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花が散る時、私は笑う

作者: Toもろこし

まだまだ書くのが苦手ですが、今の僕に込められるだけの気持ちを作品に注いでます。

どうか、最後までお付き合いください。



葵。それが私に付けられた名前、産まれた時に母が付けてくれた。花見葵、22歳。この名前を貰ってそれだけの年月が経つ。でも本当はもっと長い間、30年以上私は生きている。私は年をとらない、あの時からずっと…。


ー8年前ー

『ただいま、お母さん』

『葵、おかえりなさい。今日もお疲れ様ね』

『うん、今日も先にシャワー浴びるね』

『じゃあご飯の支度しとくわね』

私は実家で母と二人暮しをしている。父親は私が産まれてすぐに亡くなっていた、だから思い出は1つもない。母は私を一人で育て、大学にも行けたし、そこそこの企業にも入社できた。最近やっと仕事にも慣れ始めた。

仕事を終えて帰宅してからシャワーを浴びる。それが私の習慣になりつつあったある日、いつものようにシャワーを浴びようと服を脱いでいたら、左胸の上に黒いアザのようなものができているのに気づいた。

『なにこれ、どこかでぶつけたかな?』

そんなことを言いながら今日一日を思い返す。

『え〜、ぶつけた記憶もないしなあ。しかも何この形、花…かしら?』

葵の左胸にできた黒い痣は変な形をしていた。なにやら花のようで、どこか不気味ささえ感じるほど黒かった。

『お母さん、見てこの黒いの、変なのできちゃった』

私はそのまま母のところに行った。

『あら、葵。そんな格好だと風邪ひくわよ。それにしても何その痣は。どこかでぶつけたの?』

シャワー前だったため、半裸のだらしない格好の私を母は優しく怒り、そして、私の黒い痣を不思議そうに眺めて聞いた。

『それが身に覚えないの、でも触っても痛くもなんともないの』

『痛くないなら少し安心したけど、念のため病院に行きなさいね』

『はーい』

そんな母の言葉に軽い返事をして、浴室に戻った。この時は特に痣のことなど気にも留めなかった。しかし、その痣の恐ろしさに気づくのに私は時間をかけすぎたのだと思う。


しばらくしたある日、相変わらず痣は消えずにずっとあった。そろそろ病院行こうかなと考えていた時、一本の電話がかかってきた。

『もしもし、花見葵さんの携帯で間違いありませんか?』

『はい、そうですが。どちら様ですか?』

『申し遅れました、こちら〇〇病院受付の日高と申します』

電話の相手は淡々とした、いかにも受付のような声でそう名乗った。

『お世話になります。それで、どういったご用事でしょうか?』

『じつは、先ほど花見様のお母様が…』

胸騒ぎとはこんなにも落ち着いたものなのか、それを疑うほど私の胸の静かさと気持ちの高ぶりは逆だった。


『はあ、はあ、お母さん!』

病院の受付から母が倒れたと連絡があり、電話を切るより前に病院へ向かっていた。息は上がるが何故か疲れた感じはしない。それくらい必死だったからだろうか。

そして、花見というプレートが吊るされた病室のドアを勢いよく開けると、ベッドに横たわる母と看護師と思われる人物がいた。

『花見の娘の、花見葵です。その…電話で…聞いて』

『花見様のお嬢さんですね、今先生をお連れするのでお待ちください』

そう言うと看護師は、部屋に私と母を残し静かに出て行った。私はそのまま母が寝ているベッドに近寄り声をかけた。

『お母さん、大丈夫?』

すると寝ているように見えた母の目がほんの少しだけ開いた。

『葵かい、ごめんね、迷惑かけちゃったね』

母はいつものように優しい声で、そう言った。優しい声だ、だけど、吹けば飛びそうなほど弱く小さい声だった。

『そんなこと、言わないでよ、迷惑なんかじゃないよ』

母はいつもそうだ、自分の心配より私を心配してくれる。こんな時でさえそうだった。

『葵、あれから痣は消えたの?病院には行ったかい?』

『やめてよお母さん、私は平気だから、痣なんて…、こんな時くらい自分の心配してよ』

抑えようとしても涙が溢れてくる。その涙が母を失う悲しみからなのか、母の私に対する優しさからなのか、わからない。

すると、部屋のドアががらがらと開き、先ほどの看護師が穏やかそうな男の医者を連れて入ってきた。私は涙が出るのも忘れたかのように、藁にもすがる気持ちでその医者に問いかけた。

『先生、母は…大丈夫なんでしょうか?』

この瞬間から実感があったのかも知れない、信じたくない、考えたくない、だけど実の娘だからこそわかる。母はもう助からないと思った。心の隅のどこかにその確信はたしかにいた。

『花見さん、私を恨んで頂いても構いません。私も手を尽くしましたが、お母様はもう…助かる見込みがありません』

たとえ、自分の中の確信であっても杞憂で終わって欲しかった、ただの貧血とかであって欲しかった。足をひねって転んだとか、そして、二人でそのドジさに笑う。そのくらいであって欲しかった。悲しみでも怒りでもなんでもない言葉で表せない感情で頭がいっぱいだった。医者も看護師も、そして私も俯いたまま重い静寂が部屋を包んだ。

『葵』

その静寂を打ち破ったのは、あのか弱い優しい母の声だった。

『葵、本当にごめんね、葵を一人にしちゃうのが本当に辛いわ。でも、あなたは優しい子だからきっと大丈夫よ、きっと沢山の人に恵まれるわ、幸せになってね』

そう言うとお母さんは優しく微笑んだ。

『やだよ、お母さん…』

『ごめんね…』

『逝かないでよ、1人にしないで』

『…葵は…葵なら大丈夫よ…』

『…お母さん…う…お母さ…ん』

『…幸せに…な…ね』

『お母さん、お母さん!』

『…』

ピーという無情な電子音が母の鼓動の停止を告げた。微笑みながら眠りについた母を私は泣きながら抱きしめるしかなかった。


その後のことは半分も覚えていない。お母さんが脳梗塞で倒れたことや、運ばれてもずっと私のことを気遣っていたこと。それくらいしか私は覚えていなかった。そんな無気力な状態のまま、親族だけで葬儀を行い、遺品整理も終わった頃に痣のことを思い出した。正確には痣を心配してくれた母のことを思い出した。私は薄々普通の痣ではないことを感じていたし、万が一のことも考えて病院に行くことにした。


『こんにちは、花見様。お久しぶりです。今日はどうされましたか?』

母が亡くなった日以来の顔合わせになるこの病院の看護師はとても物腰柔らかに聞いてきた。

『随分前から胸の上に痣ができて、それが気になって診てもらおうと思って』

そんな病院でのやり取りを済ませて、診察の順番が来るのを、柔くも硬くもないソファの上で待っていた。

『花見様〜花見葵様〜』

『あ、はい』

診察室から看護師がひょこっと出てきて私を呼び、診察室に案内された。

『こんにちは、花見さん。今日はどうしました?』

『前から胸の上に痣ができて、気になってしまって』

『なるほど、少し見して頂いても大丈夫ですか?』

あの日とは別の優しそうな医者にそう言われて、自分の服の胸元を少しだけ下げた。やはり黒い花のような痣はあった。

『ただの痣のように見えますが、消えないのが気になりますね、腫瘍の可能性もありますから一度精密検査をしてみますか』

『お願いします』

痣が気になって診察をしに来たのもあるが、お母さんが亡くなる前に言っていた、私に幸せになってほしいという願い。それを腫瘍かなんかのせいで不意にしたくない。そんな想いも強かった。


精密検査は初めてでとても長く感じた。MRI検査は未来感がすごく、内視鏡は辛かった。マンモグラフィなんて痛くて泣きそうにもなった。そんな検査を一通り終えて結果を例のソファで待っていた。するとまた看護師が私の名を呼んだ。先ほどの診察室に入り、先生が私のカルテやらレントゲンやらを見ながら話し出した。

『花見さん、結論から言いますと命に別状はありません。悪性のものではありませんでした』

普通ならホッとして、先生に感謝の言葉を言うのだろうがそれが私にはできなかった。いや、先生の表情がそれをさせなかった。ようやく絞り出した声で私は尋ねた。

『他に原因があるということですか?』

医者は難しい顔をしている。なにやら考えているようだ。

『…なんといいますか、私も初めて見る症状でして、このレントゲンとMRI結果を見てもらえますか』

すると医者は私の胸の部分であろうレントゲンとMRIの画像を見してきた。しかし、その画像は素人目にも異常がわかる状態のものだった。

『分かると思いますがこの胸の部分。ちょうど痣がある所から心臓の方に根を張るよう糸のようなものが伸びています』

命に別状はないという安心感を持っていても、その画像の不気味さには背筋が凍るような気がした。さらに医者は続ける。

『この糸みたいなのが花見さんの心臓に絡みついている状態でして、その糸の親玉のようなものがその痣なのだと思います』

言っている意味はわかるが理解は追いつかない。本当に命に別状はないのか、言いにくいから伝えないだけ?いらぬ憶測ばかり出てきたが医者はこれからが本題ですと言わんばかりに前置きをした。

『問題は花見さん。あなたの心拍数です』

『私の心拍数に問題が?』

『はい、最初は私も機械の故障だとも思いました。しかし、この痣や、心臓に伸びる糸の動きから確信に変わりました』

相変わらず理解は追いつかないが、確かなことがあった。それは…

『花見さん、あなたの心臓は一日に一回しか拍動していません』

それは…きっと、私は治らない病気なんだ。

それでも不思議なもので疑問は出てくる、第1になぜ生きているのか、そして私はどうなるのか。その疑問をなんの感情もなく、答えを求めるためだけに医者にぶつけた。医者は私の見解ですがと話し出した。

『本来1日に数万回以上動く心臓ですが、花見さんはその数万回をたったの1回で済ませているのです。つまり、我々の数万日は花見さんにとって一日と考えられます』

『すると、どうなるんですか?』

『はい、恐らくは成長の停滞かと。つまり、花見さんはこのまま時が止まったように、ほぼ永遠に今の状態だと考えられます』

その後の話は信じられないことの連続でぼんやりとしか覚えていない。手術しようにも心臓周りが複雑でできないこと、周りに公言しないこと、完治の保証はないこと、もっとたくさんあったかも知れない。もうどうでもいい。ただ今思うのは、私だけずっと成長せず、このまま1人だということ。友達も親戚も周りは年をとり私だけ残してみんな逝くんだ、もう、置いて行かれるのは嫌。何も失いたくない。それなら、何も手に入れなければ…私はその日から人と関わるのをやめた。



謎の痣に悩まされてから8年が経つ、前いた職場はやめて、転職し次の職場には7年間いた。しかし、そこもやめた。周りが興味を持ち出したから。それもそうだ22歳から7年間も見た目が変わらないやつを不思議に思わない人はいない。そして次の転職先に入社して一年が経とうとしていた。



『葵さん葵さん、今日新人さん来るらしいですよ!しかも男の子!』

いつものように朝出勤した私に、私と同じ一年ほど前に職場に来た同僚の女の子が話しかけてきた。

『あら、そう』

私は答える。必要最低限の返事。誰にも興味はないし関わりたくもない。この同僚も名前しか知らない、たしか香織だったかしら。曖昧だけど。そして私は自分のデスクに置いてある書類にペンを走らせた。

『も〜う、葵さんは相変わらず冷たいなあ』

そんなことを呟きながら香織は全く同じ話題を別の社員に投げていた。周りからしたら新人がくる少し新鮮な朝のためか、社内は少しざわついていた。すると会社のドアから、絵に描いたような部長が1人の若者を連れておはようと入ってきた。連れられている若者もおはようございますとキビキビ挨拶している。

『皆さん知っていると思いますが、今日から我が社で働くことになった優くんだ。さあ、自己紹介してもらおうかな』

部長がそう話す横で落ち着かない様子でずっとそわそわしていた青年が、はい、と大きな返事をして話し出した。

『きょ、今日からお世話になります。水槍優と申します!21歳です!よ、よろしくお願いします』

一種の義務感のようにまばらな拍手がパチパチとなる。その様子を部長がうんうんと眺めた後にまた話し出した。

『それで、誰かしばらく優くんの教育をしてもらいたいんだ』

と、誰がいるかなと部長がキョロキョロし出したところで香織が勢いよく手を挙げた。

『はいはーい!私、葵さんがいいと思います!』

『…え?』

『だって、優くんのその元気を葵さんに分けて欲しいもん!』

香織さん、あなたって割と余計な事をする人なのね。

人と関わるのを避けたい葵に乗って新人の教育係など面倒事でしかなかった。そんな考えをよそに部長はそれはいいと香織の提案を受けトントン拍子に新人の教育係になってしまった。


『あの、葵さん』

『なに?』

恐る恐る名前を呼ぶ優に葵はいつもより冷たさのこもる返事をした。

『この書類ってどうしたら?』

『そこの資料にやり方が載っているから参考にして』

『あの、葵さん』

『なに?』

『ここって計算合ってますか?』

『パソコンで打ち込んで確かめてみて』

『あの、葵さ…』

そう言いかける優に葵は食い気味に言葉を遮り話した。

『水槍くんだったかしら、人に聞くのは自分で調べてからにしてくれる?私も忙しいから』

『す、すみません』

きつく言ったことは認めるが、葵にとってはそれが最適解だった。人に関わると最後はろくなことにならない。それをこの8年で身をもって経験している。それからその日一日優が葵に質問をすることはなかった。葵が業務を終え終業時間になり帰り支度をしているとなにやら緊張した様子の優が話しかけてきた。

『あ、葵さん。その、ラインを交換して欲しいです』

そういうと彼は携帯を取り出し胸の前に抱えている。ラインは葵もやっているが友達は8人のみで全て会社の同僚や上司だ。もちろん業務連絡のみでプライベート使用は一切ない。

『ええ、いいわよ』

葵にとってはなんでもないが優にとっては勇気がいるものだったらしい。それもそうか、朝に結構きつく言ったしね。携帯の画面をボーっと眺める優を置いて葵はそそくさ帰路についた。

家に帰ってシャワーを浴びる。もうこの痣も見飽きた。数年前から痣による病への不安はもう割り切っていた。今ある不安は、あの新人。教育係となると嫌でも多少は関わりを持つことになる、そこで変に私に興味を持たれたらアウト。即転職だ。できれば1つの会社に5、6年はいたい。そんな事を水に濡れた体を拭きながら思っていた。

成長しない体とはいえお腹はすくもので、冷蔵庫に作り置きしておいたチャーハンを温めていた。すると、葵の携帯にポップな音でラインのメッセージがきた知らせが表示される。

『仕事、何か残ってたかしら』

プライベートのラインを一切しない葵にとって、ラインの通知は仕事の連絡以外ないもので、しかもそれすら滅多にない。しかし、携帯の通知はゆーと名乗るユーザーからのものだった。

『ゆー…ああ、水槍くんの名前、確か優だったわね』

例の新人からのメッセージで教育係の立場にあることもあり、葵の中で仕事絡みの連絡であることへの考えは確かなものになっていたが、その確信は案外早く崩れた。なぜならゆー改め、優の送ってきたメッセージは仕事とは全く別のものだった。

[お疲れ様です! あの、もしよければ今度お昼ご一緒できませんか?]

葵は一瞬呆気にとられたが、葵の答えは決まっている。もちろんNOである。今まで同僚の誘いは断ってきたし、上司ですらたまにしか行かない。今ではご飯に誘われることもなくなった。しかし、問題は断り方である。変な返事は相手に余計な事を考えさせてしまう。出来るだけシンプルかつ、簡潔に。

[ごめんなさい、私今ダイエットでお昼抜いているの]

もちろん嘘である。夜にチャーハンをを食べる女がダイエットなどするはずもない。お昼を隠れて食べなくちゃ。そんな考えが頭をよぎる。すると続けて返信が来た。

[そうですか、でもどうしてダイエットしてるんですか?

葵さん十分痩せていると思いますよ]

葵は思った。もしかしてこの新人、少ししつこいかもしれない。仕方なく葵はきつくメッセージを送ることにした。

[あなたには関係ないでしょ、私寝るわね。おやすみ]

そう送ると流石の新人も、すみません、おやすみなさいとしか送ってこなかった。



次の日優は早速大きな声で挨拶をしてきた。

『葵さん!おはようございます』

『おはよう』

私は目すら合わせず手元の書類に印鑑を押していた。しかし彼は怯まず迫ってきた。

『あ、葵さん、今日の仕事は…』

『はいこれ』

私は彼が何かを言い終えるより先に少し厚めのプリントファイルを渡した。

『あの、これは…?』

『うちの会社の基本業務のやり方よ、それ読めばだいたいわかるようにしてるから』

このファイルは昨日の夜仕上げたものだ。それさえ渡せば彼が私に業務を聞く回数も自然と減るし、仕事を覚えてくれたら晴れて教育係卒業ということになる。

『あ、ありがとうございます!』

『どういたしまして』

そう言うと彼は早速ファイルを開いて中の内容を丁寧に読んでいる様子だった。

ファイルの効果は絶大だったのかその日彼が私に質問してきたのは一、二回ほどだった。

終業時間になり、帰り支度をしていると、昨日同様に優が話しかけてきた。

『葵さん、この後時間だ、大丈夫ですか?』

『この後?そうね、特に何もないわ』

もしかして、残業かしら。残業用のファイルも作ろうかなと思っていると。

『そ、それなら夜ご飯一緒に行きませんか?』

しまったと思った。その線を忘れていた。この後何もないとうっかり答えてしまった上にダイエットはお昼で使ってしまっている。どうしよう、と考えた末にたどり着いた答えは、今日一回限りにする事だった。

彼と一緒にきた店は会社のすぐそばにあるパスタ店だった。

『葵さんは何食べますか?』

『ペペロンチーノにするわ』

先程から落ち着かない様子の彼の質問に淡々と答え、ウエイターに2人分の注文を済ませた。その間彼は私に話しかけてきた。

『葵さんって、よくクールとかって言われませんか?』

『そうかしら、言われるかもね』

私は彼の顔は見ずに、外のまばらな人通りや頻繁な車通りに目をやりながら答える。

『絶対そうですよ、現に今もそうですし』

若者らしいキラキラした笑い声を含ませながらそう言ってくる。葵は疲れる子だなと思った。私が適当に相槌を打ちながら彼の話を流し聞きしているとウエイターが料理を運んできた。幸い麺類で良かった、これならすぐに食べ終えれる。いつもより少し早めに食事をとり、彼も食べ終わった。

『さ、帰りましょうか。私出すから先に出てていいわよ』

『え、そんな、誘ったの僕ですし、僕に出させてください』

そんな事を言う彼を差し置いて会計をそそくさと済ませた。店の外に2人で出ると優が葵に言った。

『あ、あの、ぜひまた今度一緒にご飯食べませんか』

本当ならすごく大きなため息をしたい気持ちを抑え込む。そして心に決める。やっぱりうんときつく彼に伝えることにした。

『水槍くん。今日はありがとう。ひとまずお礼を言うわ。だけどね、私あなたが思っている以上に他人に興味がないし関わりたくもないの。現に友達も1人もいないし私には必要ないの。教育係ってだけでも気が滅入るのに、これ以上仕事のこと以外で私に関わらないでくれるかな』

思っている事を言った。何一つ隠さずに。それだけ言って私は振り返り帰路につく。その時も彼の顔は見なかった。その時は見れなかったのかも知れない。


『水槍くーん!どうしたのそのかお!!』

朝から香織が優に詰め寄る。

『いや、昨日一睡もできなくて…へへ』

香織の元気さと別世界の住人のような落ち込み方の優はそう答えた。

『へへ、じゃないよ!どうしたの、仕事辛いの?私何かできることある?』

『いえ、そんな申し訳ないです。1日くらい大丈夫です!』

朝から元気と空元気のやりとりが行われるオフィスにドアの開閉音が響き、おはようございますとだけ言って葵が出勤してきた。

『あ、葵さん、おはようございます。ちょっと葵さん!新人の水槍く…んんん』

香織が葵に優の状態を伝えようとしたら口を優に抑えられてしまった。

『すみません、香織さん。葵さんには内緒で!』

『え、なんで、君の教育係だよ?』

『だからです、変な心配かけたくないんです』

『えー、水槍くんいい人すぎだよ。困ったら私でもいいから言うんだよ』

小声で話す優につられて香織も小声になる。香織にありがとうございますと伝え、互いに自分のデスクに戻る。

葵は相変わらず淡々と業務をこなす。隣の優は当然ながら仕事などままならない。優が今日早退しようかなと考えていると葵さんの近くに部長がやってきた。

『葵くん、急ぎで申し訳ないんだけどこの書類明日の昼までに処理できそう?』

部長の手にはちょっとした本くらいの分厚さの書類があった。

『明日の昼までですか、なんとかなると思います』

『流石葵くん、助かるよ。残業代たんまり出すからね』

そう言うと部長は席に戻った。部長も言っていたように明日の昼までとなると残業確定コースで、優がしようものなら三日はかかるほどの量だった。葵さんのすごさを再確認した。

『僕、手伝いますよ』

『大丈夫よ、そのかわりこれをお願いするわ。明日完成したら渡してちょうだい』

少しでも葵さんの負担を減らそうと持ちかけたがあっさり断られた。かわりに一つのUSBメモリをもらった。どうやらプレゼンで使うパワーポイントのようだ。

その日もいつものように終業時間がきた。少し違うといえば葵が残業することくらいだろう。

『すみません葵さん。先に失礼します』

『お疲れ様』

やはり葵は淡白な返事しかしない。太陽が色を橙に変え、オフィスに淡い光を届けながら沈んでいく。そんな中黙々と作業をする葵の背中を見ながら優は会社を後にした。


『やらかした、やってしまった』

優はそういいながら息を切らして会社に向かっていった。ついさっきまでいた会社に。

『あのメモリ持って帰らないと終わらないよ』

今朝、葵から受け取ったUSBメモリを会社に忘れた事を風呂上がりに思い出し、若さが取り柄と言わんばかりの全力疾走で会社に向かった。

会社のオフィスには未だに電気がついていた。葵がまだ残業をしているようだった。

そろりと階段を上がり、失礼しますと言いながらドアを開けた。オフィスの中には机に突っ伏して寝ている葵がいた。起こさないようにそろりそろりと自分のデスクに近寄りUSBを回収した優はほんの好奇心で葵の方に目をやった。

『やっぱり、かわいいな』

すうすうと小さな寝息を立てて寝ている葵の顔はとても美しくまるでそこだけ時間が止まっているかのような神秘的な顔をしていた。優はしばらく葵の寝顔に見惚れていた。



さすがにこの時間帯になるときつい。だけど、このままのペースでいけば明日の昼には余裕で間に合う。時間配分を考えながら、葵は一人きりのオフィスでカリカリとペンの音を響かせていた。時間は10時をまわりいつもの葵ならとっくに眠りについている時間だ。

『さすがにきつくなってきた。少し仮眠をしようかしら』

そう思い、携帯にアラームをかけた。仮眠をすると決めた瞬間に眠気はピークを迎え突っ伏すように眠りについた。その時は葵は夢を見た。



暖かく感じる黄色い光の中幼い頃の私が今は亡き母と手を繋いでいた。小さい私は母にこんな質問をしていた。

『お母さんはどうしてお父さんと結婚したの?』

『お父さんのことを好きになったからよ』

『好きになるってどんなかんじなの?』

『そうね、好きになるってことは……』

『お母さん、聞こえないよ』

すると私の手を握っていた母の手がするすると離れていった。私は何度も握ろうとするが握れない。母の姿もだんだんと遠ざかっていく。

『やだ、お母さん、置いていかないで。1人はもう嫌だよ。お母さん』

小さい私は質問の答えを知ることなく泣きながら母を呼ぶ、何度も何度も。だけど、母は答えてくれない。私の前から消えていくのだ。



『あ…いさ…あおい…さん…葵さん!』

私が目を覚ましたのはアラームではなく聞いたことのある声だった。そこには新人の優が立っていた。

『水槍くん。あなた何しているのこんな時間に。それにどうして起こしたの?』

『今朝もらったUSBを忘れてしまって。それで取りに帰ったら葵さん寝てて、そしたら急に泣き出しちゃって…心配になって起こしてしまいました』

『泣き出した?』

そう言われて自分の頬を手で触る。あ、本当だ。何でだろう、涙が出ていた。夢の中で泣いたからかな。不思議な夢だった。

『何か怖い夢でも見てましたか?』

本当に心配そうな優の顔を見ると、なんだか母のことを思い出す。

『そうね、そんなとこかしら。今日はもう帰るわ、あなたもすぐ帰りなさい』

『わかりました。葵さん、無理しないでくださいね』

『そうね、ありがとう』

例のごとく葵はそっけない返事をする。しかし、その夢を見た時から止まっていた時計の針は進み出したのかもしれない。



新人の水槍くんが職場に来て三ヶ月が過ぎていた。その間特に大きな事件もなくあともう三ヶ月すれば教育係も卒業かしらと胸をなでおろす気持ちだった。

優は相変わらず葵に話しかけようとしてくる。以前仕事以外で関わるなと言われてからはどうにか仕事に結びつけて話題を振っていた。しかし、優は何を思ったのかこんなことを聞いてきた。

『葵さんのご両親てどんな方ですか?』

『どうして?』

『あ、いや、自分母子家庭でして。それで少し気になったというか。葵さんに似て美形なのかなとか…思ったり思わなかったりで』

たじろぐ優の言葉で唯一気になったのが母子家庭ということだ。

そっか、水槍くんはお母さんに育ててもらったのね。なんだか少し親近感が湧く気がしたが、危ない、とその気持ちを押し殺した。

『そう、立派なお母様ね。私も似たようなものよ』

『え、そうなんですか?』

『これ以上は話すことはないわ、仕事しなさい』

まだ聞きたそうな顔を隠しきれずに彼はしぶしぶ仕事に戻ったが独り言のように話し出した。

『僕、昔はかなり暗い性格だったんです。だけど、母はそんな僕をずっと優しく育ててくれて。優しいだけで充分よ、あなたは優しいって書いて優なのよって。ずっとそうやって言ってくれたんです』

いつもの私なら気の無い返事をするはずが何故だかとても続きを聞いてみたく感じた。私も母に優しいと言われたからだろうか。

私の沈黙を彼は話を聞いてくれると感じたのかそのまま続けて話した。

『そんな母の言葉が嬉しくて、僕も母みたいに優しくなろうて思ったら、だんだん気持ちも明るくなって』

そう語る彼の顔は今まで見せたことない優しさに包まれる表情をしていた。そんな彼を見て何故だか自然と言葉を発していた。

『そんな素敵なお母様に育てられたあなたも、きっと素敵だと思うわ』

『え!』

私は、小さく驚く彼を横目に次こそ仕事しなさいと言わんばかりに業務に戻った。


その日の夜、優から葵の携帯にラインが届いた。

[お疲れ様です。今日はなんだか話を聞いてもらってすみませんでした]

[それくらい大丈夫よ、明日はしっかり働いてね]

優から仕事以外のラインが来るのは三ヶ月ぶりだ。それもそのはず、一度葵が関わるなと釘を刺したからである。もちろん、今でもそのことを覚えているが彼の話から感じる母の面影の所為で指摘する気分になれなかった。

[あの、本当に失礼だと思います。聞き分けのない部下だとも思います。一つお願いしても大丈夫ですか?]

[期待に答えられないかもしれないけど、何かしら]

[その、もう一度だけでいいんで、僕とまたご飯に行って欲しいです]

私は最初の頃のような気がすり減る感情は無かった。むしろ、なんてもの好きな人なんだろうとさえ思えた。あれだけきつく言った人をもう一度誘うなんて。変な人だと思った。

[本当にこれが最後ね]

[え、いいんですか!?ありがとうございます]

とりあえずはOKした。行きたくない気持ちはもちろんある。人とは関わりたくないから。だけど、彼の見せたあの優しい顔。それがどことなく母に似ていて、また母に会えるかもしれないという少しの期待もあった。

[それじゃあ寝るわ、おやすみ]

[はい!失礼します]

会話が終わりベッドに入る。最近寝る前になるとあの時会社で見た夢を思い出す。あの空間でどんどん離れていく母。最後の質問の答えだけ、思い出せない。あの時母はなんと答えていたのだろう。



『葵さん、僕それ持ちますよ』

『ありがとう』

彼が自分の母親の話をしてから、なんだか彼の中にある優しさを近く感じるようになってきた。ただ、それを私に向けられるのは正直苦手だった。

『やっぱり、水槍くんの教育係は葵さんで正解でしたね〜』

彼に荷物を渡している時に横からへらへらと香織が入ってきた。

『ちょっと、香織さん!やめてくださいよ』

彼はいつも香織に茶化されている気がする。

『香織さん、そんなことしてないで仕事してください』

『げ、葵さんはやっぱり冷たい、氷の女王ね』

『なんとでも言いなさい』

そういうと香織はしぶしぶ自分の仕事に戻った。

『香織さんっていつもあのテンションなんですかね』

『だいたいそうね、早く運んでしまいましょう』

そう言って2人で荷物を倉庫に運びに行った。その様子をちらりと見ていた香織は部長のところに駆け寄ってこう言った。

『部長、最近葵さん、ほんのすこーし角が取れた気がするんです』

『お、香織くんもそう思う?実は僕も感じていてね、若いっていいね』

『ちょっと部長、私もまだ22なんですけど』

『そうだったかな、ははは』

新人の水槍優。彼が来て職場は一段と明るく優しくなった。そしてその明るさや優しさが、1人の女性に届くまではもう少し時間がかかりそうであった。


2人で荷物を運んでいると、優の方から葵に話しかけた。

『あ、葵さん。この前のご飯なんですが、今週の土曜なんてどうでしょう?』

『私はいつでも結構よ』

『それなら、土曜の夜にお願いします』

彼は安堵した様子で荷物を運んでいた。

この時、私はある事を悩んでいた。この職場を、明るく優しいここを、やめるかを。



私は、その日家に帰って悩んだ結果、転職をすることに決めた。理由はいたって単純で、職場の人との関わりが増えたからだ。明日にでも退職届けを出せば来週からは有給扱いでそのまま何事もなく去れる。水槍くんと会うのも今週の土曜が最後だろう。私は早速辞表を書いた。



土曜日の夜はすぐにやってきた。今日は優が車で葵を迎えに来るらしい。少し天気が怪しかったが問題はない、どうせご飯を食べたらすぐ帰るつもりだし。すると葵の携帯に優から着きましたとラインが来ていた。

『迎えに来てもらって悪いわね』

『そんな、全然大丈夫です!これくらい!』

そう言って彼はニコッと笑った。ああ、やっぱり似ている、確かな影を残している。優しさの溢れるお母さんに似た笑顔。会いたいよ、お母さん。

『葵さん、どうしました?』

『ううん、なんでもない。さ、行きましょう』

そう言って車に乗り込み、彼の静かな運転で車は走り出した。彼が連れてきてくれたのは隣町のレストランで、そんなに高価な印象はないが静かで、だけどしっかりと人の暖かさと活気のある不思議なところだった。

予約していたらしく、どんどんコース料理が運ばれてくる。初めてくる場所に少し戸惑いの気持ちがあったが、彼の言葉でその気持ちはなくなった。

『実は、やっぱり葵さんのご両親の話を聞きたくて』

彼はバツが悪そうに話し出した。

『前、葵さん、僕と僕の母のこと素敵だって言ってくれましたよね。僕も、素敵な葵さんのご両親がどんな方か気になって』

彼の顔は店内の照明に照らされなくともわかるほど紅いのがわかった。実際私も少し照れる気持ちもあったが、質問に答えるのを優先した。

『私ね、父も母もいないの。父は私が産まれてすぐ、母は私が22の時に亡くなったわ』

『…っ…すみません…まさか…自分本当に馬鹿ですね』

『気にしなくていいよ、特に話していなかったもの』

『すみません…そういえば葵さんて僕のいくつ上ですか?』

『あなた21歳でしょう。私は22だから一つ上よ』

『え、てことは葵さんのお母さんてつい最近…その、亡くなられたんですか?』

しまった。やってしまった。彼が見せる母の優しさの残火に油断をした。全ての計算が狂う。不幸中の幸いといえば彼と会うのが最後だということ。どうしよう、なんていえば納得してもらえる。そんな焦りを持っているのが馬鹿らしくなるくらい彼は呆気なく話し出した。

『1人でも、葵さん優しいから人に好かれますよ。絶対大丈夫です、僕も葵さんの力になりますし!』

私は驚いた、亡くなった母と同じことを言っている彼の顔を見た。そもそも私は彼に優しくした覚えはない。けれど、そんな彼の言葉にもう少しだけ油断してもいいかなと思えた、私の秘密を知る人が1人増えてもいいかなと思えた。

『水槍くん、少し面白いもの見してあげる』

そういうと私は服の胸元を少しだけ下ろした。あの痣が彼に見えるように。

『ちょ、葵さん?ここお店ですよ、何してるんです!?』

『いいから、ほらここ見て』

彼は周りを気にしながら紅い顔のまま私の指差すところを見た。

『これは、花の…痣ですか?』

『まあ、そんなところね』

『なんか、花の形葵さんぽくて良いですね!』

そんなトンチンカンなことを言う彼に、私は自然と今までのことを話した。

母が亡くなった時のこと。この痣のせいで成長が止まっていること。友達も作らず、人と関わるのを避けていること。なぜ、そこまで話したのかと聞かれたら私はなんと答えるのだろう。ただ、確かなことは、彼はいつもの優しさのある顔で私の話を最後まで聞いてくれた。

『やっぱり、葵さんて優しい人だったんですね』

全てを話した私に彼はそう言った。

『なんかずっと、葵さんは実はもっと奥の方に自分を閉まってるんじゃないかって思ってて、失礼だとは思いますけど、昔の自分ぽくて。でも、今日は本当の優しい葵さんを知れて良かったです』

良かった。今日が最後で。これ以上は私には耐えられない。あなたが私をどれだけ知ろうと、流れる時間は違う。みんな、いずれは私を置いていく。だから、これで良かった。置いて行かれるくらいなら、私からいなくなる、それでいい。今は少しでも、母に近づけて良かった。そう思う。

『今日はご馳走さま。さ、行きましょう』

『僕の方こそ、本当に素敵な時間でした。また来週からよろしくお願いしますね』

本当の最後、言わなきゃいけない。彼に対して、私は嘘をつけない。そして私は彼に伝えた。

『私、仕事辞めるの』

『え、それってどういう』

『そのままの意味よ、言ったでしょ、みんなが私のことを知ると色々困るの』

『そ、そんな…急ですよ、みんなも絶対わかってくれますよ』

彼は必死にそう言う。やめて。お願いだからもうやめて。違うの、そんなんじゃないの。

『香織さんだって、普段はあんなだけど頼れるし…!』

お願い、もう嫌なの。失うのは嫌なの。置いていかれたくない。

『部長は頼りないけど、おっとりしてて職場は和むし!』

これ以上、私に近づかないで。母の面影を見せないで。私には辛すぎる。

『やめて』

『あ、葵さん?』

『もうやめて、あなたに何がわかるの。自分だけ時間に取り残されて、周りはどんどん追い抜かしていくの、その辛さがあなたにわかる?手に入れたら失う恐怖があなたに理解できる?あなたのその優しさが、母に似ていて、怖くなる。手に入れても最後はどうせ私を置いていくから!』

ああ、最低だ私。彼は私を気遣ってくれている。なのに、私ときたら、最低だ。気がつけば車は葵の家の近くまで来ていた。葵は優にごめんなさい、ありがとう、とだけ告げて車を降りた。またしても葵は、彼の顔を見れなかった。出かける前の天気は2人の心を読むかの様に冷たく悲しい雨を降らす。



『み、水槍くん!久しぶり見たよそのひどい顔!』

『あ、香織さんおはようございます』

『絶対二日は寝てないよね!?しかも何で目が腫れてるの!仕事のこと?うちってそんなにブラックだった?』

体調不良にも無遠慮なテンションの香織は案の定優に絡む。

『ちょっと、香織くん。うちはブラックじゃないよ、変な誤解を生むだろ』

そんな香織に部長が訂正を入れる。

『でも、これは一大事ですよ!教育係の葵さんはまだですか!』

ぷりぷりと怒る香織さんに部長は僕と香織さんにだけ耳打ちをしてきた。

『実は葵くん、先週末に辞表を出してきてね、残りの有給を消化しているんだ』

『ええええええ、葵さん、やめちゃったんですか、どうして?やっぱりブラックだから』

小声でも十分テンションの高い香織さんに部長は困りながら続けた。僕は静かにそれを聞く。

『僕もね、思い当たる理由がなくてね、心配しているんだけど、プライベートのことはどうも…。でも、辞表はまだ僕のところで止まってるから気が変わって戻ってきてくれないもんかね』

『さすが部長!やっぱりホワイトですね!』

部長と香織さんもそれぞれ心配しているんだ。やっぱり、みんな何だかんだ葵さんが好きなんだ、あんな風に冷たくて、淡白で、仕事ができる葵さんが好きなんだ。それなら、本当の優しい葵さんも、みんなはきっと好きになる。今よりもっともっと好きになるに違いない。体に熱が巡るのがわかる。

『ちょっと、水槍くん、大丈夫?』

香織さんと部長が心配そうに僕に聞いてくる。僕はやっぱり馬鹿だ、諦めきれない。諦められるもんか、本当の姿を見してくれた葵さん、僕は何も彼女に恩返しできていない。

『部長、お願いがあります』

『お、なんだい?』

『今日、早退してもいいですか』

部長はニコッと笑って答えた。

『しっかり休めよ』

僕はありがとうございますと言いすぐに会社から出た。その様子をポカンと眺めてた香織が部長に聞く。

『水槍くん、どうしちゃったんですかね』

『いやあ、若いっていいね』

『ちょっと、だから私も22ですって!』

『ははは、そうだ、香織くん。これシュレッダーにかけておいてくれ』

部長はそう言って、香織に辞表を渡した。



いざ仕事がないと部屋ですることはない。ただぼーっと求人サイトを眺める。次はどこに転職しよう、思い切って海外。なんて、くだらない考えも出てくる。水槍くんは、しっかり仕事できているかな、香織さんに茶化されているかな、そんなことを思うと、やはり後悔する。やっぱり人と関わるとろくなことにならない。教訓だ、この思いは忘れずに教訓として覚えておこう。葵はそう思った。なのに、どうして、涙が溢れてくる。触れたくなかった優しさ、触れてしまうと優しいのに悲しい。助けてよ、お母さん。私、幸せになれないよ。

どんどんと葵の家のドアを叩く音がする。誰だろう、涙を拭っても誤魔化せないほど目が腫れていたが気にしてても仕方ない。ドア越しに問いかける。

『ど、どちら様ですか?』

『葵さん!僕です!水槍です!』

どうして、どうして君は。この前で最後だったじゃない。最後に伝えたじゃない。

『僕、まだ葵さんに伝えてないことが、伝えなきゃいけないことが!』

ドア越しに彼の優しい声が聞こえてくる。私は彼に問いかける。

『じゃあ、教えてよ、何を伝えようとしたのか』

『それならドアを開けてください』

『いやだ』

『どうしてですか?』

『私今、目が腫れてるから』

『僕もです、これでフェアです、開けてください!』

おそらく彼は開けないとずっといるだろう、どうせこの土地を去るなら、彼の伝えたかったことを聞いてからでも遅くはない。そう思って、私と彼を阻む扉を開けた。

『おはようございます、葵さん』

言っていた通り彼の目は腫れた上に寝不足みたいで酷いものだった。

『それで、何かしら』

精一杯の冷たさで、彼に問いかける。

『僕、葵さんが好きです。大好きです』

『やめてよ、迷惑だって言ったでしょ』

お願い、これ以上、あなたを好きなっちゃダメなの、母の面影は私が手に入れたらダメなの。

『それでも好きです。部長だって、香織さんだって葵さんのことが好きなはずです』

『それと私の気持ちは関係ないじゃない』

『葵さん、あなたみたいに優しい人が幸せにならないなんておかしい!置いていかれる悲しみに耐え、自分の欲を抑えて、周りに気を遣って、そんな優しい人が、僕の好きな人が辛い思いをしているのが耐えられない』

『私は幸せになったらダメなのよ、それに私は幸せなんか望んでいない』

『やめてくださいよ、そんな嘘』

本当なの。

『本当のこと教えてください』

だから本当なの。

『あの時みたいに、僕に話してくださいよ』

彼はぐちゃぐちゃの顔で私に笑いかけた、あの母のような優しい笑顔で。その時私の中の感情の壁が崩れる音がした。

『…なりたいよ…幸せになりたいよ、こんな病気だっていらない、永遠に生きなくていい、お金もいらない、時間もいらない、ただ、誰かにそばにいてほしい』

私は泣いていた。彼の顔は見れない、立つのがやっとだった。

『それって、僕じゃだめですか?』

『私…あんなにひどいこと言った』

『そんなこと気にしてないですよ』

『謝らなきゃいけない』

『今全て許しました!』

『それに…私少しおばさんぽいよ』

『いいですよ』

『友達だって1人もいない』

『一緒に作りましょう』

『痣だってあるし』

『一緒に治して行きましょう』

『無職だし』

『僕から部長に言います』

彼が一つ一つに答えるごとに私の涙は増して込み上げてくる。

『私、幸せになっていいのかな?』

『もちろんです』

その言葉を最後に私は彼の胸の中で赤ん坊のように泣いた。母のような微笑みの彼は泣いた私を抱きしめていた。

そして、私は泣き疲れてそのまま彼の胸で眠りについた。



暖かく感じる黄色い光の中、幼い私の手を母が強く握っている。私は母に尋ねた。

『お母さんはどうしてお父さんと結婚したの?』

『お父さんを好きになったからよ』

『好きになるってどんな感じなの?』

『好きになるっていうのは…』

ああ、まただ、この前のように、母の手は私の手から離れていく、握ろうとしても握れないのだ。だけど今回は違った。母の方から私の手を握りなおしてくれた。

『好きになるってことはね、その人と同じ時間を生きたいと思うことなの』

『お母さんは、お父さんがいなくても平気なの?』

母は首を横振る、だけど答える。

『でも、私には葵がいる、葵と一緒に同じ時間を過ごしたい。あなたもいつかそういう瞬間が訪れるのよ』

そういうと母は私に微笑み、私を強く抱きしめてくれた。もうこの夢は見ることはない。確信できる、その瞬間が訪れたのだ、お母さん、ありがとう。大好きだよ。お母さん。



目がさめると私はベッドの上にいた。床には水槍くんが寝ていた。一晩中、見てくれていたのかな。彼の寝顔はやはり優しい顔だ、だけど母のものじゃない、彼の、彼本来の優しさが現れていた。

そのあと彼は仕事の時間に間に合うように起きて、そのまま仕事に向かった。私はその間彼に何度もお礼を言った。言って足りないほどの感謝があるから。

泣いたまま寝たせいか髪はボサボサで目は腫れていた。あまりに目に余るのでシャワーを浴びることにした。未だに問題は沢山ある。何よりこの痣だ。彼は一緒に治してくれると言ってくれた。たとえそれが叶わない夢物語でも、私はとても嬉しかった。

『さてどうしたものかな』

左胸に目をやる。その瞬間、彼女を8年間苦しめた呪いの終焉を知らせる。

彼の言葉が浮かぶ

『一緒に治していきましょう』

また涙が出る。ここ最近泣いてばかりだ。彼女は泣きながら笑う。約束守るの早いよ…と。

彼女の左胸にあった不気味に咲く黒い花。彼女から幸せと笑顔を奪い続けたその花は、散ると同時に彼女の笑顔を種として残した。



ー3年後ー

『ちょっと、葵、それ私のケーキですよ!』

『香織は食べすぎ、たまには我慢して』

すこしの言い合いが日常化した職場に部長から元気だねえと細い目で見られる。そんな日常が心地よい。

『おはようございます』

『あ、水槍くん、葵また私のケーキ食べてるんだよどう思う?』

『ははは、香織さんは少し食べすぎだと思いますよ』

『ひゃー、夫婦揃って同じこと言う』

『ちょっと香織、勘違いしないで夫婦じゃないから』

そんな三つ巴の小競り合いに部長が終止符を打った。

『はいはい、そんなことより、誰か外回り行ってよ、もう水槍くんと葵くんのおしどりコンビでいいから』

『部長まで…、夫婦じゃありませんから』

『どうせもうすぐなるでしょ、ほら、早く早く』

みんなが違う反応を示す。みんなが違う考えを持つ。だけど流れる時間はみんな同じ。そのことが何より嬉しい。そして、私は彼と一緒の時を過ごす。これからもずっと。

お母さん。私、約束守ったよ。

私は今も、幸せの時を歩く。






























最後まで読んでいただきありがとうございます。読者様の心が少しでも温まればなと思います。感想、ご意見などできましたらお願いします。

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