……」


 チャットの声を聞いていた洋司が、一足先に集合場所へ戻ろうと階段を下りようとする。春人もまたそれに続こうとしたのだが、その瞬間、何かが聞こえたような気がして立ち止まる。

 その様子を不思議に思った洋司が、階段を一段下りたところで不思議そうに見上げていた。


「春人?」


「……ウ……カ……」


 洋司の声と重なるようにして、今度は確かに何かが聞こえた。その既視感に、春人の全身が一気に総毛立つ。まさかとは思ったのだが、考えるよりも先に春人は洋司の腕を強引に掴むと、一番近くにあった図書室の中へと駆け込んだ。


 突然のことに躓きそうになりながらも、どうにか後をついてきた洋司は目を白黒させている。開こうとした彼の口を、掌で咄嗟に塞ぐ。声を発するなと首を振るジェスチャーは、どうやら伝わったようで小さく頷く様子が見えた。

 できる限り部屋の奥へと移動すると、懐中電灯を消してそれぞれに本棚の影に身を潜める。

 確証はなかったのだが、春人には昨日と同じあの少女が迫ってきているように思えてならなかった。一方の洋司は、なぜ隠れるような真似をしているのかも理解できていない。


 彼にどう説明をすべきかと考えあぐねているうちに、廊下の向こうから足音が近づいてきているのが耳に届いた。それは洋司も同じだったのだろう、二人は目を見合わせる。

 昨日と違うのは、静かな校舎に響く足音が素足のそれではなく、自分たちと同じように靴を履いているように聞こえることだ。


「なんか……近づいてきてる……?」


 空気を読んだ洋司が、声を潜めて問いかけてくる。やはり、自分にだけ聞こえている幻聴というわけでもないようだ。視線は部屋の入口へと向けたまま頷いて、春人は様子を窺う。


「ああ、もしかしたら……昨日俺が見た女の子かもしれない」


 足音の違いはあるものの、その可能性は十分にあると考えられた。近づいてきているのが、勝行や惠美の可能性もゼロではない。しかし、合流地点を決めているにも関わらず、ボイスチャットも使わずに二階に上がってくるだろうか。

 階段は校舎の両端に設置されている。先に合流地点へと向かう予定だった春人たちと、入れ違いになる可能性だって少なくはないだろう。


 次第に距離を縮めてくる足音は、片脚を引きずっているようにも聞こえた。それが入り口の前で止まったかと思うと、閉めておいた扉を開けて室内へと入り込んでくる。


 春人の隠れている位置からは、棚に置かれた本の配置が悪く辛うじて足元が見える程度だ。けれど、洋司のいる位置からは、どうやらその姿が視認できたらしい。

 それまでじっと息を潜めていた洋司が、突然その場を離れて足音の主の方へと歩き出したのだ。


(洋司、なにやってんだ……!)


 引き留めようと伸ばした腕は届かず、彼は棚の向こう側へと姿を消してしまう。後を追って出て行こうかとも考えた春人だったが、昨晩の体験が思い起こされてすぐには行動に移せずにいた。


「西村……なにやってんだよ」


(……西村?)


 本棚の向こうから聞こえてきたのは、怯えているわけでもない、いつも通りの洋司の声だった。しかも、その声が呼ぶ名前は自分たちが探していた一穂のものだ。

 あれだけ探しても見つからなかった一穂が見つかったのかと、胸の内に安堵が広がる。


「俺たちずっとお前のこと探してたんだぞ。大丈夫かよ?」


 探し人が見つかったのであれば、他の二人にも知らせなければならない。春人も顔を見せようと、洋司が隠れていた棚の方へと移動した時だった。


「ミ ツ ケ タ」


 ノイズが混じったような声で呟かれた言葉に、春人は反射的に動きを止める。

 棚の隙間から覗き見た先には、洋司の言葉通り確かに一穂と思われる女性の姿があった。いや、確かにあれは一穂なのだろう。


 けれど、次の瞬間春人は自身の目を疑った。一穂の首元に、真一文字の赤い線が走ったかと思うと、彼女の頭が支えを失ったようにガクンと後方に倒れる。その裂けた首の中には、白く尖った無数の牙が生えていた。

 大きく開かれたその口が、洋司の頭を丸呑みにしたかと思うと、まるでリンゴにでも齧りついたかのように首から上を食い千切ってしまったのだ。


 春人が悲鳴を上げずに済んだのは、呼吸も止まるほどに強く両手で口元を押さえていたからだ。ガタガタと情けなく震える膝の音が、聞こえてしまうのではないかと不安で堪らなかった。

 固いものを噛み砕く咀嚼音が響く中、春人は蹲ることさえできずに、ただその音が止むのを息を殺して待ち続ける。


 地獄のように長い時間に感じられたが、やがて咀嚼音が鳴り止むと、気配が別の場所へと移動していくのがわかった。どうやら、春人の存在には気がつかなかったようだ。

 すぐには動くことができなかったが、完全に足音が聞こえなくなった頃、春人はそっと棚の影から顔を覗かせる。人影がないことを十分に確認してから、倒れている洋司のところへと歩み寄っていった。


「……うそ、だろ……」


 頭を失った死体の周囲は、飛び散った血液と、今も切断面から流れ出る血が溢れている。

 バーチャルの世界だとはいえ、これはさすがにリアルすぎるだろう。こんな仕様があるとは聞いていなかったが、少なくとも年齢制限がかかるようなゲームではなかったはずだ。

 二十年足らずの人生の中ではあるが、死体を目の当たりにするのは少なくとも初めての経験だった。ゲームや映画の中でなら何度も見たことがあるが、ここまでリアルではなかったように思う。


 気分が悪くなり、ふらついた春人はその場に膝をつく。嗅ぎ慣れない鉄臭さが鼻をついてますます気持ち悪さが強まったが、一階にいる二人に連絡をしなければならない。

 そう考えてボイスチャットを繋ごうとしたところで、春人はふと違和感に気がつく。


(なんで……)


 ここは限りなくリアルに近い世界だ。映像も音も、振動だって現実のように伝わってくる。

 けれど、匂いや痛みといったものに関しては、個人で遊ぶVRでは再現することはできない。そのはずなのだが、春人は今、確かに充満していく血の匂いを嗅ぎ取っていた。


 恐る恐る、床を伝い広がっていく血液に指先を触れさせてみる。感じたのは、そこにあるはずのないリアルな生温かさだった。


「ッ……なんで、そんなはずない……あり得ないだろ……!」


 違和感の正体は、血の匂いだけではなかった。これまでずっと握り続けていたはずの、ゲームパッドの感触が、いつの間にか消えているのだ。

 ゲーム慣れした春人にとって、スティックを使い移動をしたり、ボタンを使った操作をするのは呼吸をするのと同じくらい自然なことだった。意識をするまでもない動作なのだ。


 けれど、春人は血液に触れるために、スティックを傾けるのではなく、自身の腕を動かしていた。まさかと思い、耳元や顔にも触れてみるのだが、本来そこにあるはずのヘッドホンやゴーグルの感触も無くなっている。

 懐中電灯は握られているが、ボイスチャットを繋ぐためのボタンも見つからない。椅子に座ってゲームをしていたはずだが、春人は間違いなく自らの足でこの場に立っていた。


「なんだよこれ、どうなってんだよ……」


 パニックに陥りそうになるが、じわじわと広がっていく血液が膝の傍まで迫っていることに気がついて、慌てて立ち上がる。

 いつの間にか、バーチャルが現実になっていた。普通では考えられない出来事だが、自らの身体で動作を行っている以上は、そうとしか考えられない。なぜこうなってしまったのかは、一人で考えていたところで答えを出すことができるとも思えなかった。


 自分たちがこんな状況なのだ、一階にいる二人もどうなっているかわからない。

 逸る心臓を深呼吸で必死に抑えながら、春人は他の二人を探すことにした。



*  *  *



 そっと廊下に顔を出すと、人の姿は見当たらない。一穂のような何かはどこか別の場所に行ってくれたようだ。できる限り足音を立てないように、春人は慎重に階段を下りていく。

 二人がいるとすれば、元々捜索をしていて合流地点もある一階の可能性が高い。もちろん、無事でいてくれればの話ではあるのだが。


 ゲームパッドを使って操作をしていた時も、現実のようにリアルな世界観だと感じていた。しかし、自分の足でこの場を歩くこととなった今、そのリアルさはさらに増している。

 春人の動きに合わせて軋む木材の音はもちろんだが、操作をしていた時には感じられなかった埃っぽさや、空気の冷たさまで鮮明に伝わってくる。ここが商業施設の中であればあり得た体験かもしれないが、残念ながら春人は自宅の部屋にいたはずだ。


 足音や声は聞こえないので、勝行と惠美が廊下を歩いている様子はない。それ以外の「何か」も同様だ。


(普通に考えれば、二人は合流地点にいるはず……)


 ボイスチャットで確認をした時、あとひと部屋で捜索は終わりだと言っていた。春人が図書室で隠れていた時間を考えれば、その部屋の捜索が済んでいても不思議ではない。

 合流地点の真逆に位置する階段から下りてきたこともあって、教室までは廊下を突っ切る必要がある。それほど距離があるわけではないとはいえ、できればあまり足音は立てたくない。


 あの化け物に明かりが見えているのかはわからなかったが、念のために懐中電灯は使わずに移動することにした。ただでさえ廊下は暗い。先が見えず不安な部分もあるが、アレに見つかるよりはましだろう。

 できる限り壁伝いに、少しずつ歩みを進めていく。同じ廊下でも場所によって老朽化の進行度合いが異なるのか、時折派手に軋む床の音に冷や汗が滲んだ。

 移動していくにつれて、前方も背後も暗闇に包まれて、先が見えない恐怖が強まっていく。


 あの化け物がかくれんぼをしているというのであれば、暗闇はかえって好都合なのかもしれない。

 恐怖心を拭いきることはできなかったが、前向きな考えを持たなければ、足が竦んで動けなくなってしまいそうだった。


「……?」


 トイレを横切ろうとした時、春人は何かに気づいてふと立ち止まる。

 足元に、点々と続く赤い何かが見えたのだ。月明かりに照らされたそれははっきりとは視認できないが、血痕のように見える。その痕跡は、女子トイレの中へと続いていた。


 中にあの怪物がいるかもしれない。そう思ったが、耳をそばだててみても声も足音も聞こえてくる様子はない。

 それならば、勝行と惠美のどちらかが怪我をして、トイレに逃げ込んでいる可能性もあるのではないだろうか?


 逡巡した春人だったが、後者の可能性に賭けてそっとドアを開けてみることにした。

 隙間程度に開いたドアから、中の様子を窺い見る。そこに人の姿は見当たらなかったので、今度は慎重に中へと身体を滑り込ませた。


「…………」


 声をかけてみようかと思ったが、万が一にもあの怪物がいたらそれは悪手だろう。一穂を探していた時と同じように、春人は個室のドアを一つずつ開けていくことにした。

 血痕は二つ目の個室の前で途絶えていたが、中を覗いても和式の便器があるのみで、誰の姿も見つけることはできない。他の個室も同様で、すでに逃げ出した後のようにも思えた。


(もし……洋司と同じだったら、身体が残ってたりするよな)


 想像したくはないが、死体の一部らしきものも見当たらないところを見ると、少なくともここで二人のどちらかが被害に遭っているとは考えにくい。トイレを後にして、春人は再び合流地点へと向かおうとした。


「ぐ……っ!」


 突然、背後から何かに羽交い絞めにされて、春人は呻き声を漏らす。混乱する頭でも逃げ出さなければならないということだけはわかり、必死にもがきながら腕を振り回していると、肘が背後の何かを直撃したらしく拘束が緩む。


「痛ってェ!」


 抜け出して廊下へ飛び出そうとした春人だが、覚えのある声にドアに掛けていた手を止める。振り返った先にいたのは、苦悶の表情を浮かべて脇腹を押さえる勝行の姿だった。


「ま、勝行……! お前、無事だったのか」


 怪物ではなかったことに、安堵から一気に身体の力が抜けていく。一方の勝行は、全力の一撃による痛みがすぐには引いてくれないらしく、恨みがましげな視線を春人に向けている。


「無事だったのかじゃねえよ。クソ、思いっきり肘鉄食らわせやがって」


「お前が急に襲い掛かってきたからだろ、つーかどこに潜んでたんだお前」


 個室は間違いなくすべて確認したし、当然人一人が隠れられるような隙間も見当たらない。そんな状態で現れた友人に、驚くなという方が無理な話だ。


「掃除用具入れに隠れてた。化け物かと思ったんだよ」


 言われて、トイレの一番奥には便器のある個室とは別に狭い用具入れがあったことを思い出す。埃だけでなく虫なども潜んでいることが想像に容易いそこに、人が隠れているとは考えていなかった。

 ふと、勝行の言葉でひとつの可能性に思い至る。


「化け物……って、お前も見たのか?」


 勝行は、確かに「化け物」と言った。普通に一階を捜索していただけであったなら、そんな単語は出てこないはずだ。そもそも、掃除用具入れに隠れていたことの説明もつかない。


「見た、っつーか、正確には人影だったんだけどよ。昨日お前が見たって話思い出して、咄嗟に隠れた。明らかに雰囲気ヤバそうだったし、個室に隠れなかったのは正解だったわ」


 血痕が垂れていたのは、恐らく化け物が勝行のことを探して回っていた跡だったのだろう。つまりこの血痕は、洋司を襲ったあの化け物が口から垂れ流しているものなのかもしれない。

 勝行は服や髪についた埃を手で払いながら、思い出したように口を開く。


「そういや、洋司はどうした?」


 その言葉に、春人は同じくもう一人の友人の姿も見当たらないことに気がつく。二人は一緒に行動していたはずだが、なぜ惠美はこの場にいないのだろうか。


「そっちこそ、惠美は? ボイチャした時は一緒にいたんだよな?」


「ああ、全部探しきったから合流地点に戻ろうとしたんだよ。けど途中で西村の声が聞こえた気がするって、一人で階段上がって行っちまって」


「……ってことは、惠美は二階にいるのか?」


 二階から来た春人とは、少なくともすれ違うことはなかった。同じ地点からスタートしているので、彼女が通ったとすればさっき春人が下りてきた方の階段を使ったはずだ。

 図書室に隠れていた時にそこを通り過ぎたのかもしれない。けれど、それならばあの化け物に遭遇した可能性もあるのではないだろうか?


 ましてや惠美は、一穂の声を聞いたというのだから、あの化け物の後を追いかけてしまったのかもしれない。

 最悪の可能性を想像して、春人は身震いする。


「洋司は……化け物にやられちまった」


「やられた、って……どういう意味だよ?」


 眉を顰める勝行に、春人は一度口を閉ざす。ゲームの世界で本当に死んだと言われて、信じる人間が果たして存在するのだろうか。春人自身もまだ、彼の死が現実世界のそれと繋がっているとは信じがたいほどなのだ。


 実際に現実の世界に戻ってみなければ、彼がどうなっているかはわからない。それでも、この世界で起こっている出来事は、バーチャルの世界の出来事として片づけるにはあまりにも生々しすぎた。


「……勝行、脇腹まだ痛いか?」


「あ? そりゃ痛いに決まって……」


 先ほど思い切り肘を食らった箇所を、勝行は無意識に擦る。そこで、春人の言わんとしていることに気がついたように、表情がみるみるうちに青ざめていく。


 ゲームの世界でダメージを食らうことはある。体力ゲージが減ることだってある。しかし、どんな必殺技を食らったって、痛みを感じることは絶対にない。

 自分自身で部屋のどこかに身体の一部をぶつけたのなら話は別だろうが、勝行に一撃を食らわせたのは春人だ。離れた場所にいる相手からの攻撃で、痛みを感じるはずはない。


「早く恵美を探さないと」


 現状を理解した勝行が反対することはなく、二人は惠美を探すためにトイレを出た。


 二階に向かったという情報だけを頼りに、再びあの階段を上っていく。トイレの掃除用具入れから拝借したモップを手に、先陣を切ってくれる勝行の背中が頼もしい。

 まずは図書室だ。現実とは思えない光景を目撃したあの場所に、春人はできれば戻りたくはなかった。しかし、惠美がいるかもしれない可能性を思うと、そこを避けるわけにもいかない。


 そっとドアを開くと、中は静まり返っているようだった。

 周囲に気を配りながら室内に入り込んだところで、春人は我が目を疑う。そこにあったはずの、洋司の死体が消えてなくなっているのだ。


「なんで……確かに、ここで洋司がやられたはずなのに……」


「いないってことは、まだ生きてたんじゃねえのか?」


 あの光景を見間違えるはずがないし、死体があったはずの場所には血だまりだけが残っている。ここに死体があったのは確かなのだが、消えているのだ。


「いや、絶対死んでた……それだけは間違いない」


 頭を丸ごと食われたのだ。生きている可能性があるとすれば、それこそゲームの世界の中の話だろう。

 その死に様について口に出すことを躊躇していた春人だったが、その様子だけで勝行は察してくれたらしい。それ以上を追及することはせず、図書室の奥へと足を進める。


 春人たちが隠れていた棚の裏や、机の下などもしっかりと探してみるが、人がいたような形跡はない。そもそも死体が無かったとしても、あんな血だまりがあれば惠美だって逃げ出していただろう。

 春人とすれ違っていないことを考えても、別の部屋にいる可能性の方が高い。


「嫌ああああッ!」


 そう考えた時、廊下から悲鳴が聞こえてきた。惠美の声だ。

 二人は急いで図書室を出て、廊下の先を懐中電灯で照らす。廊下の向こうからこちらへ走ってくるのは、間違いなく探していた彼女の姿だ。そして、その後ろからもう一人誰かが走ってきているのが見える。


 距離が近づくにつれて、彼女は追われているのだと気がついた。惠美を追いかけていたのは、人に見えたがそうではない。春人は思わず一歩後ずさってしまう。

 彼女の後ろにいるのは、頭が無く胴体から下だけで動く化け物だった。その首から胸元にかけては縦に裂けており、扉のように肋骨ごと開閉している動きを見せている。その中には、鋭い牙が数えきれないほど生えていた。


「たす、……助けてっ……!」


 二人の姿を見つけた恵美が、泣きそうな声で助けを求めてくる。

 よく見れば、走り方に違和感がある。どうやら片脚に怪我をしているようだった。普通に走れば逃げ切れそうな速度だが、怪我を負った状態では今にも化け物に追いつかれそうだ。


「しゃがめ!」


 そう叫んだのは勝行だ。惠美は半ば転ぶようにして、その場に崩れ落ちる。

 その後ろから胸元の大きな口を開けて襲い掛かろうとする化け物に、勝行は手にしていたモップを槍のように投げつけた。それは見事に化け物の口の中へと命中し、突然の衝撃を受け流しきれなかったのか後方へと倒れ込む。


 その一連の流れを見ていた春人は、慌てて走り出して惠美の二の腕を掴む。座り込む彼女を立ち上がらせると、その身体を支えながら階段を駆け下りて一階へと移動した。


 飛び込んだのは職員室の中で、できるだけ部屋の奥にある机の影へと身を潜ませる。扉の隙間から周囲を窺っていた勝行は、化け物の気配がないことを確認して二人のところへと歩いてきた。


「とりあえず、追ってきてはいねえ」


「惠美、大丈夫か?」


 可哀想なほどにガタガタと震える惠美の肩を軽く擦ってやりながら、春人は足元に目を遣る。

 ショートパンツを穿いている惠美の右脚は、膝から太腿にかけて大きな切り傷がつけられていた。恐らくあの怪物に襲われたのだろう。


「なに、あれ……アタシ何で怪我してんの……?」


 未だ状況を飲み込みきれていない様子に、春人と勝行は顔を見合わせる。春人は着ていた半袖の上着を脱ぐと、それを適当な大きさに裂いて包帯代わりに惠美の脚に巻いていく。

 結んだ時に痛みが生じたようで、惠美の表情が歪んだ。その痛みにも困惑する彼女に、二人はここがバーチャルの世界ではなくなってしまった可能性についてを話した。


 突然の話に疑いを捨てきれない惠美だったが、自分を襲ってきた化け物の姿や、今も感じている脚の痛みが冗談だと言わせてくれなかった。


「洋司を襲ったのが西村で、さっき惠美を追ってたのが洋司だった。……多分、化け物にやられると、自分も化け物になるのかもしれない」


 惠美を襲っていた化け物には頭が無かったので、本人だという確証はない。けれど、化け物が身に着けていた衣服には見覚えがあった。一穂の件もあり、今はそう考えるのが妥当だと春人は考えていた。


「じゃあ……一穂も洋司も、死んじゃったってことなの……?」


「それだけじゃない。このままだと、俺たちも……」


 装着しているはずのVRゴーグルやヘッドホンの感触も、戻ってきてはいない。指先一本まで自分の意思で動かしているし、これは「操作」ではない。

 ゲームをやめて現実世界に戻る術がないということは、あの化け物たちとのかくれんぼを続けなければならないということだ。そして、見つかることは死を意味する。


 昨日の晩、春人が死なずに済んだのは、姉が偶然ゴーグルを外してくれたからだった。こんなことになるとわかっていれば、部屋の鍵を閉めてはこなかっただろう。あんな偶然が、二度も起こることはないだろうが。

 かくれんぼを続けるにしろ、制限時間もない状態では、圧倒的にこちらが不利だった。


「……少なくとも、物理攻撃は効いたよな」


 絶望的な空気の中で、勝行は自身の掌に視線を落としながらぽつりとこぼす。

 確かに、咄嗟の判断で勝行が投げつけたモップによって、あの化け物を後退させることができたのだ。触れることのできない化け物であれば手立てがないが、少なくとも抵抗する手段はあるということになる。


 ひとまず、各々に武器になりそうなものを手にしておこうという結論に至った。

 春人は飾られていたトロフィー、惠美は竹でできた50cmほどのものさし、勝行は表彰状の入った額縁だ。どれも心もとないとはいえ、何もないよりはましだろう。


「かくれんぼって、終わり方がない遊びだよね」


 机の下に縮こまらせた身体を押し込めながら、惠美が呟く。子どもの頃の記憶ではあるが、確かにかくれんぼといえば、最初に見つかった人間が次の鬼になって延々と遊び続けられていた覚えがある。


「終了の合図っつーと、夕方のチャイムだったな」


 薄暗い時間になってくると、春人も夕焼け小焼けの音楽と共に帰宅していたのを思い出す。あの曲が流れだすまでは、遊びを終わらせるという発想すらなかったかもしれない。


 しかし、現実でもゲーム内の設定でも、今は真夜中だ。帰宅を知らせるチャイムなど鳴るはずもなく、そこに期待するのは恐らく無駄だろう。

 この世界から抜け出す方法など、そもそも存在するのだろうかという疑念すら湧き上がる。


「……そういえば」


 そんな中、再び声を出したのは惠美だ。


「昨日、隠れ場所を探してる時に一穂が言ってたんだけど。一穂が小さい時は、隠れて見つけるだけじゃなくて、もうひとつルールがあったんだって」


「もうひとつ?」


 かくれんぼといえば、鬼が数を数えている間に隠れて、最初に見つかった人間が次の鬼になるというループがデフォルトだろう。少なくとも、春人が住んでいた地域ではそれ以外にルールがあるような話は聞いたことがない。

 けれど、ローカルルールのように、住んでいる地域によっては違った遊び方も存在していてもおかしくはない。


「隠れてる人が、鬼の背後にこっそり忍び寄るんだって。それで、鬼に気づかれないようにタッチして「アウト」って言うの。そうすると、またその人が鬼になるんだって」


「そんなルールもあんのか」


 感心する勝行の横で、春人は思考を巡らせる。

 もしも、昨晩からかくれんぼが継続しているのであればの話だ。最初に化け物に見つかった人間が、次の鬼の役割を果たして、残る人間を探している可能性はある。


 本来最初に見つかったのは春人だったのだろうが、途中で強制離脱をしてしまった。

 代わりにあの女の子に見つかったのが一穂で、その一穂に見つかったのが洋司と考えると、一般的なかくれんぼのルールに則って動いている。


「もしかしたら、だけど」


 これはあくまで可能性に過ぎないし、春人の考えが当たっている保証はどこにもない。

 それがゲームを終わらせる方法に繋がるとも限らないのだが、他に方法が思い浮かばなかった。


「俺が最初に見た、あの女の子にアウトを宣言できれば……ここから抜け出せたりできないかな」


 この恐ろしいゲームの始まりは、あの女の子だったのだ。それならば、彼女の存在が抜け出すヒントに繋がるのではないだろうかと、春人は考えていた。

 やはり浅はかな考えだろうか。そう思う春人の前で、目を見合わせた二人はそれぞれの武器を握り直す。そして、考えに賛同してくれた。


「やってみる価値はあるんじゃねえ?」


「少なくとも、ここでじっとしてるだけよりはいいと思う」


 他にこの場を抜け出す方法がない以上、やれることはやってみるべきだという思いは皆同じなのだろう。死ぬかもしれないという恐怖はあったが、それは隠れていても同じことだ。

 埃だらけの床から立ち上がった三人は、ひとつの目的を得て動き出したのだった。



 廊下に出ると、足音が聞こえてきた。裸足のものではない。恐らくそれは二階にいるのだろうと判断し、三人は月明かりだけを頼りに移動をしていく。

 手始めに向かったのは、春人があの女の子を目にした保健室だった。


 有力な手掛かりもなかったので、目撃した場所を探してみるのが手っ取り早いと判断したのだ。道中、ガタンと大きな音がして心臓が縮む思いをしたのだが、どうやら吹き付ける風が窓を叩きつけたようだった。

 外から風が吹いているということは、校舎から出られるようになっているかもしれない。


 そんな風に思って試しに窓枠に手をかけてみたりもしたのだが、やはり校舎の外に出ることはできないようだった。ゲームの世界に入り込みはしてしまったが、マップとして設定されている以上の場所には行くことができないのかもしれない。


「保健室、あそこだね」


 辛うじて耳に届く声量で、惠美が暗闇の一角を指差す。室名札の文字は見えなかったが、春人は確かにその場所が保健室であることを覚えていた。恐ろしさはあるものの、今は二人の友人が一緒にいるという状況は、なかなかに心強い。


 扉の隙間から中を覗いてみると、人影は見当たらない。極力足音を響かせないよう、静かに中に入って耳を澄ませてみる。暫く待ってみても、昨晩のような声も足音も聞こえてくる様子はなかった。


「……ここにはいないのかもな」


 一番可能性が高い場所だと踏んでいただけに、収穫が無いのは落胆も大きい。けれど、ここで立ち止まっている場合ではない。この校舎の中のどこかには、絶対にあの女の子がいるような気がしていた。


 教室を覗いてみるが、そこにも人影はない。一穂や惠美を探していた時のように、机の下やロッカーの中まで見る必要があるかも考えた。けれど、隠れる立場であるのは春人たちの方なのだ。あの女の子や化け物が、身を潜めているとは考えにくい。


 そうして隣の教室を覗こうとした時、自分たち以外の足音が響いたのがわかった。

 教室内に気配がないことを確認してから、三人は足早にその中へと逃げ込む。惠美はロッカーの中、勝行は机の影、そして春人は教卓の下へとそれぞれに隠れた。

 近づいてくる足音は、片脚を引きずっているような不規則なものに聞こえる。その足音には、聞き覚えがあった。


(多分……西村だ)


 正確にいえば、かつては一穂だった化け物だ。鬼が交代すれば化け物は消えるのかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。となると、今この校舎の中には、あの女の子を含めて三体の敵が徘徊していることになる。


 その足音は、まるでこちらの居場所がわかっているかのように、まっすぐに教室へと向かってくるものだから生きた心地がしない。トロフィーの土台を握り締める春人の手は、知らず震えていた。

 教室の扉が開く音がする。入ってきたのは、春人の隠れる教卓がある方の扉からだ。教卓の下から顔を覗かせるまでもなく、それが近づいてきているのが気配でわかった。


「モウ、イイ、カイ」


 確かに一穂の声であるはずなのに、どこかノイズが混じったような、気味の悪い声が静かな教室内に響く。その声は、教卓のすぐ真上で聞こえているように思えた。

 もしも覗き込まれれば、一巻の終わりだ。


 その時、左脚の脛の辺りに妙なむず痒さを覚える。懐中電灯を使わずに移動し続けたこともあって、薄暗い中でも慣れてきた目は自身の足元を捉えることくらいは容易にできるようになっていた。

 視線を落とした春人は、一瞬にして肌がぶわっと粟立つのを感じる。


「…………!」


 ハーフパンツを穿いた先。剥き出しの素肌の上に、掌ほどもあろうかという大きさの、毒々しい色をした蜘蛛が這い上がってきていたのだ。

 声を上げなかったのは、咄嗟に声すら出ないほどに驚いたからかもしれない。すぐにでもそれを払い除けたい気持ちに駆られたが、少しでも動けば恐らく化け物に見つかってしまう。

 息遣いすら聞こえてくるほどに、化け物は春人のすぐ近くにいた。


 そうしている間にも、蜘蛛は春人の膝の方を目掛けてじりじりと移動する。硬く細い八本の脚の感触が、皮膚越しに嫌というほど鮮明に伝わってきた。

 それがまさにハーフパンツの中へと入り込もうかという時、化け物が反転して教室の出口へと向かい始める。

 ほどなくしてその足音が廊下を移動する頃、春人はトロフィーの先で蜘蛛を思いきり弾き飛ばした。


 つい今しがたまで蜘蛛が這い回っていた感触を消そうと、掌で強く肌を擦る。あまりにも生きた心地がしなかった。早く家に帰りたい、その思いは強まる一方だ。


「……行ったな」


 足音が完全に遠ざかったところで、勝行が控えめに声を出す。それが合図のように、春人と惠美も隠れていた場所から姿を現した。


「今のが西村で、洋司も多分どこかで俺たちを探し回ってる」


 多分、とは言ったものの、恐らく間違いないだろう。化け物となった友人二人の目をかいくぐり、さらに女の子にも気づかれないよう背後から近づかなければならない。目的達成は容易ではなかったが、それでもやるしかないのだ。


「一階にはいそうにないし、二階に行ってみる?」


 惠美の提案に、探す階を移すことに決める。階段には隠れられる場所がないので、鉢合わせれば危険は増す。しかし、一階にいないのであればやむを得ない。

 教室の外に先ほどの化け物がいないことを確認してから、三人は再び二階へと足を向けた。



「……オレが肝試しなんて言いださなけりゃ、今頃こんなことになってなかったのにな」


 まるで独り言のように、こぼれ落ちた言葉に春人は目を丸くする。それは惠美も同じだったようだ。

普段は明るく自信家で、何事も先頭を切って進んでいく。弱音を吐く姿なんて一度も見たことがないような勝行だ。そんなことを言い出すなんて、二人にとっては予想外などという言葉では片付かない。


「別に、勝行のせいじゃないでしょ。アタシもやりたがったし」


「そうだよ、俺たちはただいつもみたいに遊んでただけだ。こんなことになるなんて……誰も想像できなかったよ」


 VRはあくまで娯楽の一環であり、人を楽しませるためのおもちゃだ。リアルな体験ができるとはいっても、それが本当の意味でのリアルになるだなんて、想像できる人間が果たしているだろうか。


「そういう技術が発達した未来とかならさ、あり得るのかもだけど。少なくとも、今俺たちがこんなことになってるのは勝行のせいじゃない。それだけは確かだよ」


 先頭を歩いていた勝行が、後ろを歩く二人を振り返る。その表情は薄暗くて見えづらかったが、どこか泣きそうな笑顔を浮かべているようにも思えた。


「…………っ!」


 そんな勝行の向こうに、人影を捉えたのは春人だ。それは、今まさに自分たちが探し求めていた人物だった。

 声には出さず、そちらを指差したことで二人も気がついたらしい。長い黒髪の少女が、背を向けた状態で教室の入り口の前に無防備に佇んでいたのだ。

 これは千載一遇のチャンスではないだろうか?


 幸いにも向こうはこちらに気がついておらず、背後を取ることができている。このままあの背中にタッチして、アウトを宣言すればこのゲームから抜け出すことができるかもしれない。

 その意図は二人にも伝わったようで、三人は見つからないよう階段の途中でしゃがみ込む。三人で一斉に向かうのは、気づかれるリスクも高い。誰か一人が足音を消して近づき、実行をするのが現実的だろう。


 話し合いをする前に、その役目を担うことを立候補してきたのは勝行だった。


(これが正しいって保証もないのに、勝行を行かせていいのか……?)


 このルールでゲームを終わらせることができるのではないか、そう提案したのは春人だった。だからこそ、春人は自分が行くべきだと考えていたのだ。

 けれど、勝行は自分が始めたゲームだという責任を感じているのだろう。その目はすでに、階段の向こうにある彼女の背中を捉えていた。


(オレが行く)


 声には出さず、手の動きでそう伝えてくる勝行に二人は託すことにした。

 階段の軋む音で気づかれてしまうかもしれない。息を殺しながらじりじりと、勝行は着実に距離を詰めていく。


 そうしてタイミングを見計らい、駆け出した勝行が少女との距離をゼロにするのはほんの瞬きの間だった。


(イケる……!)


 伸ばした腕が、彼女の背中を捕らえた。三人は奇襲が成功したものと疑わなかったのだ。

 しかし、高揚した気持ちが絶望に変わるまでの時間には、一度の瞬きすらも必要とはしなかった。


 振り向く様子すらなかった少女の背中が、背骨に沿うように縦に大きく開かれる。無数の牙はまるで一本一本がそれぞれに意思を持っているかのように蠢き、勢いづいて止まることのできない勝行の身体を迎え入れる。


「こんなんチートだろ……ッ」


 その呟きと盾にしていた額縁ごと、勝行の上半身は斜めに食い千切られてしまった。廊下には血液だけではなく、断面からこぼれ落ちた臓器までもが無造作に飛び散っていく。

 残された二人は、ただ呆然とその光景を眺めていることしかできなかった。


 図書室で耳にしたあの時と同じように、硬いものを砕くような咀嚼音が耳障りなほどに廊下に響き渡る。吐きそうになっているのか、惠美は自身の口元を両手で覆っていた。

 逃げ出さなければいけない。頭ではわかっているのだが、階段に伏せたまま二人は動くことができないでいる。


 どのくらいそうしていただろうか。咀嚼音が止む頃、廊下に倒れ込んだ勝行の下半身が突然ガクガクと震え出した。

断面が歪に膨れ上がったかと思うと、そこにはまるで芽が出るかのように鋭い牙が生え始めていく。やがて数えきれないほどの歯が生えそろうと、断面は口のような形に変形していった。


(ああ……そうか……)


 みんな、ああして化け物になっていったのだ。そして自分も、遅かれ早かれああして化け物の仲間入りを果たすのだ。

 廊下を伝い広がる血液が、階段の上から流れ落ちてくる。それをぼんやりと眺めていた春人だったが、不意にシャツを引っ張られて我に返った。大粒の涙を浮かべながら、惠美がこの場を離れようと促していたのだ。


 頼りきっていた勝行すらも殺されてしまったことで、すべての希望を失ったような気になっていた。

 けれど、そんな春人とは正反対に、惠美の瞳はまだ諦めてはいないように見えた。



 這うようにして階段を下りて、一番最初の教室へと戻る。そこにきて張り詰めていた気持ちが途切れたのか、惠美は声もなく泣いていた。春人もまた、壁に凭れかかって薄暗い天井を仰ぎ見る。

 非現実的な状況だけではなく、立て続けに目にした友人たちの惨たらしい死に様は、あまりにも精神へのダメージが大きい。


「俺たち……帰れるかな……」


 情けない問い掛けだとは思った。けれど、勝行ですら成功できなかったことが、自分にできるとは春人には到底思えなかったのだ。


「……帰れるかじゃなくて、帰るの」


 鼻を啜りながら、彼女はそう言い切った。鼻の頭は真っ赤に染まっているが、その瞳にはすでに涙は見られない。気持ちの切り替えの早さは、春人にとって見習いたい彼女の長所のひとつでもあった。


「帰らないと、こんなのみんなが浮かばれない。みんなの気持ちも背負って、アタシたちは帰るんだよ」


 その言葉の心強さに、春人の中にあった躊躇いも払拭されたように感じられる。このまま何もせずやられてしまえば、全員がわけもわからないまま無駄死にをしたということになってしまう。

 現実の世界に戻れたところで、この世界で起こった出来事を他人に信用してもらえるとは思えない。それでも、春人は彼らの魂と共にこの世界を抜け出すのだと、決意を固めた。


「……なら、作戦を立てないとな。多分チャンスがあるとすれば一度きりだ」


 惠美の方へと向き直りつつ、壁越しに外の様子を窺う。足音が聞こえているような気もするが、少なくとも今この近くに化け物はいないようだ。


「勝行もやられたから……アタシたちを探してる鬼は四体いるってことになるよね」


 四対二では、考えるまでもなくこちらが不利だ。油断すれば、いつどこで見つかってもおかしくはない。おまけに惠美は怪我をしているし、春人も逃げ足にはあまり自信がなかった。

 二人分の記憶を辿りながら、ここまでの状況を整理していく。


 あの女の子は、少なくとも走って移動するわけではないようだ。一方で、洋司だったアイツは走って追いかけてきていた。それでも速度は、全力疾走すれば追い付かれるほどではない。


 一穂だった化け物も、片脚を引きずっているようだったので移動は遅い方だろう。そして、勝行は上半身がなくなった状態だった。足が速かったとしても、比較的対処はしやすいように思える。


「万が一、見つかったとしても、かくれんぼはタッチされるまでが勝負だ」


 今回の場合、食われるまでの話ではあるのだが。せっかく高まった士気を下げるようなことをしないためにも、あくまでかくれんぼのルールとして話を進めていく。


「それでこっちも、あの子の背中にタッチするまでが勝負だよね。……正確には、正面なのかな」


 あの少女は、背中に大きな口があった。思えば最初に彼女を見た時にも、歩いてきた足は春人に踵を向けていたことを思い出す。

 背後から忍び寄ればいいと思っていた考えが、完全に裏目に出た結果が勝行の犠牲だった。


(もっと早く、そのことに気づけてたら……)


 勝行は死なずに済んだかもしれないし、三人の方が成功率は上がっただろう。

 悔やんでも失った友人たちは戻ってこないのだが、思い至らなかった自身への怒りに春人は唇を噛む。


「……なら、アタシが囮になる」


「は? 囮って、なに言ってんだよ。ダメに決まってるだろ」


 予想もしない申し出に、間の抜けた声を上げてしまった春人は慌ててそれを否定する。自分が囮役になるのであればまだしも、怪我人にそんなことをさせられるはずがない。

 けれど、惠美の決意は固いようで春人の言い分を受け入れようとはしない。


「あの子の背後に回るなら、足枷なく素早く動ける春人の方がいい。アタシは怪我してるけど……これでも陸上競技部所属だし、走るのは自信ある」


 確かに、惠美は陸上競技部の中でも期待のエースといわれているほど足が速い。怪我さえしていなければ、あの時も化け物から逃げることなど容易かっただろう。

 太腿に結ばれた布地には、まだ止まりきっていない血が滲んでいた。


「失敗することとか考えたくないけど、春人の足引っ張りたくない。全力で囮になるから、アンタも死ぬ気でアウト取ってよ」


 本当は惠美だって怖いのだろうが、気丈な彼女の言葉に逆らえるだけの理由は、春人の中には見つからなかった。ここまでくれば、何が起ころうと一蓮托生だ。どちらかが失敗すれば、恐らく希望は絶たれてしまう。


「……わかった。絶対アウト取ってやる、だから俺たちは一緒に現実に帰るぞ」



*  *  *



 隙間風が、廊下に不気味な音を響かせる。恐ろしいほどの静けさを感じさせる校舎の中は、自分だけしか存在していないのではないかと錯覚させる。

 廊下に落ちていたモップを拾うと、惠美は一度深呼吸をしてから歩き出す。あの時、勝行が自分を助けてくれたモップだ。傍に彼がいてくれるような気がして、少しだけ心強い。


「モウ、イイ、カァイ」


 階段を上がった先には、洋司だった化け物がいて緊張感が走る。けれど、じっとしているのが苦手だった彼の性格を現しているのか、それはすぐに別の方向へと走り去ってしまった。


 周囲の気配に集中しながら、惠美はあの女の子の姿を探して教室を少しずつ探索していく。出現場所が定まっていればと思ったのだが、勝行を食べた血だまりの傍には彼女の姿はなくなっていた。

 そう思ったのだが、目当ての人物は存外すぐに見つけることができた。


「見ツ、ケタ」


「ヒッ……!」


 洋司だった化け物に気を取られていたせいだろう。音もなく、惠美は背後を取られていたのだ。驚いて振り向いた先には、あの長い黒髪の背中があった。大きな口がパカリと開いていくのが見えて、惠美はすぐに距離を取る。

 向き合っていた足を反転させると、暗闇に包まれた廊下の先を目掛けて走り出した。


 背後から近づいてくる足音は、ぺたぺたとゆっくり歩いている。けれど、なぜかその気配はその緩慢さに反して、猛烈な勢いで惠美へと迫ってきているのがわかった。

 捕まると思った瞬間、咄嗟に後ろへモップを突き出すと、その先端が彼女の身体に当たったようだ。少しだけ距離が離れると、惠美は速度を落とさずに走り続ける。


 しかし、そんな惠美の前に教室の中から飛び出してくる影がぶつかりそうになる。

 それは、下半身だけになった化け物の勝行だった。


「や……っ!」


 立ち止まれば確実に背後の少女に捕まるが、このままいけば勝行に食われる。

 絶体絶命の状況だったが、惠美は走ることをやめなかった。そして勝行が目の前に迫った時、ハードル走のハードルを飛び越えるようにその下半身を飛び越えたのだ。

 その際に牙が脚を掠めて、鋭い痛みが走る。着地の際にも太腿の怪我が痛みを訴えたが、それを気にかけてはいられなかった。


 背後で少女と勝行はぶつかり合い、下半身だけの勝行の化け物は弾き飛ばされる。それでもなお、少女は惠美を追いかけてきていた。ほどなくして、廊下は突き当りにさしかかる。

 そこまできてようやく、惠美は足を止める。突き当りの壁を背に、肩で息をしながら向かってくる化け物の背中に対峙した。武器もない、脚も痛みと恐怖で竦んでしまっている。


「見ツケタァ……!」


 彼女は歓喜の声を上げながら、唾液を垂らす大きな口を目一杯まで開く。それが惠美の頭に食らいつこうとした。

 その時、教室の入り口の影から何かが飛び出してくる。それは、息を殺して惠美の到着を待ち続けていた、春人の姿だった。


 春人が待つこの場所に彼女を引き連れてくる、それが惠美の役割だった。

 目の前の獲物を食らおうとしている少女は、そのことに気がついていない。


「っ……アウト!!」


 惠美を食らう寸前の少女の肩に触れた春人は、腹の底から大声を上げてそう叫ぶ。

 少女は何かを口にしている様子だったが、その言語は二人には聞き取ることができないものだった。

 薄暗いと思っていた校舎の中、その景色が、次第にブラックアウトしていく。

 やがて、春人の意識は完全に途切れてしまった。




「…………ん……」


 目を覚ました春人の視界は、最後に見た時と同じように、真っ暗なままだった。

 確かに瞼を持ち上げていることはわかるのだが、視線を巡らせても暗闇だけの世界に、自分は死んでしまったのかもしれないと思う。

 けれど、春人は自身の頭に自分のものではない重さを感じていた。


 恐る恐る触れてみると、それはよく覚えのある感触だった。

 ゴーグルとヘッドホンを外してみると、現れたのは見慣れた自分の部屋だった。視界の眩しさに目を細め、何度か瞬きを繰り返して明るさに慣れた頃に、窓の外を見てみる。


 すでに日は昇っているようで、時計を見れば朝の九時を少し過ぎたところだった。

 パソコンを見ると、長時間触らなかったために自動的にシャットダウンされたのだろう。ゲームはいつの間にか終了した状態になっている。


(……夢…………)


 少なくとも、数時間は眠っていたようだ。まだ回りきっていない頭で、夢を見ていたのではないかとぼんやり考える。だとすれば、とんでもなく悪趣味で縁起の悪い夢だ。


「……ッ、そうだ、惠美……!」


 そこで、ゲームを終える直前の光景がフラッシュバックする。あれは夢などではない。自分は無事に現実の世界に戻ってくることができたが、惠美はどうなったのだろうか。

 慌てて手に取ったスマホで、彼女に電話をかけてみる。

 暫くコールを鳴らしてみるのだが、一向に応答する気配がない。まさかとは思ったが、嫌な可能性が脳内を駆け巡る。


 スマホに出ないのならと、今度は彼女の自宅にかけてみることにした。すると、三度ほどの呼び出し音のあとに女性が電話を取った。惠美の母親だ。


「あの、突然すみません。ええと、俺、惠美さんと同じクラスの新沼っていいます。惠美さんに電話してるんですけど、繋がらなくて……」


「あらあら、男の子からの電話なんて珍しいわ。恵美がお世話になってます」


 活発な恵美とは違って、どこかおっとりとした声の母親は呑気に挨拶をしてくる。今はそれどころではないのだが、事情を知らないのだから無理もない。

 話がある旨を伝えるとすぐに彼女を呼んできてくれると保留にされた。


『一穂のお母さんから電話があって、昨日は家にいたのに今朝になったらいなくなってたって』


 あの時の、惠美の言葉が脳裏に蘇る。スマホが繋がらなかったのは、惠美がそこにいないからではないだろうか?

 母親は、まだ娘の部屋を見ていなくて、姿が消えたことに気がついていないのではないだろうか?


 最悪の可能性ばかりが、次々と浮上しては春人の頭の中を埋め尽くしていく。

 そうしているうちに、受話器から流れる陽気な音楽が途切れた。誰かが保留を解除したのだ。春人は思わず息を飲む。


「…………春人?」


 聞こえてきた声は、間違いなく惠美のものだった。思わずその場に倒れ込みそうになるが、椅子に背を預けることによって辛うじて逃れる。


「お前……なんで電話出ないんだよ」


「ごめん、ヘッドホンしたまま寝てたから聞こえなくて」


 そう口にする声は、確かに寝起きのようで少しばかり舌足らずなものに聞こえる。互いに安否確認ができたところで、僅かな沈黙が生まれた。急に現実に引き戻されたような状態で、すぐに頭の整理がつくはずもない。


 それでも二人の耳に届くのは、あの恐ろしい隙間風や建物の軋む音ではなく、家族が動き回る生活音や、明るい鳥のさえずりだった。


「アタシたち、無事に戻ってこられたんだね」


「ああ……」


 友人たちの犠牲を思うと、素直に喜ぶことはできない。それでも、現実の世界へ戻ることができたという事実を、今は強く噛み締めるべきだと思った。

 あの時どちらか一方でも己の役割を果たすことができなければ、今こうして受話器越しに言葉を交わすこともできなかったのだろうから。


 夏休みが明けて登校日になる頃には、学校から三人もの生徒が失踪したとあって、どこもその話題で持ちきり状態だった。

ニュースでも連日報道されているし、謎の多い神隠し事件として扱われている。

 胡散臭い専門家だという人間が、好き放題に的外れな見解を述べているのを見ていられずに、テレビを消したことも一度や二度ではない。


 春人と惠美は、失踪した三人と仲が良かったメンバーでもあることは知られている。事情を知らないクラスメイトたちに、事あるごとにうんざりするほどの質問責めを受けた。

 校門の外を取り囲むマスコミから、執拗にインタビューを依頼されたこともある。


 もちろん、一緒にゲームをしていたという履歴から、警察からも事情を聞かれたりした。しかし、二人は誰に聞かれても、何もわからないと返すしかない。

 実際に何があったのかを話すことなど、できるはずもなかったのだ。

ゲームの世界であんな体験をしたなんて話を、信じてもらえるわけがないのだから。


 実際に、あの恐怖を体験した自分たちですらも、あれが本当に起こった出来事なのか疑うことがある。けれど、友人三人は失踪したままで、惠美の脚には今でもはっきりと傷跡が残されていた。

 あのソフトはパソコンからアンインストールをして、二人は二度とVRのゲームで遊ぶことはなくなっていた。

 VRだけではない。普通のゲームをしていても、握っているゲームパッドの感触が、いつ消えるのではないかと気が気ではなかった。



 それから一年半が過ぎて、世間の話題は少しずつ他のニュースへと移り変わっていく。

春人と惠美は無事に高校を卒業し、誰にも話せない秘密を共有したまま、別々の道を歩み始めた。


 インターネットの掲示板では、VRの世界で心霊体験をすることができるのだという、まことしやかな噂が広まっている。その噂を信じてゲームをプレイする者もいれば、よくある怪談話だと取り合わない者もいた。

それが失踪事件に関連しているという者もいたが、どれも噂の域を出ないものばかりだ。


 数年が経った今でも、ゲーム中だった若者たちが突然、不可解な失踪を遂げる事件が報道されることがある。


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― 新着の感想 ―
[一言] 夏のホラー2021から参りました。 怖いけれど、面白かったです。私自身、簡単なVR体験で車酔いをしてしまったことがあるので、最近のVR事情は全く分からないのですが、このお話の背景がよく書かれ…
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