僕の幸福、或いは彼女のスーパーアンハッピーエンド
「何か、言い残すことは」
生真面目にそう言った彼女が、僕はずっと好きだった。
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何か言い残すことを述べよ。死刑に処される犯罪者に、許されざる大罪を犯した彼らに最期の情けとしてかける、定型句。もう何度そう言う人を見送ってきただろうか。いつもと同じようにかけたその言葉には、けれど私は返事なんて期待していなかった。
だってこの相手は、これまでの取り調べに何一つ答えようとはしなかったのだ。この国で殺人と同等の大罪である、悪魔召喚を行なった。さらにその悪魔を己がうちに閉じ込めたと聞いた時には驚愕した。だって悪魔を降ろすのは至難の技で、さらに彼らはあの手この手で人の魂を喰らおうとする生き物なのから、そんじょそこらの人間では降ろそうとした瞬間にあっさり食べられるのがオチである。
だから彼はきっとかなり優れた、さらに言えば芯の強い人間なのだ。それなのに、ボサボサの髪でずっと俯いていたせいで私は何も彼のことを知らずにここまできてしまった。
取調官としてそんなのはあってはならないことだし、私自身自分が取り調べでそこそこ優秀な成績を上げてきたと思っていただけに、何一つ質問に応じない彼にはかなり衝撃を受けた。
馬鹿には、していない。許されざることをしたとは思っている。だって、悪魔を降ろすということは、一歩間違えればその身で世界を滅ぼすということだ。祖先が持っていた魔術の力なんて今は衰えて、普通の人間にはほとんど残っていない。だから私たち人間が悪魔に抗うには先祖返りの魔術師たちを呼ぶしかないのだ。
けれど、魔術師たちはそう多くないし、当たり前だがそういう特異な力は王侯貴族がほとんどを囲ってしまう。だから魔術師が来た時にはもう悪魔のせいで村の十や二十が壊滅している。それはお偉方にとってはただ数千人が減っただけのことだろう、けれど私たちにとっては、殺されるものにとっては世界が滅ぶのと同じことだ。
故の死刑。悪魔を降ろせば、その身は例外なく斬首の後火刑と、そう定められた。首を切れば悪魔はもうその体を動かせない。けれど存在自体を消すには火刑しかないのだ。
…それにしたって酷いことだと、私は思うけれど。一取調官如きが異を唱えられるほどにこの世界は平等ではない。
ぐっと唇を噛み締めるのと同時に、死刑囚の彼が動いた。慌てたように伸ばされた手は、私の唇に向いている。
驚いた拍子に口を開けた私を見て、彼はゆっくりと手を戻した。めちゃくちゃに伸びた髪の隙間から、白い歯が覗く。長く乱れた髪のせいで表情などわからないはずなのに、
「____いや」
それでもなぜなのだろう、彼が浮かべている表情はきっと笑みなのだと、そうはっきりとわかった。
それと、もう一つ。
「言い残すことは、何も、ない」
掠れた声。それなのに何故か、涼やかで優しいその声は。
「ま、さか」
彼が目を見開いた瞬間、固まっていた体の呪縛が解けた。
「あ、ちょっ」
とっさに伸ばした手をすり抜けて、彼が扉をくぐる。その先には死刑場が、そこで死刑を待つ観衆が、彼の死となる場所が。
わあっと歓声のような、悲鳴のような怒号が外で上がった。野次が、罵声が鳴り響いて、頭に浮かぶ私の景色をかき混ぜる。思い出さなければならないはずの景色が、人々の絶叫でかき消される。
殺せ、そう、誰かが____或いは誰もが叫んだ。殺せ。早く殺せ、すぐに殺せ。
禁を犯した堕者を、殺せ!
「待って」
誰にともなくつぶやく。待って、考えさせて、その声を止めて。私に、あの景色を思い出させて。お願い、その声を止めて。私の景色を掻き乱す、その声を。
「まっ、て」
泰然と佇んだ彼に縄がかけられた。その縄の上を滑り落ちた、ぼさぼさのはずなのに何故だか美しい黒髪。
怒号が一層激しさを増した。彼が死刑台の階段を上り切ったのだ。その先に死だけがある、柱一本で支えられた脆い台の上に立って彼は時を待つ。
ずっと伏せていたその顔を上げた、彼の黒い瞳を。私は知っていなかったか。あの優しい声を、あの綺麗な髪を、白い歯を見せた小さな笑みを。私は、____知っていたのでは、なかったか。
殺せ、と誰もが叫ぶ。許されざる悪を招いたその命を狩れと。その身を滅ぼせば、もう悪魔はこの世から消える。効果の憂いは残らない。
本当に?本当に、憂いが消えるのだろうか。
だって、私はあの人を。だって、私は、あの人に。
ずっと不思議だった。囚人とはいえ望めばそれなりの生活ができるのに、初めから散髪も髭剃りも拒否して食事も取らなかったという。私が担当になった後は食事は取っていたけれども、やはり与えられる奢侈品には見向きもせず、取り調べには無言を貫き。
それなのに、何故だか不利な質問にも黙って頷いたあの人。他の取調官から何を言われてもされても、何一つ反抗しなかった。私の前の取調官も、交代で入っていた取調官も、彼の声を知っていたし顔を伏せることもないと言っていた。
彼らはみんな男性だったから、小娘如きに取り調べられるのが業腹なのだろうと、そう思っていたけれど。違う。
彼が、断頭台の上で笑う。静かに、空を仰いでこの上なく幸せそうに。
違う、違う、違う!
「待ってぇ!」
嫌だ。だって。あの人は、私の。
⭐︎
「何か、言い残すことは」
自然なその問いかけにふと頬が緩む。死刑囚に、まして自分のような大罪人に、きちんと定型通りに尋ねる取調官など普通はいないだろう。
目の前できつく唇を結んで僕の答えを待つ取調官の顔が、ふと幼い頃のあどけない表情と重なって見えた。
____昔、ずっと一緒にいた女の子がいた。優しくて真面目で、僕よりほんの数ヶ月年上の可愛い女の子。親友よりも幼馴染よりも、ずっとずっと近い間柄だった彼女。強がりだったけれど本当は僕よりずっと泣き虫だった彼女は、僕の親の都合で別離が決まった時も泣いて泣いて、このまま溶けてしまうのではないかと思うくらいに泣いて、ぐしゃぐしゃに顔を歪めて僕を引き留め、そしてまた泣いた。
転居先は遠かったけれど、最後まで泣いていた彼女が心配になって仕方なくて、引っ越しからそう刻をおかずに僕は彼女に会いに行った。
彼女は僕を見つけて大泣きして、結局泣き止ませることすらできないままその時は家に連れ戻されてしまったけれど、それからも僕は時間を見つけてはこっそりと彼女を見に遠路を駆けた。
最初に会いに行った時、彼女が泣くからと彼女の親から懇願されていたのでもう会うことはできなかったけれど。それでも、こっそりすれ違う人混みに君を見れるだけで、すごく幸せだった。
僕らの祖先が持っていた魔法の力は、もうほとんどの人間が使えない。だけどその力の微かな名残は今の世でも誰もが持っていた。十五の夜に現れた僕の能力は、相を読むこと。
おとなしい性分のはずが柄にもなくはしゃいで、僕は彼女に会いに行った。あの子の両親は十五を一つの区切りとみなしているこの国のしきたりに沿って、十五になれば会っていいとそう言ってくれていたからだ。
そうやって会いに行ったその日。そっと近づいて驚かそうと思っていた僕の前でふと振り向いた君の顔に、は、見たこともないほどはっきりとした死相が浮かんでいた。
悪魔が、彼女についていたのだ。
幸い僕に気づかず視線を戻した彼女からは、しばらく目が離せなくて。呆然とした呪縛が解けた瞬間に今までにない速さで僕は家へと飛んで帰った。
悪魔を倒す方法なんて、普通の人間にはない。うんとお金を積めばあるいは先祖返りの魔術師に頼れたのかもしれないが、十五の僕はもう身の丈を十分すぎるほどに知っていて、自分にも彼女にも、僕の知っている誰にもそんな額は一生かかっても稼げないとわかっていた。
だから、一片の躊躇いもなく身を堕とした。
人で対抗できないなら、人ではないものになるしかない。悪魔の上下関係は、人間のそれよりもはるかに厳格で、揺るぐことはない。何故なら彼らの持つ能力の大きさがそのまま上下の差になるのだから。
家で狂ったように調べて、対策を練った。彼女についた悪魔はまあまあの格持ちだったので、正直それより上位の悪魔を降ろせるかどうかは賭けだったのだけど、無事に召喚は成功した。
彼女を助けることで頭がいっぱいだった僕には悪魔の唆しなんて毛ほどの影響もなかったので、そのままあっさりと僕は彼女についた悪魔を喰らった。彼女の死相が消えたのを確認して、心の底から安堵した。
正直、悪魔に感謝してもいいと思ったくらいに。
けれど、それはそれとして降ろした悪魔をこのまま放置するわけにはいかない。悪魔は取り憑いた対象への影響力を徐々に強めていくので、あの子の悪魔を喰らった時点でもう僕に悪魔を祓う力など残っていなかった。
そうなることは予想していたので自分で命を断つつもりだったのだけど、それに関してはちょっと見込みが甘かったらしい。格持ちを喰らって力を増した悪魔は、僕の力では押さえ込むのが精一杯だった。押さえ込むのに全力を要するくらい悪魔の力は強くなっていたので、多分他のことに意識を向ければ一瞬で悪魔が僕を乗っ取っていただろう。
とても命など断てそうにないと思ったので、僕はさっさと出頭を決めた。警察なら悪魔対策もしっかりしているので、牢に入りさえすれば大抵の悪魔は身動きが取れなくなるのだ。
家族は転勤に転勤を重ねた遠国での永住を決めていたので、別に僕が犯罪者になっても困らない。
あの子を守ることもできて、家族にも別に迷惑はかからなくて、我ながら完璧な幕引きだと思っていたので、その時の僕はまさか彼女が取調官として僕の前に現れるなんて、夢にも思っていなかったのだ。
最初の取調官が口を滑らせて、もうすぐ取調官が彼女に変わると知った、その一瞬の驚愕は彼女の死相を見たときとほとんど同じくらいだった気がする。自首してから動揺したのも焦ったのも、その一度だけだった。
僕の名前はありふれたものだったし、彼女と最後に直接会ったのはあの連れ戻された日だったから、きっと彼女は僕だとわからない。
だけど、万一でも彼女に僕だと知られたくはなかった。だって今の僕は重罪人で、君の前に立てるような人間じゃない。もうあの幼かった頃のように、あんな純粋な思いだけの子供じゃない。
だって僕は、君を守れるなら世界なんてどうだっていいと、そう思った。優しくて生真面目な君は、きっとそういう利己的な考え方が一番嫌いだ。それでもよかった、別に彼女が助かりさえすれば、どうだって、なんだって。だけどやっぱり、君の前にいる僕はあの頃の僕がいい。
僕が僕だと知って嫌われるより、誰かも知らないとんでもない犯罪者として遠巻きに蔑まれる方が良かったんだ。
…だけど、彼女はやっぱり生真面目で、そして僕が思っていたよりずっと優しかった。
何がなんでも気づかれまいと髪をざんばらにして顔を隠した、怪しすぎる犯罪者にもきちんと親身に寄り添った。一度も声を出さない重罪人に、真剣に向き合ってくれた。
…悪魔を降ろすときに、君との別離を僕は受け入れたんだ。二度と会えなくたって、もう君が僕を忘れていたって、元気で笑ってくれていればどうだっていいと、そう思った。なのに君は目の前にいて、あの頃と寸分変わらない瞳で真っ直ぐに僕を見ている。
それだけで、今までの一生分にも勝るほど、僕は幸福だった。幸せで、嬉しくて、______だから、つい気が緩んだ。
唇を噛み締めた彼女が痛々しくて、咄嗟に手を伸ばす。その手を見てポカンと口を開けた君が、可愛らしくて。その瞬く黒い瞳に、僕が映っている。それがすごく、嬉しかった。
「_____いや、何もない」
うっかり声を出してしまった瞬間、しまったと思った。彼女がさらに目を見開く。何かを思い出すかのように瞳が彷徨って、縋る迷子のように手が伸ばされた。
「ま、さか」
咄嗟に身を翻して処刑場へ出る。ここで、彼女に思い出させるわけにはいかない。
でも処刑台の上から見た君の顔が歪んでいたから、その目論見は失敗したのだと悟った。
何かを叫んでいる彼女の声は、怒号にかき消されてわからない。だけど、それが僕に向けられたものだという言葉はわかる。だって君のその顔は、擦りむいた僕よりも泣きそうな顔で傷の手当てをしてくれた、あの時の顔だから。
「ごめんね」
きっとこの声だってかき消されて、彼女には届かないけど。
ごめんね、最後の最後に思い出させてしまった。もっとしずかにひっそり逝くつもりだったのに。だけど、さっき言ったことは本当なんだよ、言い残すことなんて何もないんだ。だって伝えたいことなら、あの日、最後のさよならの時に言った。
______忘れてて、いいよ。いいんだ、忘れて、いいんだよ。
どうか、僕のことなんて思い出さずに、幸せに笑っていて。お願いだよ、神様。僕は悪魔に身を売ったけど、それでもどうか聞き届けてください。彼女に、誰より愛おしい君に、幸の多からんことを。
_________________幸せに、笑ってて。どう、か。
嗚呼。僕は、約束を、守れたのかな。
☆
『元気でね、元気で、幸せになって。君が好きだ、大好きだ、君がずっと笑っていられるように、ぼくが絶対守るから。絶対、ぜったい守るから!』