恐怖のうすのろばかまぬけ
「うすのろばかまぬけ」というトランプゲームがある。ローカルルールなどもあるだろうから細かな説明は割愛するが、「せーの」の掛け声とともに1枚ずつ両隣の人とカードを交換していき、早く同じ数字のカードを4枚揃えた者の勝ち、というようなゲームだ。
あれは、忘れもしない中学3年の夏休み。私たちは6人で友人の家に集まると、その「うすのろばかまぬけ」大会を開いた。
楽しいはずのトランプ大会。しかし私たち6人は、その誰もが手に汗を握りしめ、普段は見せたことのない真剣な表情をしていた。
その部屋は箪笥なども置かれていた6畳ほどの和室で、車座になった私たちは身を寄せ合うようにして座った。窓からは真夏の午後の強い西陽が差し込み、当時はまだエアコンなどという高級品はなく、邪魔だと言って扇風機さえも廊下に持っていってしまった。人いきれと激しいバトルで部屋の中は蒸し風呂のごとき状態となり、次第に頭がクラクラしてきたことを今でも鮮明に覚えている。
6人が車座になって座った場の中央には、5本のマッチ棒が置かれている。誰か一人でもカードが揃うと、一斉にそのマッチ棒を奪い合う戦いが始まるのだ。つまり、マッチ棒を取れなかった「うすのろ」一人だけが負けとなるルールで、負けた人にはポイントが与えられる。そのポイントを「う」「す」「の」「ろ」の順に加算していき、「うすのろばかまぬけ」の「け」まで、つまり9個ポイントをためてしまうとゲームオーバーとなり、罰ゲームが与えられる決まりになっていた。
6人は同じ卓球部の仲間であり、レギュラーの座を競い合うライバルでもある。そして卓球というスポーツが持つ特性でもあるのだが、その誰もが反射神経には自信を持つつわものであった。
中学3年の男子というと、体は大きくなったとはいえ、まだまだ手加減することを知らない子供の残酷さを併せ持っている。マッチ棒を奪い合う光景は熾烈を極めた。肉食動物の獰猛さ、まさに弱肉強食の世界だ。
「揃ったー!」
掛け声とともに一人の者がマッチ棒を奪うと、残りの5人もすぐさまそれに続く。
「うおりゃー!」
「このこのこのォー!」
「そのマッチ棒を、寄越しやがれェー!」
くすぐりに電気あんま、カンチョーに4の字固めと、マッチ棒を奪い合う戦いは次第に過激さを増していく。家人が留守だったこともあり、ドタンバタンと狭い部屋の中は、まるでプロレスのような凄絶バトルの会場と化した。
そしてその時の私は、もう後がないところまで追い詰められていた。ためたポイントはすでに「ぬ」まで達し、あと一度でも負けるとゲームオーバーとなり、問答無用で罰ゲームが待っている。そしてその時用意された罰ゲームとは、無邪気な子供の残酷さと、中3男子の悪ノリがコラボした、恐怖としか言い様のない凄絶なものだった。
絶体絶命とはまさにこのこと。私はこの時まさに、断崖絶壁の上に立たされた気分を味わっていた。しかし私の他にも一人、断崖絶壁に立たされている人物がいる。それが私とはレギュラーの座を競いあう一番のライバルである、篤だった。
くそう、篤にだけは負けるわけにはいかないぞ。そう思いながらちらと彼の方を見ると目が合った。普段は温厚な篤だが、あんな罰ゲームは死んでも嫌だと、その目には不退転の決意が宿っている。そう、それは、後に横綱まで上りつめた日本相撲協会の現理事長である八角親方が、まだ保志の四股名で相撲を取っていた時代の、若き日の目だった。
「揃ったー!」
その篤の口が突如動いたかと思うと、彼の体は素早く下へ動き、1本のマッチ棒を手にした。
「えっ?」
不意を突かれた私は、それに続くマッチ棒争奪戦に乗り遅れた。そこにはもはや私の入り込む余地はなく、他の4人が繰り広げる激しいバトルを呆然と見送ることしかできなかった。
ああ、やばい……。これで死の罰ゲーム行きが決定だ……。
奈落の底へ突き落とされたような絶望感に項垂れた私だが、ふと視線を落とした先に、奇跡のような光景が待っていた。
4人が馬乗りになって繰り広げているバトルの隙間から、1本のマッチ棒が転がり出てきたのだ。
ああっ!
そう思った時にはもう、体が反射的に動いていた。私はヘッドスライディングでもするように倒れ込みながら、転がり出てきたマッチ棒へと左手を伸ばしていた。しかしその私の顔面を、ジタバタともがく誰かの裸足が勢いよく踏みつけた。魚の目と水虫にまみれた足の裏は強烈な臭いを放ち、さらにそれらがべとつく汗で撹拌されることで、苦味に酸味、挙句の果ては生臭い魚の臭いまで加えた規格外の臭いとなって怒濤のごとく押し寄せた。すぐにそれは健太郎の足の裏だと見当がついたが、私は折れそうになる心をアドレナリンの力でなんとか奮い立たせると、健太郎の足を押し退けた。
ええい、お前ら、邪魔するでないっ! それはワシのマッチ棒じゃあ~!
そして私は、天から降りてきた一筋の蜘蛛の糸を掴む犍陀多よろしく、必死の形相で件のマッチ棒を掴んだ。
よっしゃあ~!
そう私は心の中で、雄叫びの声を上げた。
しかし喜んだのもつかの間。その時私は、握りしめた左手の中に妙な違和感を感じて手を開いた。見ると愕然とした。なんとそのマッチ棒は、真ん中からポキリと二つに折れてしまっていたのである。
「うっ――」
うわあと悲鳴を上げそうになり、すんでのところで堪えた。どうやら握る時に力を入れ過ぎたせいで、マッチ棒を折ってしまったようだ。
私たちの間では、マッチ棒を折ったり失くしたりしても、やはりポイントが加算されてしまうルールとなっている。つまりマッチ棒を折ってしまった時点で、リーチがかかっている私の負けが決定する。それは即ち、恐怖の罰ゲームが私に課せられることを意味していた。
その瞬間、真冬の東尋坊から日本海の荒波へと突き落とされた私は、クラクラと眩暈にも似た感覚に襲われ、首すじから吹き出した気持ちの悪い汗が、いく筋もTシャツの中を伝い落ちていった。
い、嫌だ! あんな罰ゲーム、死んでもやりたくないっ!
追い込まれた私は半ばパニック状態に陥りながらも、折れたマッチ棒を真っ直ぐに伸ばし、折れた箇所を親指と人差し指で挟むようにして持った。そして誰にもばれないように場の中央に戻そうと画策した。
もちろん、こんなことが知れたら即座に死の罰ゲーム行きである。私の全身は地雷を除去するミッションを与えられた兵士のように、緊張で強ばった。そしてプルプルと震える指で慎重に、なんとかそのマッチ棒を場の中に戻すことに成功した。
「ふう~」
安堵の息を吐き出したものの、よく見ればそのマッチ棒が真ん中で折れていることは明白だ。だが、そこばかり見ていては怪しまれるだろうと思い、あえて顔を上に向けて何気なさを装った。
そこでは誰もがもう次のゲームに集中していて、折れたマッチ棒のことなどには気付かないようだ。
しめしめと、私の中の悪魔がほくそ笑む。
そして次のゲームが始められた。やがて一人のカードの数字が4枚揃い、再びマッチ棒の争奪戦が始まった。
私は間隙を縫うようにして、無事に折れていないマッチ棒を確保することに成功した。それから周りを見回し、件の折れたマッチ棒が篤の手の中にあるのを発見したのである。
ふっふっふっ、と私の中の悪魔はいよいよ暴走を開始した。
「あー、篤のマッチ棒、折れているー!」
私は、篤の手元を指差しながらそう叫んだ。許せよ、篤。そう、誰だって自分が一番可愛いのだ。
「あー、ほんとだー!」
「な、なんでー? 俺、折ってないよー」
当たり前じゃ、それを折ったのはワシじゃ。そんなことにも気付かぬのか、このうすのろ野郎め、と私の内なる悪魔が毒舌を吐く。
「俺じゃない! 俺じゃないってばー!」
「うるさいっ! つべこべ言わずに刑に服せっ!」
この罰ゲームを考案した武史が問答無用の断を下す。武史の巨体に睨まれた篤は、それ以上言い返すことができなくなった。
こうして篤の負けが確定し、恐怖の罰ゲームが与えられることとなった。
ああ、こうして冤罪というのは作られていくのだなと、一歩下がったところでその様子を見ていた私は、大人社会の歪みを垣間見たような気がした。
私たちは負けた篤に罰ゲームを与えるため、家の外に出ることにした。
「嫌だ嫌だー!」
鼻水を垂らして泣き叫ぶ篤の首根っこを押さえ、生贄のごとく連行する。さすがにこちらは5人がかりなので、篤は逃げ出すこともできない。その様子はまるで、満員電車で痴漢を働き、警察に引き渡される惨めな犯罪者のようであった。
ああ、あの情けない姿は本来であれば自分の姿だったのだなと、私は今更ながら胸を撫で下ろした。実は私が真犯人ですと名乗り出ようなとどは、爪の先ほども思わなかった。
「もし悪い噂でも立って、うちのせんべいが売れなくなったらどうするんだよ?」
「うるせー。心配しなくても誰もお前んちのせんべいなんか、買わねーよ」
篤はせんべい屋の倅である。極端に低い鼻と肉感的な丸い顔立ち。まるで本人がせんべいのようだと、同級生からはよくからかわれている。まあ、今でいうところの典型的ないじられキャラという奴だ。
そんな篤の手には、涼しげな水色の大きな風鈴が一つ与えられている。それは、この後罰ゲームで使う小道具だった。
篤はその風鈴を見つめながら下を向き、しばらく俯いていたが、顔を上げるとこう言った。
「俺、やっぱりできないよ」
それは往生際が悪いというよりも、最後にみんなの意見を聞きたいという、確認作業だったように私には思えた。
「うるせー、お前、負けただろー」
「そうだそうだー」
真の敗者である私も、どさくさにまぎれてみんなの意見に同調する。
ひとしきり泣き叫んで抵抗した篤だが、もう逃げることはできぬと観念したのか、その瞬間、顔からすうっと表情が消えていくのが分かった。開き直りとも違う、どこか超然とした態度のように私には感じた。悟りを開いた僧侶の顔というのは、もしかするとこういうものかもしれないと、私は思った。そう、篤はこの瞬間、解脱したのだ。
白熱のトランプ大会を終えると灼熱の太陽は西の空に沈み、通りには夕陽が影を落としていた。友人の家は閑静な住宅街にあったので、通りを歩く人影はまばらだ。たまに、夕餉の買物へと急ぐ主婦の姿があるくらいである。
そして篤はその大きな水色の風鈴を握りしめると、我々の輪を抜け出し、人気の絶えた夕暮れの通りへと、一人よろよろと彷徨うような足取りで歩いていった。
篤は目の高さに風鈴を掲げると、ゆらゆらとそれを目の前で振った。少し猫背気味の背中が、いつもより丸まって見える。
ちゃ~~り~~ん……。
清涼なはずの風鈴の音色が、どこか不気味に響きわたる。
「変質者だな」
その様子を見ながら、巨漢の武史がポツリと呟いた。
確かに武史の言うように、目の前にぶら下げた大きな風鈴をゆらゆらさせながら、不気味なほど無表情のまま、覚束ない足取りで一人、人気のない通りを彷徨う男子中学生というのは、これはもう誰が見たって立派な変質者である。しかもこの日の篤は、激しいバトルとなるトランプ大会に備えて、センスがないと評判の、中学校で使うくすんだ臙脂色のジャージを穿いていたのだ。3年も穿き続け、草臥れたそのジャージはゴムが伸びきっており、膝は抜け落ち、おまけにツンツルテンという有り様だった。
激しいバトルで止めを刺されたそのゴムの伸びきった臙脂色のジャージを、篤はまるで腰パンでもするみたいに白いブリーフも見えようかという危うさで身に纏っていた。
「うん、あれぞ変質者だ」
「ミスター変質者だ」
「This is 変質者」
「変質者の鏡」
今や篤は、変質者の名を恣にしていた。
そして通りの向こうからは、60絡みと思しき年輩の主婦が歩いてきた。割烹着姿のその主婦は、大根の入った小振りな買い物かごを右手にぶら下げている。恐らく夕飯の支度途中で焼き魚に添える大根おろしがないことに気付き、急いで買いに出た、とでもいったところだろう。
篤はゆらゆらと風鈴を振りながら、その主婦へと近づいていく。
ちゃ~~り〜~ん……。
主婦は、覚束ない足取りで自分の方へと近づいてくる気味の悪い中学生にいち早く気づくと、迂回するようにそれを避けようとした。しかし篤は、夢遊病者のような足取りながらも、まるで磁石に吸い寄せられるように、その主婦へと近づいていく。主婦はそんな篤とは目を合わせまいと、俯きながら割烹着の裾を押さえ、足早で路地の端を通り抜けようとした。だが、もとより狭い路地のことなので、気の毒なその主婦に逃げ場はない。
行く手を塞がれた主婦が顔を上げると、そこには能面のように表情の消えた篤の不気味な顔があった。
「ひっ!」
この時もはや、変質者の域を越え妖気さえ漂わせつつある篤が、目の前にぶら下げた風鈴を揺らし、不気味な音色を奏でる。
ちゃ~~り〜~ん……。
そして、その平べったい丸顔からあらゆる感情の消え失せた能面顔の篤は、静かにその重たい口を開いた。
「ボク……、バカです……。あなたは……?」
尋ねられた主婦は、まるでホラー映画の妖怪に追い詰められる登場人物のように、その顔に驚愕の色を浮かべると、口をパクパクさせた。どうやら腰を抜かしたようで、壁に背中を押し付けたまま、身動きが取れなくなっている。
そして、この時もはや現世の苦悩から解放され、解脱を手に入れた妖怪南部せんべいは、もう一度同じセリフを口にした。
ちゃ~~り〜~ん……。
「ボク……、バカです……。あなたは……?」
「あう、あう、あう……」
恐らく誰かに助けを求めているのであろう気の毒なその主婦は、ピクピクと癲癇発作を起こした人のように前方に翳した左手を震わせ、そのあまりの恐怖に舌の根も合わぬのか、叫び声すら上げられずにいる。
ちゃ~~り〜~ん……。
夕暮れの通りに、また不気味な風鈴の音色が響きわたる。
そして我々5人組は、門の影に隠れて息を殺しながら、その一部始終をいつまでも眺め続けていた。